他のレンズから

   突然ですが、朝井リョウの小説に『武道館』というアイドルをテーマにしたものがあります。正直、この小説を読んだのはずいぶんと前で、詳細な内容については曖昧なのですが、冒頭のあるエピソードについては強く覚えています。それは、主人公であるアイドルの女の子が幼い頃、偶然、親子時計の撮影をしてもらうことになった時のことを思い出す場面です。

   愛子はただ、あのカメラを向けられてみたいと、と思った。
   こちらに向いているカメラのレンズは、選ばれた人しか通り抜けられない狭くて暗いトンネルに見えた。あのトンネルを通り抜けることができたとき、自分はきっとテレビの中のあの子みたいにかわいくなっているーー愛子は、太陽の陽射しに負けてしまわないようどうにかぱっちりと目を開きながら、そんなふうに思っていた。

   被写体として選ばれることの喜び以上に、レンズの向こうへと強い衝動を抱えた幼年期の記憶は、その場に居合わせた不安げな母の表情とともに思い起こされます。その母は、別の男の人のもとへと去る、つまり女として求められることを選ぶわけですが、母の姿はレンズを向けられた記憶とどこか重なっているかのように直後の箇所で語られます。

 

   さて、この「レンズ」の話から分かるのは、他人の眼差しの向こう側には、何か自分の知らない世界が広がってるんじゃないか、そういった期待がかきたてられるということだと思います。レンズは、他人の眼差しがごく純化されて現れた表面とでも言っていいのかもしれせん。キラキラした世界。輝いた世界。晴れの世界。そういったものが持つ魅力って、恐らくこういった「自分はきっとこうなっている」=「そこから見える世界を通して自分を見つめ返したい」と思わせてくれるところにあるのではないでしょうか。「着飾りたい」とは似てるけど異なる感情だと思います。身を移した人に何か劇的な変化が起こるといっても、レンズの向こうに行って起こる変化ってどんなものなんでしょうね。今回乃木坂の二作目のドキュメンタリー『いつのまにか、ここにいる』を観ながら、私はそんなことを漠然と考えていました。

 

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   映画のインタビューの中で、西野は自分のやりたいことが見つからないまま卒業に踏み切ったということをふんわりと明かします。けれど一方で、乃木坂を辞めるときに芸能界も引退するとかつては口にしていた彼女は、なぜそこに留まる決断をしたのでしょうか?明確な答えは出ません。けれど、西野は映画の中で「現場」の空気が好きだと語ります。カメラや照明、マイク、音響さん、メイクさん、監督さん、マネージャー……様々な人とともに「何かをつくる」という営みの中に身を置くことが心地いい。撮影の合間、ふとした時に人が離れて一人なる瞬間が好きだ、とも語ります。彼女の言葉には、今いる場所にある無数の人やモノ、そこから互いに向け合う眼差しへの意識があるように感じられました。何者であるかを問い続けなければという彼女のあり方に、彼女が「現場」と呼ぶ場所は少しだけポジティブな「眼差し」を与えてくれるのかもしれません。


   映画の後半、とはいえ最近のインタビューとか色んなメディアの中で語っていることでもありますが、飛鳥ちゃんは「他人への期待」について語ります。ある時期からの飛鳥ちゃんって「自虐の言葉」が多いですが、それってやっぱり、他人には言われたくない言葉を口にする一種の自衛だと思うんですよね。つまり、嘘をつける場所や範囲が限られてるからこそ、大園が以前にしくじり先生で語って映画の中でもインタビューで答えている「キャラを作れないから、叩かれると本当の自分が否定されている気持ちになる」という事態から自分を守ろうとしてると思うんですよね。であればこそ、飛鳥ちゃんが変化を望むタイミングで、自分を求めてくれる他人に身をまかせるっていうのは、「他人から見た自分に触れてみたい」「この人が私を見るように、私は私自身を見てみたい」という気持ちなのかな、と思いました。加えてそれが、彼女たちがカメラやステージに立つ理由の一つだったら嬉しいな、とも。

 

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   映画は、徹底して「名前しか知らなかったアイドル」と監督の距離感が保たれています。知らない人に興味を持って近づいてゆき、監督の身体が消えないあたりが個人的には観ていて気持ちよかったです。カメラを向ける自分ではない、ある一人がどんな風に目の前の世界を見てるのかって、その素朴な興味から始まってるから、私には「良い」ものに感じられるんですね。メンバー自身の「眼」にどんな世界が営まれているか?その問いや関心をもった映像からは、彼女たちが生きることに誠実な姿が伝わってきます。個人的には偶像であることとか、理想であることとか、そういった感情とは別の迫り方をしてきます。だから、乃木坂ストーリーの裏ではこんなことが起きていたとか、そういった既存の大きな虚構を紐付けてくれるものではないと思いました。けれど、「何者か」の答えに近づくために彼女たちが目の前の他人の眼差しにどこかで惹かれていることは、この映画のストーリー(ここにしか現れない固有の虚構)としてきっちりグループとか、アイドルとか、スターダムって言葉に帰って来ていたので希望的でした。レンズの向こうで彼女たちがどんな眼差しを得たのか?そんなことを、観た人の背中を押すように、優しく示してくれているように思います。

 

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