とめどない青

 先日、一冊の本が出版されました。タイトルは『乃木坂46ドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』*1、著者である香月孝史さんが2015年から2017年にかけて青弓社のWEBで連載していた「乃木坂46論」に大幅な加筆修正を加えて書籍化したものです。香月さんは、Real Soundなどを中心にして乃木坂46について多くの文章を発信している方です*2。あるブログでは本書のレビューというかたちで、かつての「AKB論壇」*3と比較して「乃木坂46論壇」なる言葉が登場しますが*4、そういった論客的な語りに含まれる程度に、言葉を多く発信されている方です。

 実は、香月さんの本より以前に、こうした乃木坂46「論」を試みた本が出版されています。それは、2016年3月に出版された、土坂義樹さんによる『乃木坂46という「希望」:彼女たちの表現世界が語る“もうひとつの声”』です。こちらでは、映像作品の読解を中心に話題が展開されてゆくのですが、「論」の部分では「紐帯」といったワードが用いられ、当時の社会学やメディア論のムードに悪く言えば乗っかるかたちで書かれている印象を受けました(さらに言えば、こういった観点自体が2000年代のオタクカルチャー分析の手つきのひとつであり、AKB論壇もある面ではそういった書き手たちによって支えられていた)。

 香月さんの本が画期的であるのは、「演劇」という観点から、「アイドル」の分析へと向かっている点にあります。元々、彼は歌舞伎などの「カルチャー」と「大衆」の相補的な関係を分析していた経緯などもあり*5*6、特に日本において言語化が十分になされていない舞台芸術というジャンルを、領域横断的かつ俯瞰的に捉えているように思えます。そういった背景もあるためか、彼の「アイドル」へ向かう眼差しは、例えばポップカルチャーについて語る際に陥りがちな、過度に同時代的なものを読み込もうとしてしまうこと、レトリック的読解のさきに「世界観」という曖昧な語へ逃げ込んでしまうこと、消費動向のあり方に終始してしまうこと、といった事態を回避し、かつテーマの焦点化を図ることで作品や演者に対して内在的にあることを可能にしています。内在的、というのは、コンテンツを通して演者や個々の実践を「対象化」「歪像化」することなく向き合うことでもあります。とにもかくにも、ライブ、握手会、スぺイベ、テレビ、配信、SNS、ブログ、モバメ……といったかたちで偏在することによって(逆に、そういった偏在性がゆえに「アイドル」というジャンルは先のメディア論などと相性が良かったとも言えるわけですが)、実像が極めて捉えづらい「アイドル」に対して、あくまでそのあわいにある「演劇」的側面にフォーカスすることからスタートしている点は、トップアイドルでありながらコンセプトを明言しない乃木坂46というグループを考えるうえで、非常に実りの多い立脚点を示していると言えるでしょう。

 さて、そんな香月さんの議論において私が特におおと思ったのは、「スターシステム」および「エイジズム」の放棄という二点です。前者は、『すべての犬は天国へ行く』のような「アイドルが出演する必然がない舞台」をグループ主導で成立させたことの意義であり*7、後者は乃木坂46がグループでの活動や舞台の場などにおいて「成熟の過程」を旧弊的な価値観から距離をとって提示できているのではないか、という指摘です。こうした議論は、「大衆芸能」について陥りがちな紋切り型のイメージから読者を解放するという意味でも、乃木坂46に限らず幅広い射程を持ったものであると言えるでしょう。 

  さて、遅くなりましたが、今回のブログについて説明しておきます。今回は、コロナによって予期せぬかたちで生まれた暇な時間のオタ活で、すなわちここ数か月くらいで見聞きしたものについて、雑多に書いてゆきたいと思います。ただ、それでも一応ぬるっとテーマ的なものがあった方がいいかなと思ったので、乃木坂46のコンテンツには含まれないけれどそれらに対して一定の尺度を与えてくれる香月さんの本の紹介から始めました。というのも、2020年に入ってから乃木坂46は明確に「ドラマ」「演劇」「演技」といったものをプッシュしています。それも、活動の幅を広げたというよりも、より深く根を張ってゆくような「深化」として現れているように思えます。

 私のイメージでは、2015年は、ドラマ、映画、紅白といったかたちでグループが世間に広く認知されてゆく段階にありましたが、翌年からは、モデルやラジオといった場により精力的に活動の場を広げてゆきました。例えば、昨年BRODY乃木坂46ラジオ特集が組まれましたが、それ自体も、2017年にラジオ番組表*8で初めて特集が組まれたことを思えば、二週目の出来事であることが分かります。そういったかたちで昨今の乃木坂46は基盤を固めたうえで、むしろ内側の新陳代謝を図っているように思います。

 分かりやすいのが、さきほど言った「演技」に関する映像コンテンツです。3月にリリースされた25thシングル『しあわせの保護色』の特典映像には、メンバーごとの個人PVが用意されていますが、それらはすべてのメンバーではなく、新加入の新4期生のもののみとなっています。一方で、シングルリリース日とほぼ同時期には、dTVで従来の4期生メンバーによるドラマシリーズ『サムのこと/猿に会う』が配信されています。さらに、これら二つに先行するかたちで、昨年12月末から3月にかけて配信・地上波放送されたのが『乃木坂シネマズ~STORY of 46~』です。こちらでは、1期生から3期生までで選出された10人のメンバーが、様々な監督と組み、一話完結のドラマが作られました。『乃木坂シネマズ』の監督には、これまでに個人PVで携わってきた馴染みの監督も名を連ねており、さきの新旧4期生による映像コンテンツと合わせて、「個人PV」というあくまで内側に向けられていた映像コンテンツが、より拡張されたかたちで発信・取り扱われていることがうかがえます。

 さて、2020年、グループの活動が9年目を迎え、中心メンバーである白石麻衣が卒業するタイミングで、前述のとおり運営が「演技」に注力しているという事実は、このグループがなにを強みとしているかを明確に示しているように思います。前置きが長くなりました。そんなわけで、今回のブログの一応のテーマは乃木坂46の「最近の演劇について」です。……とまあ仰々しいことを言ってはみたものの、あくまで最近観たものを中心とした雑感と紹介なので、内容も長さも順序も全部テキトーです。

 

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松村沙友理のこと

 『東京ワイン会ピープル』は、昨年秋に全国公開された、松村沙友理の初主演映画です。タイトルの通り、松村演じる普通のOLだった会社勤めの女性が、上司に誘われたワイン会で、全く知らないワインの世界に惹かれてゆくというストーリーです。正直なところ、私の観測範囲だとあまり話題になっておらず、当の松村自身もあまり話題にしている様子がなかったので、期待はあまりなかったです。その評価は、映画を観終えた後も変わりませんでした。松村の相手役になる男性が序盤で早々に逮捕されるというトリッキーな展開はあまり成功しているとはいえず、ワインの魅力という点でも、少しありきたりな着地点に落ち着いてしまったため、コアさやニッチさが削がれすぎている印象を受けました。松村の演技の上手い下手については、インタビューで本人が自然に演じられ、テイクもあまり重ねなかったと述べるとおり、良くも悪くも無難なかたちに収まっています。とはいえ、『賭ケグルイ』で演じたような、コミカルかつ感情表現の多いアイドル役などと比べて、決してはまり役ではなく、かつこれまでのようなキャラの強くない自然な役を演じている姿は新鮮ではありました。

 続いて紹介するのは、『乃木坂シネマズ』第3話にあたる松村主演の『超魔空騎士アルカディアス』です。こちらのストーリーは、ゲーム会社に勤める松村が、理想の出会いをするために知人に教えられた黒魔術的な儀式を行う。しかしそれによって現れたのは、大きな紙きれ一枚の騎士、中学生の頃に書いていた自作漫画の主人公だった。……という、まあ、自分の「黒歴史」に向き合ってゆく、少しほっこりできるコメディです。軽くネタバレをしておくと、このドラマではゲーム会社で松村がシナリオを描きたいという気持ちにふたをして営業をしています。過去の「黒歴史」は、そういった意味でも、かつて抱えた「理想」からの復讐でもあるわけですが、騎士の登場がきっかけで松村はゲームのシナリオをひとつ書くことを決めます。以下に引用するのは『アルカディアス』で、松村がシナリオを書き上げた場面で、PCに映るシナリオの最後の部分の文章です。

 こうして、前代未聞の学園祭をどうにか乗り切ったちまこ達美術部一同だったが、決まったイベントはなくとも、日々過ごすありふれた日常の少しの時間の中にたくさんのキラキラや素敵なことがあふれていることに気付いてからは、世界がとてもカラフルで虹色の光に包まれているようにすら思えるようになる。

 だからわたしたちは今日もまた、このアトリエの扉を開き、わたしたちの世界を、わたしたちなりに、素敵だと思う色で彩り続けるのである。

  こうした物語に触れて、なんとなく、藤子・F・不二雄の『劇画・オバQ*9や、高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン*10なんかを思い出してしまいました。これら二つの作品は、物語の登場人物たちが「終わり」に向き合い、それによって幼少期との決別を描く物語です。先の『アルカディアス』にそこまでの強度や悲痛さがあるわけではありません(むしろポジティブです)が、しかし、過去がながしかの力によって働きかけても、新たな「理想」を立ち上げ、それによって書き換えられてゆく以上、今作で描かれているのもまたひとつの過去との静かな決別なのだなと思いました。

 『ワイン会ピープル』に続いて、ごく普通の女性を演じた松村を観ていて、なんとなく「アイドル」という役を終えつつある(かもしれない)彼女が、強固なキャラや「アイドル」である自らについての語りではない、そういった「分かりやすさ」から零れ落ちるようなささやかな身振りの中で「演技」の魅力を立ち上げられるようになっている気がしました。それはしかし、技術としての「演技」の向上以上に、彼女自身の人となりの成熟にあるような気がします。だからこそ、「自然な」演技で監督の意図にこたえられるのでしょう。正直に言えば、やっぱり松村なんかは2月のバースデーライブのDay3で観た時のような、グループの活動のときに最も魅力が輝いていると思います。今でこそ、乃木坂46を足掛かりにして様々な「次の道」へと分岐してゆくのは当たり前のムードになりました。なんなら、新メンバーたちにも加入の段階で個々人の適正を図るような見方がある気もします。けれど、そういったときに、松村のような初期からの中心メンバーが、必ずしもグループの外側に自分の強いモチベーションを求めていない姿を見せることの意味は大きいと思います。松村の場合は特に、積み重ねてきたことが自然体な姿へと結実しているように思えます。

 

 

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『キレイ』のこと

 今年の1月、私は大阪で生田絵梨花主演の大人計画キレイ―神様と待ち合わせした女―』を観劇しました。乃木坂メンバーの生の舞台観劇はこれが初めてだったのですが、ミュージカルの経験を積み重ねてきたいくちゃんが、本格的な芝居メインの舞台に立った初めての公演に立ち会えたのはそれだけでも貴重な経験になりました。『キレイ』は、2000年初演で今回が4度目の上演となります。豪華な役者陣と派手な演出によって終始ユーモアあふれる掛け合いが披露され、客席からも笑いが絶えない公演だったのですが、その印象に反してストーリーは非常にシリアスかつ難解でした。ネタバレ込みで簡単にまとめると以下のようになります。舞台は民族紛争が長く続く架空の日本。地下室で自らの「生まれ」を剥奪されて育てられたミソギは、まさにその名の通り自分自身を(努力して)忘却することで、地上に出てケガレという新しい名を得る。地下室の中で、彼女は他人の夢の中を生きていた。けれど、地上で彼女は金や男や花、あるいは戦争といった“キレイ”なものを知る。しかし、そんな“キレイ”すらも、生きてゆく中で降り積もるさまざまな“ケガレ”によって、地上に出た日のように過去の中へと閉じられてゆく。彼女は、円環的な世界から抜け出し、偶然の渦の中へと巻き込まれてゆくことになったのだ。しかし、忘却された過去は、彼女の奥底に根を張っており、常に、ずっと奥の方から彼女へと復讐の牙を突き立てていた。……というのが自分なりのストーリーの解釈です。

 さて、語りはじめると非常に長くなる作品なので、ここからは一点だけ、強く印象に残った場面について書いてゆきます。公演時間が四時間近くある今作は、子ども編と大人編に分かれており、第二幕にはいくちゃんは大人になったケガレの回想として現れます。その回想で、いくちゃん演じるケガレが、戦争に行くことが決まった神木隆之介演じるハリコナと、彼の出征前夜に月明かりの下で踊る場面があり、以下のような掛け合いをします。

ケガレ「ねえハリコナ、戦争から帰ってきたら、あたしたち結婚するでしょ。子作りとかするでしょ」
ハリコナ「こ、子作り!」
ケガレ「うん!」
ハリコナ「死んでも帰る!」
ケガレ「あたしが子供産んで、ハリコナが行ってきまーすとか言って1DKの部屋から出て会社に行くの!あたしは、子どもの世話をしながら……洗濯とか、掃除とか、するのかな?たまにカスミに電話して、お茶飲んで、結婚したらなかなか会えないねーなんて言って、スーパーでポイント貯めて、ご飯でインクの染みとって、もう冷たくなった使い捨てカイロをひたすら揉んで、しっかりして、あきらめないで、おおーい!もう一回温かくなってくれよお!……なーんて言って、こんな普通のことするのかなあ」
ハリコナ「普通じゃないよ、それ!!」
ケガレ「今のあたしのこと思い出しながら、あんたと踊ったりすんのかな?……未来のあたしは、儲けてるかな?……儲けていたら、貧しいあたしを思い出して、優しく踊ってください」

 ケガレの台詞は、二人が結婚した未来に関するものです。家庭を持ち、迎え、子を育てる。そういった無垢な憧れを語る彼女の台詞が、演者である生田絵梨花へと反射してきてなぜだかとても泣けました。本来なら、いくちゃんは年齢的にもまだ人生の春に足がかかっていると思うのですが、台詞を語る姿には役以前の彼女自身の失われた季節への目配せのようなものが感じられてしまいました。というのも、そもそも今作は、ケガレが地上に出てきた少女のときと、大人になってからと、二度の忘却が彼女のなかで起こります。そして先の場面は回想なので、嫌が応にも、目の前で演じられている場面が失われゆくものであることが突き付けられます。すなわち、ケガレの語る未来への憧憬は、舞台上に現れるとともに消えつつあるのです。さらにそこへ、いくちゃん自身の持つ、歩めなかった人生への眼差しが重なる……。その眼差しは、決して「過去への未練」のようなシンプルな話ではないと思っています。

 そもそも乃木坂46のメンバーたちも、様々なタイミングで普通の人生について語ったりしていますが*11 *12 *13*14、その際に対称化されて立ち上がる過去というのは、「あの時こうしておけば良かった」といったターニングポイントを中心にしたものではなく、もっと漠然として広大で、不定形で未分化なもののように思います。そういった抱えきれなさに対して、「忘却」という手段をとること・とってしまうことが『キレイ』ではネックになっているとも感じられました。ある高名な小説家は、「忘却とは記憶喪失ではない。忘却とは過去の塊が戻ってくるのを拒否することだ。忘却は何か脆いものが消え去っていくことと対照されるべきものではない。それは耐えがたきものの埋没に直面しているのだ。」*15という言葉を残しましたが、こうした「過去」に対する畏敬の念のような思いは、『キレイ』にも通ずるものがあるように思います。

 さて、こちらの舞台は、いわゆる「スターシステム」と呼ばれる、本職である劇団員でない俳優や芸能人を主演に抜擢するシステムがとられており、今回メインを務めるいくちゃんと神木隆之介は、ともに今回のような舞台作品は初めての経験とのことで苦労も多かったそうです。いくちゃんはある対談の中で、自分に求められたのは「野生」というテーマであり、その役作りに苦労したと語ります。これはあくまで邪推なのですが、品行方正な環境で育ち、ミュージカルの世界へと足を踏み込んだいくちゃんにとって、一度自分を忘れてしまう役の演技は、いつものお行儀のよさから抜けて汚れた女の子を演じる、そもそも役に向き合うときの自分の姿と全く同じだったのではないかなと思います。今作のキャストが発表されたとき、長年大人計画への憧れを語っていた井上小百合はモバメなどで複雑な心境を吐露していました。しかし一方で、こうした配役の妙は、舞台向きの演技の外側があることによってはじめて担保されるものであることもまた事実なのでしょう。

そうして一人私はソトで
二度目に生まれて大地を踏んだ
私の器にそこそこ似合う
瓦礫と死体と争いの町
忘れたいヨモヤマいっぱいあって
人の心はとっても便利ね
三日の時間で全てを忘れて

太陽には貸しがある
ギラギラ見られて立場をなくした
満月には気を使う
秘密の多さに我を忘れてる

大人になってつれづれ思う
私はどうしてここで穢れた
心のサイズ 変わらぬままに
ソトも変わらず戦争の町
思い出すヨモヤマいっぱいあって
人の心はとっても未練ね
老いて抱きたい昔の自分

途方に暮れて未来に逃げて
なおさら暮れて過去へとすがる
キレイな花が見たかった
瓦礫の町に一人で立って
花が見たくて 一人で立って
キレイな花を見たくって
歩く行方はケガレの行方

――ケガレのテーマ

 

 

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4期生のこと

 今回のブログのはじめでもちらっと紹介した『サムのこと/猿に会う』は、西加奈子の初期短編集を原作とした4期生による二つのドラマ化作品です。順にみていきたいと思います。まずは『サムのこと』について。原作は未読なのですが、こちらはドラマ化にあたって大きく設定を変えているようです*16。ストーリーは、サム(遠藤さくら)の急逝をきっかけに、通夜の席で再会したアリ(早川聖来)、キム(田村真佑)、モモ(掛橋沙耶香)、スミ(金川紗耶)の四人が、それぞれにサムとの関係・自分の現在について思いを巡らせるというものになっています。サムを除く四人は、各々に内面的な問題やトラブルを抱えており、各話に一人ずつというかたちで、そんな彼女たちの個性や人間模様が見えてきます。こうした群像劇のフォーマット自体は原作に準拠しているようですが、サムも含めた五人が解散したアイドルグループの元メンバー同士であるという設定がドラマ版で新たに追加された設定らしいです。それによって今作は、単なる物語であること以上に、どこか4期生である彼女たち自身についてのモノローグや回顧であるかのような雰囲気が出てきます。

 さて、今作はストーリーを追うことを楽しめるのはもちろんなのですが、それ以上に、4期生たちの演技の質の高さに驚かされます。特に、1話と2話でメインを務める早川と田村の二人は、演技メンとして名高い久保史緒里や伊藤純奈とともにミュージカル『美少女戦士セーラームーン2019』に選出されただけあって*17素晴らしかったです。今作は、早川の傍白の場面からはじまってゆくのですが、彼女の第一声からドラマの世界にひきこまれます。ぐっと持っていかれてしまうような、雰囲気の作れる人と感じました。また、田村はモラトリアムを抱えた人物の人間臭いダウナーさみたいなものを、キャラクタライズされてしまう手前のぎりぎりのバランスで演じていました。ストーリー自体は田村がメインの2話が個人的な好みではあったのですが、全体を通して二人の印象は強く残っています。

 続いて、『猿に会う』について。こちらは、大学四年生のまこ(賀喜遥香)、きよ(清宮レイ)、さつき(柴田柚菜)の三人が主人公です。彼女たちは男っ気もなく、ちょっと冴えませんが、仲の良いグループです。そんな三人は、大学生活、というか学生生活の最後の旅行を計画し、実家の車で日光東照宮へと向かうことにします。道中、占い師を名乗るアキラ(堀未央奈)を乗せるくだりでは、妙にオカルトチックな怪奇譚の様相を呈してきたりしますが、基本的にはロードームービーです。

 三人には、コンプレックスや悩みもありますが、先の『サムのこと』に比べると、その見え方は少々地味に映るかもしれません。そもそも、『サムのこと』は、傍白やモノローグ、回想などによる語りが多用されるため、それぞれの内面に閉じている感じや、秘密を持っているうしろめたさのようなものが観ている側にはごく主観的に経験されます。一方の『猿に会う』は、そもそも時間や場所が都度変化するオムニバスではなく、三人の旅路をタイムラインに沿って映しているので、むしろ、三人の掛け合いや友人同士のもつ親密な空気感の方が前に出て、それらを傍から見ているような印象を受けます。だからこそ、ちょっとしたアクシデントや、個々人の言いそびれた言葉なんかが、些細なことでも強烈な違和感をもって立ち上がるように感じられます。恐らく、物語を第一に楽しみたい人にとっては『サムのこと』の方が好きだと思います。一方の『猿に会う』は、前者に比べて構造化されている部分がやや見えづらい。加えて、日常的な場面も多いため緩急があまり感じられないかもしれません。けれど、そのぶん三人の作る空気感が非常に生々しく感じられ、「演技」の繊細な部分に目が向きます。両作ともに、魅力に満ちた作品であることは間違いありませんが、『猿に会う』は、特に「演技」を楽しめる作品だと思います。

  4期生曲『I see…』を主題歌とした両作を通して、私はけやき坂46の舞台『あゆみ』をまず思い出しました。こちらの作品は、役の数に対して演者の数が多く、メンバーたちが入れ代わり立ち代わりしながら、「あゆみ」という名の一人の女の子の普通の人生を演じるというものです。4期生のドラマも、自身にとって密度の高い近しい未来を演じるわけですから、『あゆみ』と同様の、自分の経験していない人生の場面を演じることで演者が輝くようなことが起こっているのかも、と最初は考えました*18。けれど恐らく、今作の魅力は、もっと一番シンプルな「演技が上手い」の一言に集約されるのだと思います。

 『サムのこと/猿に会う』は、もちろんすべてのメンバーが平等に扱われているわけではありません。しかし全体を通して、4期生は満遍なく演技が上手いという印象を持ちました。彼女たち一人ひとりがどういった観劇経験のもとに、どういった指導を受けたのかは分かりません。けれど、演劇部なまりのようなものが極力排除された台詞回しやきめ細かな身振りには、素直に驚かされます*19。そういえば最近、悪い意味で話題になってしまっている平田オリザさん、彼が生み出した現代口語演劇*20*21*22と呼ばれるものが、まさに言葉遣いや口調や身振りの(それこそ特に『猿に会う』で感じた)「日常性」に特化したものでした。今回の4期生ドラマにあった楽しさというのは、もしかすると、そういった「日常性」を担保することによって、より強固な「作中世界」を確保したことによるのかもしれません。

 その意味では、先の『あゆみ』はむしろ対照的です。というのも『あゆみ』は、演じている人の個人史を過度に抱え込む作品でした。そういったものは、成功例もあるとはいえ、失敗すると「アイドルだから」という言い方へとつながってしまう危険もはらんでいます。ここにきて手のひら返しするみたいになりますけど、先の項で言及した松村といくちゃんの話も、振り返ってみれば「アイドルである」前提に基づいているとも言えます。ともかく、演じている人へと観客の目線を集めてしまう作品=演じている人の個人史を過度に抱え込んでしまう作品は、固有の魅力を輝かせつつも、「演技」の意味が薄れてしまう恐れがあるのかもしれません*23*24*25

 さて、唐突ですがここで、ひとつの映画を挙げてみようと思います。少々ネガティブに個人史を抱えた演技について書いてしまったので、その成功例を紹介します。私が思うのは、黒沢清監督、前田敦子主演の『旅のおわり、世界のはじまり』です。この映画は、いちおう役名の当てられた劇映画ですが、主演の前田敦子の演技の幅をすべて引き出してゆく、ある種の究極のドキュメンタリーでもあります。さらに、最終的にはカメラが前田敦子の「目」に近づいてゆく、かなりぶっとんだ作品でもありますが、名前のある人物(要は公私の距離が離れている人)の個人史的なものすくいとってゆく、一つの理想形を示しているとも思います。『あゆみ』が「何者でもない人」を扱ったとするのであれば、『旅のおわり、世界のはじまり』はその到達点のような「名を得た人」にフォーカスしているのです。

 最後に、4期生のまた別の作品にも軽く触れておきます。乃木恋のドラマ企画(新録のストーリー映像や特設サイトが用意されているもの)で、四期生が初主演を務めた『演じるガール』です。こちらは、演劇研究会に所属する遠藤、賀喜、筒井の三人が文化祭本番直前にトラブルに見舞われるコメディタッチの作品です。この映像は、ゲーム進行にともなってエピソードや恋愛ムービーというかたちで解禁されていきます。ストーリーの最後の映像では、本番をなんとか乗り切った三人が、帰ってきた部室で劇の名場面を披露しあうという展開になっています。が、要はここは無茶ぶりパートで、お題に対して即興でかえさなければなりません。コメディとはいえ、前半のタイトな演技から、一転して、その緩急が楽しめます。

 総じて、4期生の作品群は、頭抜けてます。これは松村のとこでちょろっと言ったこととも繋がってくるのですが、良くも悪くも、4期生は「素人からアイドル」になるドラマを見せる必要があまりないと思うんですね。それまでの期生に比べると、やることが明確になっているというか。『3人のプリンシパル 』の次で、これだけクオリティの高いものを出せるのであれば、正直なところ、『ザンビ』や『DASADA』のような、TVショー向きのコテコテの演技をやるよりも、舞台や映画に注力させた方が絶対に良いものができると思いました。こうなってくると、新4期生が合流してからも大いに期待ができるような気がします。


※【おまけ】乃木恋ドラマ企画まとめ

#その恋手放すな〜輝くツリーの下で〜(2016/12/12〜)
#その恋手放すな〜ふたりきりのバレンタイン〜(2017/02/06〜)
なな恋(2017/11/17〜)
妄想女子、恋を語る。-この恋、妄想しなきゃ始まらない-(2018/01/19〜)
妄想女子、恋を語る。-妄想が暴走しすぎて止まらない-(2018/03/20〜)
乃木恋カフェ(2018/05/01〜)
いつか、どこかで(2018/12/10〜)
演じるガール(2019/10/10〜)
グッバイアンサンブル(2020/03/31〜)

 

 

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3期生のこと

 「乃木坂46の3期生と4期生って、どういう違いがあるのだろう?」そんなことを思ったのは、フェットチーネグミの連続webムービー『迷ったら、、』を観たときでした。これは、まあいわゆるCMの延長として作られたコンテンツです。監督は、最近乃木坂のMVに関わることの増えてきた横堀光範。乃木恋の2018年TVCMなどでもこうしたショートドラマを撮影された経緯があるのですが、MVも含めて、やや旧来的なグループイメージに引っ張られすぎている印象があって、個人的にはちょっと苦手な方です。今回のストーリーはシンプルで、演劇部に所属する与田、久保、賀喜の三人が、朗読劇を披露する直前に部活を辞めると言い出した遠藤を引き留めるというものです。興味深いのは、3期生と4期生のみでメンバーが構成されており、先輩後輩関係がばらばらになっている点です。私が知らないだけなのですが、3・4期生のみのドラマをはじめてみたので、短い映像ながら、新鮮な気持ちにさせられました。

 そして同時に、4期生は3期生と比べて、良くも悪くも演技のくせが少ないなあとかぼんやり考えながら観ているうちに、最初の疑問が浮かんできたのです。というのも、この映像のストーリーは、学園もので、夢に向かう人を応援する内容で、良くも悪くも王道です。しかし一方で、彼女たち二つの期生に対する個人的な印象は、物語性の強いなにかが浮かぶわけではなく、こういったベタなコンセプトを思い浮かべる程度にとどまっていました。そのため、3期生と4期生はコンセプトという点で差別化がどのように図られているのか、を自分なりに考えてみることにしました。ここでは主に、両者の違いを出発点として3期生について書きたいと思います。

 さて、実は期生の違いについて、梅澤美波は雑誌のインタビューのなかで直接言及しています。

3期生の『三番目の風』は「三番目の風になろう」で、4期生の『4番目の光』は「4番目の光になれますように」。 伝えたいことは共通していても言葉のチョイスが変わってくるんです。 3期生は「強い意志」で4期生は「優しい願い」なのかな。

――EX大衆2019年7月号

  二つの期生のデビュー曲について、このコメントは的を得ていると言えます。ある方は、さらに二曲の歌詞を比較して、3期生にとっての「風」が自分たち自身を指す言葉だったのに対して、4期生にとっての「光」は目標やゴールを意味する言葉になっていると指摘しています*26。また別の方は、『4番目の光』と『Against』を比較して、両者が世代間の結びつきを意図していることを指摘しています*27。確かに、『三番目の風』に「初めての存在になろう」とあるのに対し、『4番目の光』に「坂道を今すれちがう 卒業生がやさしく 頑張れと微笑む」とあることを思えば、3・4期生の二つの曲は、先行世代に対してまったく対照的な態度を示していると言えます。つまりあくまで「先輩たちとは異なる自分たち」を掲げる3期生(のコンセプトあるいは世界観)の方が、見通しの立っていない未来を見つめており、そこに対して意志を強く持っていると言えそうです。

 では、ここでいう「未来」とはどのようなものか続けて考えてみます。まず言えるのは、そもそも1期生の卒業を強く印象付けることとなった『ハルジオンが咲く頃』のリリース以後に結成された3期生は、明らかにグループにとっての「未来」を担う役回りとして作られています。3期生は、乃木坂46が初期メンバーなどの成熟を表現に落とし込んでゆく際に、「若々しさ」や「何者でもなさ」を楽曲面で支えることを期待されていたのではないでしょうか。ゆえに、先輩たちではなく、自分たちだけというオリジナリティ、ひいては新規性の獲得を目指していたのかもしれません。

 前例がないということは、レールが引かれていないことを意味しています。例えば以前に流行った、「死」を予告されたワニを主人公とした4コマ漫画『100日後に死ぬワニ』では、とにもかくにも、まずは明確なエンディングの存在がその物語性を立ち上げていたと言えます。普通の日常動作が、一定のテンポで近づく「死」という未来への道中とされ、各エピソードには「未来」の不透明さがありません。不透明なのは「死」のまさにその瞬間のみでした。ゆえに、未来へ進む過程には一本のレールにのったような感覚があります。しかし、乃木坂46の3期生が描く「未来」は、特段そういったものがあるわけではありません。恋愛というモチーフにおいても、MVや歌詞では刹那的な未来しか示されていません。3期生楽曲において起こる変化は、あくまで「自分じゃない感じ」なのです。それは言ってしまえば、「自分である」ことへの素朴な充足が前提に置かれているということでもあります。梅澤が言った「意志」というワードも、そういった立脚点が不在であることへの不安を歌詞に載せないことからきているのではないでしょうか。

 コンセプトという観点からこの点について振り返ってみると、1期生や2期生などとは大きく異なると思います。そもそも、1期生にとって「未来」とはとにもかくにも見えないものでした。それこそ震災があって、日本には五輪にも結びついていった復興ムードと呼ばれるような明るさとともに、原発問題をはじめとした立ちゆかなさや暗い未来への不安がありました。意図せずそういった状況下でアイドルになった彼女たちは、加えてAKB48のライバルグループとして発足しているため、何か黒船の到来のような期待と不安の入り混じった視線を向けられていたと思います*28。また、乃木坂が、「ライバル」という不穏な響きの言葉とイメージとともに、世間的な「癒し」のムードにこたえるかたちで「清楚」という穏やかなイメージを同時に抱えていたことには、一つのねじれがあるようにも思います。こうした複雑な立ち位置がゆえに、メンターなき彼女たちは、「未来」について漠然としか歌えなかったのかもしれません。例えばモーニング娘。が『LOVEマシーン』で、「バブルよもう一度!」と言わんばかりに虚無的に日本の未来を歌ったことに対して、初期の乃木坂46は、ごくごくプライベートな不安を、誰もが共感できるものとして提示しようとしています。そんな彼女たちは、自分自身の未来を時の流れ以上のものとして最終的には掴み取らなかった。言ってしまえば、彼女たちがはじめから目指していたものは今も昔も一貫して不鮮明なままです。初期には学園というフォーマットはそれこそなぜ必要だったのか。今の3期生と4期生が生々しい「制服姿」を売りにしないことはとても大きな変化であると思います。

 1・2期生のような「リセエンヌ」「ポストアポカリプス」といった物語性の強いコンセプトは、堀ちゃんが言っているみたいに*29、3・4期生に関しては、まだあまり多く打ち出されていません。けれど、4期生との差別化という意味では、3期生の楽曲 *30のすべてでは当然ありませんが、梅澤の言った「意志の強さ」に加えて、「刹那的な未来」が、なんとなく期生を特徴付けるものとして挙げられるかもしれません。4期生がこれまでの乃木坂46のプロダクトを継承すると言うとき、そこにはある程度「見通しの立つ未来」があります。これは、3期生のそれとは正反対なものでしょう。彼女たちはむしろ、オリジナリティを強調した結果、「見通しの立たない未来」へ、その都度向き合わなければなりません。だからこそ、3期生は「切り開く」ような頼もしさがあるのかもしれませんね。

 

 

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コントのこと

 少なからぬアイドルグループには、「バラエティ担当」や「お笑い担当」と呼ばれるメンバーがいます。彼女たちに共通するのは「明るさ」「面白い」「おしゃべり」な性格などが挙げられますが、基本的には「トーク力」があること指して言われることが多いと思います。芸能界においても、一般的に、バラエティ番組や「お笑い」と呼ばれるものは、話芸の範疇とされています。さて、乃木坂46が「舞台」や「演劇」に注力してきたことについては前述のとおりですが、近年になっては、「アイドルの~担当」というくくりではないかたちで「お笑い」に接近している状況が見受けられます。本項では、それについて書いてゆきたいと思います。

 まず、TV番組などにおいて扱われる「お笑い」のなかでメジャーな形式といえば、落語、漫才、コント(特に後者の二つ)が挙げられるわけですが、乃木坂46はそのいずれにも挑戦しています*31。このとき、落語や漫才などは、挑戦すること自体がエンタメ化している節があるのに対して、コントにはむしろ積極的に関わっています。それはなぜでしょうか?理由を考えるにあたって、まずは、そもそもコントとはどういったものであるかについて、かもめんたる岩崎う大の解説を見てみたいと思います。

漫才とコントの違いに関しては、〔…〕漫才は芸人が本人としてその場に出てきて生で笑いを取っていく、コントは芸人が別人としてフィクションを演じて笑いを起こしていく。 コントでは「ウソ話」を演じますが、漫才では「本当の話です!」とウソをつく、そんな違いがあります。最後まで騙しきって欲しいそんな感覚を漫才を見る時は覚えます。そこには、やっぱり話術に加え、巧みな構成、魂が乗ってるとかグルーヴ感とかが重要になってきます。

――コント師が見たM-1グランプリ2019|岩崎う大(かもめんたる)|note

  う大はキングオブコント2013の優勝者であると同時に、劇団を立ち上げ、今年の岸田戯曲賞(演劇における芥川賞のようなもの)にもノミネート*32されているほど「演劇」に力を注いでいる人物でもあります。そんな彼は、コントは「演じる」ものであると述べています。であれば、乃木坂46が「演劇」で培ったスキルを通して「コント」へ積極的に関わってゆくのは、ごく自然な流れとも言えるでしょう。

 さて、実はう大は乃木坂46とそれなりに昔から関わっています。7thシングルでの松村の個人PVでは監督を、12thシングルのいくちゃんと白石のペアPVでは脚色を、また前回の46時間TVの飛鳥ちゃんの電視台では、かもめんたるのコントに参加するという企画が彼女の持ち込みで行われました。

 特定の芸人がラジオなどではなく「コント」として関わっている事例は、う大以外にも、シソンンヌもグループに多く携わっている印象があります。代表的なのはマウスコンピューターCMシリーズですが、飛鳥ちゃんの個人PVにはここでのキャラクターを逆輸入しているものもあります。白石はジローとのドラマでの共演もあってか、番組内で一人一本VTRを持ち寄る企画では、コントも披露しています。

 コントへのメンバーの参加の点については、自前番組のなかだけでなく、NHKのコント番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」へ、西野七瀬生田絵梨花が出演したことも見逃せません。また、こうしたTVなどを通したプロのコントへの参加は、ここ最近になって一気に増えてきたものではありますが、早い段階でそういった事例を作ったのが、白石が、よゐこ濱口とMCを務めた番組「バチバチエレキテる」のなかでプロの芸人たちのコントに参加していたりしたことでしょう*33。また一方で、グループの鏑矢となったのは白石ですが、「お笑い」のフィールドをバラエティからより広範なものへと広げてゆくきっかけを作ったのは、井上小百合大人のカフェの舞台『飲みかけで帰ったあの娘』に出演したことではないでしょうか。

 こういったグループにおける「演技」と「お笑い」の関係についての変化(もしくは関係の深まり)は、自前の番組にも現れています。昨年2019年の3月3日と10日、乃木坂工事中において二週に渡って放送されたトラペジウム刊行に合わせた企画「勝手に演技力研修」では、メンバーが出されたお題に演技で応えるというものでした。この企画の放送後、香月さんはTwitterで以下のように指摘しています。

 もともと、「NOGIBINGO!」や「乃木坂46SHOW」などでは、シチュエーションドラマやコントを番組で行うことがありました。けれど、結成初期から放送されている「乃木坂って、どこ?」、その後続番組である「乃木坂工事中」においては、そういった事例はあまり見受けられませんでした。しかし、最近では、先の「演技力研修」にはじまり、「妄想クリスマス」や「真夏の恐怖体験」など、本格的な演技を番組の中に取り入れる場面が増えてきたように思います。その中でも特にエポックなのが、先の企画だったのかもしれません。「演劇」の側から「お笑い」を立ち上げる、芸によって笑いをとる。そういったことがごく自然な状況となっているのは、グループの成熟とともに、大きな変化の現れに思えます。また、今月から新たに始まった乃木坂毎月劇場は、東京03と各期生のメンバーがコントを行うというシリーズ企画です。こういった、乃木坂46が「演技」への傾斜のうえで「コント」の幅を取り入れてゆくのは、今後はさらに期待してゆきたい部分でもあります。

 

 

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『Perfect I/パーフェクトアイ』のこと

 本ブログの冒頭でも言及した「乃木坂シネマズ~STORY of 46~」において、齋藤飛鳥*34生田絵梨花、久保史緒里、白石麻衣*35の四名の作品は高い質の出来上がりであると感じられました。特筆すべきなのは、久保と組んだ谷川英司と、白石と組んだ山田智和乃木坂46の映像コンテンツにはじめて関わる面々である一方で、飛鳥ちゃんと組んだ柳沢翔、いくちゃんと組んだ山岸聖太は長く関わってきた製作陣であることです。「乃木坂シネマズ」は、ある意味でメンバー以上に新旧クリエイター陣の新陳代謝を試みているとも言えるわけです。

 さて、10本ある作品のうち、特に個人的に印象深い作品が、秋元真夏×松本優作『Perfect I/パーフェクトアイ』です。これをはじめて観たとき、正直言って戸惑いがありました。今作は、「パーフェクトアイ」という仮想空間にダイブして遊ぶVRゲームが流行している2040年の世界が舞台です。秋元真夏演じるさえない普通の大学生・夏海は、友人に連れられて行ったクラブで出会った青年・拓也に「パーフェクトアイ」を勧められ、それにのめり込んでゆきます。(このとき、パーフェクトアイは二つの錠剤を飲むことでプレイするものであるという説明がなされるのですが、これがドラッグによって幻覚を見ることを意識させる作りになっているのはポイントです)。このゲームの仮想空間では、プレイヤーのアバターのようなものに自分の理想の姿が反映されます。秋元は、そこで、自分のリアルの姿とは対照的な、筋骨隆々でドレットヘアの黒人男性の姿となります。ストーリーの展開は少し複雑で、仮想世界のゲームでアバターの姿で拓也との関係も深めつつ、一方で、秋元はリアルの世界で自分の感知しえない自分の「らしくない」行動の痕跡を発見してゆきます。すなわち、仮想空間に没頭するうちに、リアルの世界で全く異なる自分が、まるで仮想世界と入れ替わるように現れてくるというわけです。今作を観た人の感想には、『ブラックミラー』を引き合いに出している人が何人かいましたが、ある意味ではそういった、リアルとバーチャルの対立を通して内面の分裂を描くような、SFのひとつの王道のストーリーとなっています。と同時に、VRゲームに熱中してゆく様子がドラッグ依存を想起させ、かなり社会的な内容を含んでいます。

 今作においてユニークな点のひとつは、秋元真夏が入っているアバターの黒人男性が、最も演技の負担が大きいという点ではないでしょうか。クライマックスではアバターが、リアルのような場所にいる秋元真夏の姿をした誰かと対立するのですが、このときに黒人男性の中の「秋元真夏」に説得力を持たせるという作りにはかなり驚かされました。というのも、少なからぬファンにとっては、秋元真夏は人物として立ちすぎていますし、そもそも演技について表立ってフォーカスされるメンバーではありません。乃木坂46の出演する映像コンテンツにおいては、ある程度キャラが立っているメンバーを扱う際は、例えば松村をアイドル役やくせの強いキャラクターに採用するようなアプローチが普通です。それこそ、今回のような作りは山岸監督の描くような、安定したシュール空間でないと厳しかったのではないでしょうか。そのため、今作は、昨今の乃木坂のクリエイティブでは出にくい発想に満ちていると感じられました。その印象を裏付けるかのように、今作は非明示的で解釈の開かれたラストともあいまって、「乃木坂シネマズ」のなかでは数少ない賛否両論を呼んだ作品となっています。

 監督を務めた松本優作は、昨年『Noise ノイズ』という初長編映画を公開しています。実は、監督名義の映像作品としては、その作品の精神的な前編にあたるような『日本製造(メイド・イン・ジャパン)』という作品があります。後者については、1997年に公開された台湾のインディペンデント映画『香港製造(メイド・イン・ホンコン)』を文字ったタイトルで、MOOSIC LAB(通称ムーラボ。余談ですが、今作が出品された2018年のイメージモデルは伊藤万理華が務めている)で発表された30分ほどの短編作品です。『Noise』は秋葉原連続殺人事件、『日本製造』は川崎のゲットーをテーマに作られているのですが、ともに、「貧困」を基底にした現代日本の若者たちのムードが描かれており*36、海外でも高い評価を受けています*37。また、『Noise』の主演を務めた二人はそれぞれ別のアイドルグループに所属しています*38。『日本製造』は、ムーラボ出品作のため、ひとつの楽曲をテーマに制作されたわけですが、その際に選ばれたのはゆるめるモ!の『逃げない!!』です。この曲は作中でかなり露悪的に用いられるのですが、審査員票では、その内容もあってか異色作と評されています。以上のとおり、これら二つの作品は、社会性の強いテーマ設定、なんらかのかたちでアイドルが制作に関わっている、という二点で共通しています。『Perfect I』は、そんな松本監督が、硬派な作品で監督デビューした直後の作品でもあります。

 『日本製造』は、川崎の不良少年たちがTVや雑誌の記者に、近くで起きた殺人事件の犯人についての嘘をついてお金を稼いでゆき、最終的には自分たちのついた嘘によって身を滅ぼされてゆく、現代の寓話のようなストーリーになっています。実は、『Perfect I』にもこれとよく似た構造が見受けられます。先述のとおり、今作においては、アバターの黒人男性が秋元真夏を演じてゆくわけですから、作品内において配役のメインは彼にあるような印象を受けます。本来、演じる対象であるべきアバターの側が、むしろ演じる/演じられるの主従関係を逆転させるわけです。それによって起こるのは、「演技」というものが複数の階層となり、誰が・何を演じたという関係が宙吊りとなり、演じている誰か=主体の着地点を失ってゆく事態です。ここに、曖昧な個人の在り方や、偏在することによって自らの存立基盤そのものが霧散してゆく在り方が、不穏なかたちで示されているように感じられました。また同時に、今作のそういった作りは、「乃木坂シネマズ」というコンテンツそのものへとメタな視点を投げかけているようにも思えます。通常であれば、アイドルが「役=別の姿」を演じるはずが、「役」によってむしろアイドルの側が演じられてしまうわけですから。こうした構造は、硬派なストーリーに現れる現代社会、大衆の願望器たる人気アイドルグループ、二つの射程を持っているように感じられます。

 補足として、多少話題になった、作中で言及されるパーフェクトアイにおける「禁則事項がなんなのか?」という話題についても一応考察をしておこうと思います。パッと見た感じだと、「恋」や「キス」のような他者への行為、もしくは「現実の自分との接触」なのでは?といった意見が多い印象があります。私は、パーフェクトアイというVRゲームがそもそもどういった類のものか最後まで掴みきれませんでした。普通に考えて、理想の自分になれるというのであれば、パーフェクトアイが現実に侵食してきた場面にあったような、インスタ女子的な華やかな生活の方に向かう気がします。けれど夏海のアバターは全く異なるものです。むしろ、華やかな姿は夏海の本来の欲望というよりも、世間一般にある欲望の鋳型にとどめられているようにも思えます。そのため、この作品には夏海の「理想」の方向づけが複数あると言えそうです。パーフェクトアイがそれこそ「eye」を矯正する、ドラッグのような幻覚として別のヴィジョンをもたらすだけであれば、何が起きているかは直感的に理解できます。しかし、今作の仮想空間はあくまで「ゲーム」です。つまり、全く別の世界や別の存在として生き直すようなイメージがあると同時に、ゲームであれば「目的」や「クリア」といった概念が存在するはずです。であれば、パーフェクトアイにおける「クリア」とは何を意味するのか?が私は気になりました。よって、仮に禁則事項が何かを仮定してみるとするのであれば、「ゲームクリア」なのではないかと思いました。

 一般的な物語において、現実とは異なる世界を生きる主人公にもたらされる結末は、「現実からの復讐」もしくは「現実の承認」というかたちをとります。しかし、今作では、現実とその対称世界は常に・既に溶け合ったままのかたちが保たれています。にもかかわらず、主人公の状況は、ネガティブな場面でクライマックスを迎えたはずなのに、ラストはなぜか好転しているように見えます。この辺りが、観た人に戸惑いを生んだ原因なのではないかとも思います。とはいえ、現代的なテーマを多く含んだ『Perfect I』が、グループの新しい可能性を示していることは確かです。「乃木坂シネマズ」の作品に関して言えるのは、最近の、特に1期生なんかは、自前の映像コンテンツにおいては、どちらかというと個々人のキャラクターにフォーカスしたかたちの作品が多かった。それを支えるのは、乃木坂がグループの活動を通して培ってきた映像作家たちのメンバーたちへの深い理解によるものでした。しかし、全く異なるフレッシュな視点を持つ監督が、長くグループに所属するメンバーとこういった社会性の強い作品を制作してくれるのは、より多様な広がりを感じさせてくれます。

 

 

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『映像研には手を出すな!』のこと

 『映像研には手を出すな!』は大童澄瞳による漫画原作の実写映画およびそのスピンオフドラマ企画であり、アニメーター志望の主人公・浅草みどり(齋藤飛鳥)を中心とした「映像研究同好会」がアニメ制作に取り組む物語です。原作となった漫画は本実写化の公開に先立って、湯浅政明監督によってアニメ化もされています。こういったメディアミックスに複数のメンバーがメインキャストに抜擢されるのは、『あさひなぐ』以来の大々的なタイアップと言えます*39

 主演に抜擢された齋藤飛鳥は、これまで演技を披露してきた際は比較的落ち着いたトーンでのセリフ回しが多かったけれど*40、今回は感情豊かな身振りとうわずった声で、愛嬌に全振りしたような姿を見せています。『あの頃、君を追いかけた』で共演した山田裕貴が「小手先の演技はせず、ピュアな演技」と語ったものから一転、キャラになり切るうえで落語などの研究をしながら演技を構築してゆき*41、本人が「乃木坂46で長くやっても捨てられなかった変な恥じらいや、いらないプライドをこの作品で捨てられたかな」と語る通り*42、新鮮味のある演技となり、今作がターニングポイントと言われるくらいにはおおむね好評価を得ています*43

 この、通称『映像研』という作品は、アニメ制作がテーマなのですが、それが自分の想像した世界が具現化するすべであることが強調されています。単にアニメ制作の解説をしたり、作る過程が物語になっているのではなく、主人公の浅草が目の前にある現実の風景に自分の空想の中のメカやガジェットを重ね合わせる際に、アニメが用いられるのです。漫画版で言うと、キャラクターたちを形づくる輪郭線と、浅草氏の空想によって現れるものたちの描線は、大きな差異なく用いられているため、アニメを通して現実と空想の二つの世界がスムーズに接続されてゆきます。この、自分の思うがままに立ち上げてゆく空想の世界が、キャッチコピーで言われる「最強の世界」です。そのため、今作は、オタク的な空想世界の「語り」が、アニメという手法によって具現化してゆくさまが、ファンタジックに描かれています。

 こういったユニークな原作は、アニメ版ではさらに別のアプローチがなされます。監督の湯浅政明は、代表作『マインド・ゲーム』などではいわゆる“神作画”と呼ばれるような高い運動性のある表現を行ったり、『アドベンチャー・タイム』への参加に現れているような、カートゥーン的なグネグネと形が様々なものへと変化してゆくアニメの原初的な快楽を表現することに長けています。アニメ版『映像研』では、文字通りアニメによって空想のアニメートを描いたこともあって、「動作」の部分がよりダイナミックに表現されつつも、それ一辺倒に陥ることを避け*44、原作の雰囲気を損なうことなく再現していると言えます。ひとつ、ユニークな点として挙げられるのは、アニメ版では、空想世界のガジェットが、キャラクターや作中の現実世界とは明確に描き分けられている点です。そこでは、空想世界は描線の濃淡によって手書き感が強調され、色もすべて塗られている訳でもありません。そのため、「見せ場」においてむしろ画面上で制作プロセスを逆行してゆくということがおこり、キャラクターたちの生々しい筆致が空想世界において実現している様子が強く感じられます。ちなみにchelmicoによる主題歌のMVでは、『映像研』を思わせるような、空想世界が机上で混じりあう様子が表現されています。CGアニメを用いたこちらの映像は実写版とよく似たアプローチをしている一方で、カートゥーンライクなトリップ感が強調されています。

 さて、では齋藤飛鳥梅澤美波山下美月の三人をメインに据えた実写版ではどのようなアプローチがなされているのでしょうか。飛鳥ちゃんの演技については先ほど書いたとおりなのですが、やはり問題となってくるのは「現実」と「空想」を行き来する際の表現にあると思われます。実写版で採用されたのは、VFX、すなわちCGによる合成です。作中で、浅草が脳内の設定を話しながら、目の前に様々なガジェットを「見立て」てゆくと、おぼろげな輪郭線によってイメージボードが空間に投影されてゆき、CGによってリアルなもののように画面上に現れます。CG表現の水準は高く、ものによっては一部が実際に製作されたものなどもあるため、具現化のクオリティは漫画版やアニメ版以上に優れた出来栄えとなっています。とはいえ、漫画やアニメとは異なり、CGは、例えば飛行したりするような、現実では困難な挙動が発生する際に、強く現実との違和感を感じさせてしまいます。これは、実写だからこそ起こる事態でしょう。

 アニメーションを主とした映画監督の押井守は、「すべての映画はアニメになる」と題されたインタビューの中で、「アニメーションは根拠のない映像だと思われているが、実写も又根拠なき映像であり、実写もアニメも同じではないか」と述べています。『ハリー・ポッター』のVFX撮影風景などを見ると、スタジオのなかで、何もない場所で演技が行われ、それが編集過程で全く異なる世界へと装飾されていることが分かります。昨今の映画産業において、VFXによって実写映像は少なからずアニメ化されている側面がある……この指摘はおおむね間違っていないと言えるでしょう。では、これを受け入れた上で、あくまで「実写」にこだわることの意味、もしくは「実写」の強みとはどんなものなのでしょうか?ここで、少し迂回して考えてみようと思います。そもそも、ある映像作家が「実写である」と評価されるときには〈実写/そうでないもの〉という対立が前提とされています。加えて、それらはCG処理に抗う作品づくりや、二次元作品を三次元作品に落とし込む際に特に意識されます。ではまず、そういった「実写」性なるものへと、過去の映像作品はどのように取り組んだのでしょうか?少し考えてみたいと思います。

 「実写」というトピックにおいて、多くの人が最初に名前を挙げるのはクリストファー・ノーランではないでしょうか。周知のとおり、彼はフィルムからデジタルへの移行を強く批判しており、そのうえで自身の映画製作においてはVFXは最小限しか用いない徹底した「生」へのスタンスを貫いています。なかでも『インセプション』は、現実が融解してゆくような物語とも相まって、その映像表現には目を見張るものがあります。製作陣は、廊下一本を走るシーンを撮るために、廊下そのものを外部から回転させる巨大なセットを作り、そのうえでカメラの角度や向きを都度調整しながら撮影を行うなど、存在しない出来事を「実写」によって文字通り「実現」するために様々な試行錯誤がなされました*45。この映画は、実は今敏によるアニメーション映画『パプリカ』との類似性もしばしば指摘されており、公開当初にはかなりネガティブなかたちで話題にものぼりました*46。これに関してはノーラン側に非があるとは思います。とはいえ、そういった醜聞も見方を変えれば、今敏がアニメーション表現によって追及した夢と現実の混濁を、制限のきわめて多い実写によって対抗したという点において優れた成果を残したと言えるでしょう。結果として、『インセプション』にはハリウッド映画のスペクタクルにありがちなチープさがなく、自分の眼下の光景であるかのような緊迫感を実現できているように思います。ノーランの映画には、まぎれもなく「実現」した出来事が映されているのです。

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 時代のスタンダードにあえて逆行するという点では、『巨神兵東京に現わる』も同じくして挙げられる作品でしょう。2012年にスタジオジブリ製作で公開された本作は庵野秀明が全面的に関わっており、のちの『シン・ゴジラ』の布石にもなった短編映画です。今作は、『風の谷のナウシカ』の作中で語り継がれる、千年前に世界を崩壊させた「火の七日間」を、東京を舞台にして描くダイナミックな発想の作品です。東日本大震災から一年後に公開された本作の物語には当然ながら強い社会批評性が存在しますが、それ以上に重要なのは、CGを使わずにすべて特撮・SFXによって撮影されているという点です。制作陣の一人は、その意図を「後世へ技術を残すこと」「アナログ技術の再構築」といったものであったこと語っています。興味深いのは、巨神兵文楽を参考にしつつ「操演」によって動きを生み出されていたという事実です*47。つまり、人形劇のようなかたちで黒子が糸で動かしていたわけです。この映画における「巨神兵」という架空の存在の説得力は、それが確かに動いていたという事実によって裏打ちされていたことが分かります。(ちなみに言っておくと『シン・ゴジラ』はモーションキャプチャーで収録した狂言師野村萬斎の動きを反映させ、フルCGでモデリングされています*48*49)。

 個人的に、今作によって感じられた特撮の強みは、やはり建物や街などかたちあるものが破壊されるシーンにありました。アニメーションは、画面上の形態が常にメタモルフォーゼする可能性を持つため、質的にはどこか「柔らかさ」があります。けれど特撮においては、ミニチュアとはいえ、それはまさしく崩壊しています。だからこそ、砕け散った瓦礫や、踏み抜かれた道路の歪みなどを通して、その暴力性や恐怖を訴えかけることが出来るように思いました。つまり、『巨神兵』によって明らかとなるのは、「実写」が、かたちあるものの強度や質的な印象を強く提示できるということです。

 『インセプション』『巨神兵東京に現わる』の二作から、「実写」撮影に何かしらの「意図」を求めるとしたら、それは「現実に起こったことを撮影した」という点で、フィクションに強い説得力を持たせられることではないでしょうか。例えばセルアニメーションにおいて「キャラクターの動き」は、絵の描かれたコマとコマのつながりで錯覚しているだけにすぎません。CGアニメーションは、「キャラクターの動き」をVR空間のなかで錯覚ではない自然なものとして生成できますが、前提となっている空間の「仮想性」が現実と強い齟齬を起こします。けれど、実写撮影というのも、少なくとも撮影の現場においては、ほかでもない我々のいる現実において確かに誰かが動いていたことの記録なのです。ゆえに、異なる世界や異なる時代を扱う際に、観ている人自身と地続きに感じさせることが出来る強みがあると言えるでしょう。

 さて、ここまで「実写」がアンチVFXである例を挙げてきましたが、むしろ両者を統合するベタな例もひとつご紹介したいと思います。取り上げるのは、黒沢清監督の『リアル~完全なる首長竜の日~』です。そもそも、この黒沢監督という人は、スクリーンプロセスと呼ばれる合成の古典的なテクニックをよく使うことで知られるように、様々な映画技法の持つ同時代性を探っている方です。また、例えば『』において幽霊の視線を操作することでそのリアリティを高めようとするなど*50、映画の中の「実存」を模索してきた監督でもあります。『リアル』は、そんな黒沢監督がCGを本格的に取り入れた作品です。

 『リアル』の物語は、意識を失った恋人を目覚めさせるために、主人公が恋人の意識の内面世界へと侵入して手掛かりを探すというものです。人の内面世界というテーマは、本来映画には不向きであると言えるわけですが*51、当のCGは、クライマックスにおいて現実世界と内面世界が接触する際、存在しないはずの生物を描くために用いられました。すなわち、二つの世界の境界線そのものを立ち上げるためにCGが必要だったのです。

 CGやVFXを全面的に用いながら写実性を求めた作品は、『ファイナルファンタジー』や『アバター』をはじめ少なくない先行例があります。けれど、こういった作品は写実性の高さによって、「現実かのように」錯覚させることに注力している印象があります。つまり、現実とそうでないものの境界線をなくす方向へ、ある意味では、対立の痕跡を消してゆくようなものへと発展しているのではないでしょうか。『リアル』は、そういったCG造形のジレンマを受け入れたうえで、境界線上の存在を描き出すために積極的に用いました。ゆえに、本作におけるCGは、二つの世界を越境するもの、もしくは橋渡しするものとして用いられています。これは、一見すると同じくして「現実かのように」錯覚させることを目的としているようで、CGに明確な意味や役割を置いたという点で大きな違いがあります。黒沢監督は「実写」か「VFX」か、という問いに対して、両者が共存できる第三項の考えを示していると言えるでしょう。それは、これらの対立について早くから自覚的だった*52*53監督なりの、CGにとっての映画内での「実存」を探求した結果の、ひとつの答えなのではないでしょうか。

黒沢: 映画で人の心の中を描けないのは当たり前で、意識下と現実とをどう描き分けるんだとか、実際様々な難問が待ち構えている。でもこれ映画ですよね、って。リアルかアンリアルかじゃなくて、映画ですよねって。映画っていうメディアではどう転んでも、ある場所で、ある俳優が演技か何かをやっていて、そこへカメラを向けるわけで、そのことには心の中であれ、意識下であれ、現実であれ、たぶん違いはない。どれが意識下でどれが現実なのか、どれがリアルでどれがアンリアルなのかということは、本当に物語上の話でしかない。物語の上では、シーンによって「これはリアルで、これはアンリアルだ」と区別できるのですが、映画であるシーンが終わると、直結で「次のシーン」がくる、これを何十回か続けて映画は終わる、その原則は不変なわけで、ここに映画の真のリアルがあるということだったんです。わかりますかね?(笑)。

――最新作『リアル~完全なる首長竜の日~』黒沢清 インタヴュー

  「映像研」のメディアミックスを比較したときに、映画・ドラマ版では、「実写」と「CG」という特徴が立ち上がります。クリストファー・ノーランや『巨神兵東京に現わる』の事例を通して、「実写」の強みは、目の前で起こっているかのような緊迫感や、画面上の出来事に対する強い説得力の獲得にあったことが分かりました。この点に関しては、『1917』などの「ワンカット」撮影を売りにした映画にも当てはまりそうです*54*55。一方で、黒沢清『リアル』では、CGに現実世界と非現実世界の境界線という明確な役割を与えることで、VFXのひとつの可能性を示してくれました。さて、VFXをメインに据えた映画・ドラマ版『映像研』には、彼らのようなストイックさはないかもしれません。けれど、実写とVFXによる表現は、現実世界と空想世界を、空間的に相対化することに成功しています。これは、漫画・アニメよりもユニークな点と言えます。また、二つの世界の境界線を越境してゆくのは、役者たちの身振りや演技です。結果として、実写版では原作の「ごっこ遊び」性が強調されているように思いました。

 「ごっこ遊び」とは、「見立て」ることによって架空の世界を立ち上げることです。それは、フィクションにとっての根本的な条件のひとつではないでしょうか。『映像研』のビジュアルコメンタリーでは、いくつかのボードゲームで三人が遊ぶ様子が映されていますが*56、こうした例も、より広範な意味でフィクションの世界へと入ってゆく「ごっこ遊び」のひとつでしょう。実写版『映像研』はまさしくそういった、「ごっこ遊び」の共有によって、観ている人と共に「最強の世界」を目指す作りになっているのではないでしょうか。

 

 

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さきのこと

 さて、長々と書いてきたブログもこれで終わりです。最初に書いたとおり、今回はあくまで雑感なので特にオチなどもありません。グループの未来に期待するものは、所々で書いているので、それを改めて言う必要もありません。それでも、自分がまだ触れていないものへの期待も込めて、少しだけ、「卒業後」について朗読劇を中心にして書いていこうと思います。

 今回のブログでは、より広範になりつつある乃木坂46の「演劇」について思うところを書いてきました。個々人の持ち味は、芝居、歌劇、ミュージカル、期生で集ったとき、先輩後輩で集まったとき、外へ出たとき、様々な状況下で見え方は流動的に変化しています。それはもちろん、グループの活動が広がっているあかしでもあるわけですが、そんな彼女たちがまだあまり手をつけていないジャンルに「朗読劇」があります。一応、ストイックな「朗読」スタイルのものは、初期から中期にかけて、「AKB48の“私たちの物語”」「安部礼司」といったラジオドラマへの出演はありますが、継続したかたちでコンテンツ化した例はありません。今年に入ってから久保史緒里がオーディオドラマと銘打たれた『阪堺電車177号の追憶』へと出演したことは、その意味では久しぶりにも思えます。

 ただ、これらの時期の乃木坂46において、独自のコンテンツとして確立した類似のものとしては『乃木坂浪漫』が挙げられるでしょう。こちらは映像作品ですが、文学作品の「朗読」に重きを置き、グループの「文学的」イメージを形成する一助を担っていたように思います。「朗読」はそもそもこういった文学性と不可分なかたちでクリエイティブのなかに存在していたように思います。最たる例は『橋本奈々未の恋する文学』でしょう。ただ、乃木坂46と文学の関係は、昨今では「乃木坂文庫」といった企画や、高山一実の『トラペジウム』刊行といったトピックはあれど、以前のような作品世界に分け入ってゆくようなものでなくなっています。この点については、継承という意味でも廃れてほしくないなあと思います。このとき、「朗読」という手法はひとつのアプローチとしてかなり重要な位置を占めている気がします。

 さて、舞台進出が当たり前になった乃木坂46において、直接「朗読劇」に参加した例はどれくらいあるのでしょうか?私は、正直言ってほぼ思いあたりません。昨年、伊藤純奈と伊藤理々杏が『百合と薔薇』に出演した例がありますが、それ以外となると分かりません。しかし、これはあくまで現役メンバーについて当てはまる話です。どういうことかというと、一部の卒業メンバーは、トータルで見れば少ないとはいえ舞台ものの「朗読劇」への参加が散見されるのです。深川麻衣の『ふじ子の恋』『栄二を愛した女』『柳橋物語』、生駒里奈の『逃げるは恥だが役に立つ』『私の頭の中の消しゴム』、そしてつい先日発表された井上小百合の『銀ちゃんが逝く』などがそれにあたります。井上に関しては、過去の46時間TVの電視台において、朗読劇に初挑戦という企画として『不思議の国のアリス』を披露しているので、卒業後に本格的に芝居の道へ進むうえで、自らの知見を広げているような印象を受けます。また、これらの事例がいずれも、女優業へと舵を切ったメンバーによるものであることも興味深いです。もしかすると、「朗読劇」に求められるのはある種の成熟に裏打ちされた声の質感なのかもしれませんね。

 さて、本当に最後に、ひとつの映画を紹介したいと思います。未見ではあるのですが、今年になって公開された衛藤美彩主演『静かな雨』です。「朗読劇」の流れでなぜ、これを取り上げたかというと、ひとつ目に衛藤美彩が「声」にフォーカスされやすいメンバーだったこと*57、ふたつ目に今作の監督・中川龍太郎が詩人から創作活動をスタートした珍しい経歴を持つ人であったこと*58*59、といった理由が挙げられます。特に後者については、過去作『四月の永い夢』などは、台詞回しや、画面の文学的かつ繊細なタッチが際立っていました。今回の映画がどのような仕上がりとなっているのかは分かりません。しかし、卒業後に、在籍時とは異なるかたち、かつ現行のグループのクリエイティブとは差別化するかたちで「演劇」へとアクセスすることが可能でれば、ファンとしても楽しみが一つ増えるように思います。「朗読劇」は、もしかするとその一例になるかもしれませんね。そして個人的な記憶として、『静かな雨』の映像を観て、かつて文学作品を朗読していた一期生たちの姿を思い出し、どこか懐かしい思いにさせられたということを付け加えておきます。

 

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おわり

 

*1:アンビバレントさに留まることから(※著者による告知記事)|https://note.com/t_katsuki/n/n93612a7b97cd

*2:ネット上で読める香月さんの主な文章は以下のリンク先参照。|WEB青い弓(※書籍化に伴い本来のページは閲覧不可。リンク先はインターネットアーカイブによる復元)|noteReal SoundEXweb現代ビジネス

*3:AKB論 - アンサイクロペディア(※当該事項について揶揄するためのページではあるので、その点には留意)|https://ja.uncyclopedia.info/wiki/AKB%E8%AB%96

*4:「乃木坂論壇」は生まれ得るのか?(『乃木坂46ドラマトゥルギー』読書メモ)|https://note.com/regista13/n/ne7170b71c353

*5:ハイカルチャーの大衆化」とはなにか:――歌舞伎の高尚イメージ形成と「初心者」からの眼差し――|https://ci.nii.ac.jp/naid/130003377425

*6: スターシステムと文化の「高級」性の根拠:歌舞伎の社会的地位を事例として|https://ci.nii.ac.jp/naid/110008585172

*7:アイドルの内/外の対立はとても根深いと思うのですが、そういった事実への介入で個人的に印象深く、ブログを書きながらなぜか思い出したは、『その「おこだわり」、私たちにもくれよ!!』の最終3話で、松岡茉優が憧れのモー娘。の加入を目指すというくだりです。ここではむしろ、アイドルの職能的な側面が一人の女優によって逆照射されています。|https://www.tv-tokyo.co.jp/okodawari/smp/story/

*8: 乃木坂46のレギュラーラジオ番組を大特集!「ラジオ番組表」が好評発売中!|http://www.nogizaka46.com/smph/news/2017/04/46-4301001.php

*9:藤子・F・不二雄の短編集『ミノタウロスの皿』に収められている漫画『劇画・オバQ』は、Q太郎が15年ぶりに正ちゃんたちと再会する物語です。正ちゃんは、Q太郎との再会を喜び、かつての仲間たちとの同窓会では「永遠の子ども」であることを誓い合います。しかし、翌朝、正ちゃんは奥さんから子どもができたことを知らされると、飲みの席での誓いなど忘れて張り切って会社へと出かけてゆきます。正ちゃんがもうかつてのような子どもではないことを悟ったQ太郎は、人知れずどこかへと飛び立ってゆく……。

*10:高橋源一郎による小説『さよならクリストファー・ロビン』は、「ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでいて、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた」という一文からはじまります。『クマのプーさん』の登場人物たちはある日突如として、自分たちのいる世界の「向こうの世界」、すなわち物語の作者や読者のいる世界でなにか大変なことが起きたことによって、「虚無」に浸食されるようになります。自分たちが消えてしまわないために、プーさんたちは、自分たちが物語の住人であるのであれば、自分で自分の物語を書けば消えないのだと考え、毎晩みんなが物語を書くようになります。しかし、それでも徐々に疲弊してゆき、一人また一人と世界から消えてゆきます。最後に残ったクリストファー・ロビンはプーさんに、今夜は書かないということを告げ、プーさんはひとつの決断をする……。リンク先はラストの文章。|http://kagari-tachibana.seesaa.net/article/299405765.html

*11:井上小百合は、初年度末のブログに「私の青春時代は、皆さんに捧げます」と書いています。|https://janelin612.github.io/n46-crawler/sayuri.inoue/index.html?no=810

*12:生駒里奈はグループの卒業を発表した際、理由の一つに「新社会人」の年齢であることを挙げました。|https://janelin612.github.io/n46-crawler/rina.ikoma/index.html?no=11

*13:情熱大陸齋藤飛鳥の回を観て、以前誰かが「彼女にとっては乃木坂が社会だったんだね」みたいなことを言っていましたが、彼女の発言の節々にそういったものを感じ取ってしまうことには同意できました。|https://www.mbs.jp/mbs-column/jounetsu/archive/2018/12/12/015178.shtml

*14:高山一実の小説『トラペジウム』は、東西南北の女子高生を仲間にするというあらすじからも分かる通り、主人公は知らない学校の校舎の中に分け入って行くことになります。今作を読んだとき、それが、特殊な立場の中で学校生活を完走しきれなかった高山の素朴な憧れに感じられました。感傷的な青春への回顧というには複雑だとは思いますが。そして最近、文庫化された際に追加されたあとがきを兼ねた高山のエッセイは、乃木坂メンバーとは関係ない、彼女の個人的な親友たちのことが綴られています。『トラペジウム』発売当初、作中のキャラクターは乃木坂メンバーをもとにしていると語られていたけれど、そこには、多くの読者が想定しているような「アイドル」の時間を生きる高山の姿は少ないのです。けれど、それは彼女が敢えて「エッセイ」という言い方にこだわることに現れているように、制作の裏話や秘話として、遅ればせなネタバレ(それはある意味で「物語」の続き、もしくは再物語化なのです)として書かれているのではありません。彼女が小説を書きながら触れていたかつて目の前にあった現実に対してできる偽りのない「今」の描写なのだと思います。|http://blog.nogizaka46.com/kazumi.takayama/smph/2020/04/055658.php

*15:パスカルキニャール『舌の先まで出かかった名前』|http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=760

*16:乃木坂46×西加奈子「サムのこと」は4期生たちの歩む道程まで照らす ドラマ版の再解釈を読む|https://realsound.jp/book/2020/04/post-534638.html/amp

*17:乃木坂46版『セラミュ 2019』から考える、グループがもつ舞台志向の継承|https://realsound.jp/2019/10/post-434225.html

*18:(※以下は『あゆみ』をはじめて観た時の感想です)一人の女性のありふれた一生をなぞること。そこに、ひらがなメンバーたちの人生はわずかにしか重なる瞬間がない。演じられる場面の半分くらいは、彼女たちにとって現実感のないような年齢の役だったりする。それでも、ひらがなが演じることに意味があるのは、彼女たちが「何者でもない」からだ。ありふれた一生も、役者自身の生々しい肉体の寂れに乗っかれば、いくらでも大人たちの感傷や後悔といったネガティブな方向に引っ張られてしまう。けれど、まだ幼い彼女たちには、明るく、希望的な意味での空虚な未来像しかない。だから、そこで描き出されるありふれた一生は、ただただピュアで美しくて、希望的だった。

*19:ちなみに演技については、本人たちがいくつかインタビューで答えている。『サムのこと』➡dTVモデルプレスReal Sound。『猿に会う』➡dTVモデルプレス乃木坂46のメンバーではないが、『猿に会う』で妹役として共演した石川瑠華のインタビューは、演じるうえで心掛けていることは、「自分の知っている自分に正直になりたい」、役者としての将来像は「普通の人を普通に演じられる人」とそれぞれ答えており、彼女の演技観は興味深い。

*20:平田オリザ: ……私は、日本の近代演劇が抱えてきた諸問題を、大きくは戯曲、あるいは戯曲のことばの問題であると考え、その改革を提唱してきた。「芝居がかった」「演劇臭い」と形容される演技は、多くは、俳優の責任というより、無理な語順で書かれた「日本語のようで日本語でない奇怪なシステム」(小林秀雄)による台詞に原因があり、これを整理することで極端な強弱アクセントは排除され、本来の日本語らしい発話が行われるはずだというのが、私が提唱してきた現代口語演劇理論の中核であった。|https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56017

*21:詳細については以下なども参照|静かな演劇青年団とは演劇1 演劇2

*22:アイドルと演劇の関係については以下の文章も興味深い。/「ももクロ×平田オリザ」論 「幕が上がる」をめぐって――関係性と身体性 対極の邂逅|https://synodos.jp/culture/13808

*23:この点については具体的な例があります。それは、2015年の舞台『じょしらく』のチームく公演の時のものです。詳細は省きますが、この公演のラスト、すなわちオチは、松村の落語で終わるのですが、最後の台詞は「これ以上、落ちてたまるか」というものでした。私は生で観たわけではないのですが、画面越しでもそれが熱のこもった言葉であったことは覚えています。問題なのは、この台詞の場面が、とても話題になったことなのです。というのも、この舞台はタイミング的には松村のスキャンダルの少し後に行われており、『じょしらく』という舞台が過度にメタネタを盛り込んだものであった=役よりも演じている人へと意識を向けさせやすかったという性質もあって、先の台詞が現実の松村の苦難や葛藤と結びついた鬼気迫るものであったという評価がなされました。本人もブログに書いているとおりなので、そういった受け取り方を否定はしないのですが、一方で、これだけあからさまな状況の下でしか、「演技」の評価はなされないんだなということが個人的にはもどかしくもありました。もちろん松村自身は必死だったのかもしれませんが、こうした過去との向き合い方が、観客によってそれこそ「ドラマ」に仕立てられてゆく過程には少々警戒心を持ちたいなと思います。また、平田オリザの口語=「自然な口調」に基づいた演劇観には、「役者は代替可能」という考えも同時にあります。これはともすれば、冒頭の「アイドルの出る必要のない演劇」の話とも結びつくかもしれません。平田オリザの批判によって明らかとなった、「役者がそこに立つ必然性がない」事実は、現代においては作劇の前提条件なのかもしれません。であれば、松村の事例は舞台に立つ理由があるからこそ、観る側には注意が必要と言えそうです。なぜなら、演技の上手い下手と、役者がそこに立つ意味は根本的には無関係だからです。また、そう思えば、立つ理由がある演技というのは、例えば「政治」なんかと相性がいいのかもしれないと思ったりします。だからこそ、政治家の発言は、アピール力や演説パフォーマンスではなく、政策内容で評価しなければならない。演技によって示される必然性と、政策内容によって示される必然性はまったく異なるから。

*24:松村の話題にされ方については以下の記事などを参照➡乃木坂散歩道・第183回「じょしらくパラレルワールドアンタッチャブル」|https://nogizaka-journal.com/archives/joshiraku-parallel-untouchable.html

*25:「役者は代替可能」の考えを裏付けるように、近年の平田が取り組んでいることの一つに「ロボット演劇」があります。以下参照。|さようならいつかロボットは、俳優を上回る

*26:『三番目の風』『4番目の光』/乃木坂46の歌詞について考える|https://note.com/springisintokyo/n/n0c2ff4333746

*27:「4番目の光」の対になる楽曲は「三番目の風」よりもむしろ「Against」である|https://note.com/nogirakuda/n/n01ab88abc229

*28:乃木坂46 TVCM「拝啓 AKB48様」からの「拝啓 乃木坂46様」|https://www.youtube.com/watch?v=EqkcK5hKwzA

*29:堀未央奈「2期生、特に寺田蘭世と今後のグループについて話すことが多いんですよ。私たちが乃木坂に魅力を感じたのはその唯一無二感というか、繊細で芸術的な作品が多いところでした。楽曲だけでなく衣装もMVもそう。一見マイナスに感じるようなメンバーの個性でも、グループ自体の不思議な魅力で逆に輝かせてくれる。実際、乃木坂に入ったあとも「このグループに入ってよかった」と思えたんです。ただ、より広い世代に愛されたいと思うと、王道寄りというか、癖のないところにいってしまうんじゃないかという懸念もあって。王道も素晴らしいことだと思うけど、私自身は6年間やってきてこだわりを持っているし、誰に何を言われても自分を曲げないタイプなので、乃木坂の素朴でまっすぐなのに個性がある唯一無二なところは引き継がれていってほしいと思うんです」――EX大衆2019年7月号

*30:3期生の期生楽曲(センター曲は含まない)の歌詞一覧。|三番目の風思い出ファースト未来の答え僕の衝動トキトキメキメキ自分じゃない感じ言霊砲平行線毎日がBrand new day

*31:落語に関しては、舞台『じょしらく』の中で実際に落語に挑戦するくだりがあるものが代表的な例。ほかにも、松井玲奈が番組で「時そば」、北川悠里が個人PVで「寿限無」に挑戦しています。漫才は、伊藤かりん個人PVのなかで挑戦した例があります。また、「お笑い」と坂道グループの関係については、吉本坂46などがもう少し直接働きかけをしているのかもしれないですが、別グループにはそもそも関心が向かないのでここでは割愛。

*32:岸田賞の選評はまだ公開されておりませんが、作品については以下なども参照。|男女同数の最終候補作から見えてくるもの――第64回岸田國士戯曲賞予想対談第64岸田國士戯曲賞ノミネートされました!|岩崎う大(かもめんたる)|note

*33:ちなみに初期の乃木坂46のバラエティへの進出などについては以下を参照。|https://books.rakuten.co.jp/event/column/nogizaka46/vol22-sp.html

*34:連載: 個人PVという実験場|https://exweb.jp/articles/-/73323?page=1

*35:『街の子ら』が見せた、過去・現在・未来の交差|https://note.com/oliviasbook/n/n9c7f8f147cdb

*36:この点については監督インタビューなどを参照。また、このインタビュー内で語られる中上健次十九歳の地図』と連続殺人犯との関連性にまつわるバックボーンや逆照射される社会のムードについてなどは、重松清世紀末の隣人』などを参照。

*37:JAPANカルチャーを紹介し続けるベルギーの臨床心理学者が選んだ2017年日本映画のベスト10がシネフィルに到着! |https://www.google.co.jp/amp/s/cinefil.tokyo/_amp/_ct/17138664

*38:彼女たちのことは、クラウドファンディングのページに明るい。

*39:複数メンバーがメインキャストを務めた事例の初期のものとしては、『BADBOYS』などもあげられるが、そちらはグループの大々的なタイアップというかたちではなかった。

*40:【憑依型】振れ幅ある演技が魅力の齋藤飛鳥https://youtu.be/8eAigzjV4uo

*41:伊藤沙莉齋藤飛鳥、人見知りが共通点?「映像研」浅草氏の魅力|https://www.cinematoday.jp/news/N0114752

*42:『映像研』で共演 乃木坂46山下美月&梅澤美波齋藤飛鳥はやっぱりすごい」|https://ananweb.jp/news/287189/

*43:齋藤飛鳥の女優としてのターニングポイント? ドラマ『映像研』でイメージと真逆のキャラに|https://realsound.jp/movie/2020/04/post-534696.html/amp

*44:火を守る時間 —『映像研』のマンガ空間・アニメーション時間—|http://12kai.com/manga/archives/1615

*45:映画「インセプション」の夢の中で天井と床が逆転するホテル内の戦闘シーンはどうやって撮影されたのか?|https://gigazine.net/amp/20150814-inception-hallway-dream-fight

*46:パプリカとインセプション胡蝶の夢。|https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5065/

*47:文楽がなければ巨神兵はなかった「巨神兵東京に現わる」監督補・尾上克郎に聞く|https://www.excite.co.jp/news/article-amp/E1354461270317/

*48:シン・ゴジラ」が着ぐるみではなく、フルCGだからできたことって?|https://www.google.co.jp/amp/s/www.excite.co.jp/news/article-amp/E1471501590622/

*49: 庵野総監督からの要望「初代ゴジラの着ぐるみっぽくする」を実現したゴジラモデルとは|https://cgworld.jp/interview/201608-cgw217t2-godzilla.html

*50:幽霊のカメラ目線 クロサワキヨシ的アイドル論|https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/2572/

*51:……小説と違って映画というのは、人の心を描くことが直接的にはやりにくいメディアである。小説は心の中を言葉で(一人称だろうが三人称だろうが)直接描写することができるが、映画では独白のナレーションという手段はあるが、それはやはり言語を通じた描写であり、映画メディアへの小説の導入ということに過ぎない。 映画で心を表現するというのは、このように考えると、まさに大変ハードルの高い課題なのである。|http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2013/06/real-kubinaga-r.html

*52:庵野秀明山崎貴に続くのは山田洋次黒沢清!? 『海賊とよばれた男』が示す日本映画とVFXの関係|https://www.google.co.jp/amp/s/realsound.jp/movie/2016/12/post-3659_3.html/amp

*53: 映画の存立さえ危うくしかねない「真実の声」に導かれて|http://kobe-eiga.net/webspecial/review/2013/05/%e7%ac%ac%e5%8d%81%e4%b8%80%e5%9b%9e%e3%80%8e%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%ab%ef%bd%9e%e5%ae%8c%e5%85%a8%e3%81%aa%e3%82%8b%e9%a6%96%e9%95%b7%e7%ab%9c%e3%81%ae%e6%97%a5%ef%bd%9e%e3%80%8f/

*54:SFX/VFX映画時評 -1917 命をかけた伝令|http://www.rm.is.ritsumei.ac.jp/~tamura/sfx/sfxv_content1008.html

*55:“ワンカット”が話題の映画「1917 命をかけた伝令」はどのように撮影されたのか?|https://www.google.co.jp/amp/s/av.watch.impress.co.jp/docs/topic/1232/546/amp.index.html

*56:乃木坂46ボードゲームをよくコンテンツに取り込む。工事中内の「ボードゲーム部」を筆頭に、46時間TVの名物企画「乃木坂人狼」、のぎ天2の「ボードゲームで遊ぼう!」回、そして「それはオレの魚だ!」をプレイした今回のコメンタリー。ロールプレイを求められるテーブルトーク式のゲームでは「演技」が求められますが、これらの企画で扱われたゲームたちも、ボード上の世界を「見立て」るものです。

*57:衛藤美彩は、歌劇などへの出演は少ないながらも、生田絵梨花らとユニットを組む「歌唱メン」でした。卒業ライブがソロコンサートという形式をとって成立させることが出来たことも、それを裏付けています。また、ラジオパーソナリティの経験も豊富。TV番組ではスポーツニュースのアナウンサーも務めています。グループ在籍時の作品では、5thシングルの個人PVが、長台詞を読ませるというものでした。監督はインタビューでドッキリ企画のようなものであったことを明かしていますが、とにもかくにも彼女の「声」にフォーカスされていたことは間違いないでしょう。

*58:詩人から転身した映画監督・中川龍太郎に、太賀らの証言で迫る|https://www.cinra.net/column/201805-shigatsunonagaiyume

*59:詩人をしながら映画の世界に 海外からも注目される新世代の監督・中川龍太郎https://www.asahi.com/and_M/20180818/155141/