空白でない余白を


はじめに

 2021年1月8日、乃木坂46の26thシングル『僕は僕を好きになる』のMVが公開されました。楽曲自体は、2020年11月下旬以降から、MVに先立つ形で、年末の歌番組などにおいてライブパフォーマンスを目にする機会が多くありました*1 *2。MV公開前までの印象は、少しネガティブなものでした。「嫌いな人の名前を書いてみる」といった強烈なフレーズから始まり、自身の孤独感について内省的に語ってゆく歌詞。淡いグリーンに繊細な装飾の施されたワンピースと、ひざ丈のスカートに白のハイソックの歌衣装は、悪い意味での少女趣味が過度になったものにも感じられました*3*4。パフォーマンスは、比較的歌詞の内容に対応する形で振りが構成されていることもあり、単調に見えてしまう瞬間もありました。
 とはいえ、MV公開前の段階でも今作が意図するものをいくつか汲みとることは出来ました。例えば、歌詞についてでは、全体として暗い印象が前に出すぎていますが、内容は『君の名は希望』において示された自己肯定のプロセスと近しいニュアンスがあります。したがって、『夜明けまでは強がらなくていい』などで明言された原点回帰を、新体制で意識していると感じられました。また、歌いだしのパートの最後のフレーズが「三番目も…」であることは、白石麻衣卒業後に、初センターとして三期生の山下美月が選出された状況を踏まえたものでしょう。さらに言えば、期生曲としてある程度未来への意思を強く打ち出していた三期生メンバーが、フロントに立つタイミングで内省的な歌詞を歌っていることにも、一定の連続性が感じられます。
 さて、そんな漠然とした楽曲自体への印象を抱えたまま見た本作のMVですが、ひかえめに言って最高でした。今回のブログでは、このMVについて書いていきます。

 MVについて、さきに結論を言っておくと、今作のメタフィクション的な、ストーリーの重層的な「構造」には自分の関心は向きませんでした。今作の魅力はむしろ、言語化することのできない、画面に現れるメンバーたちの「表情」の繊細な浮き沈みに付き合うことにあると思いました。そこで、以下では「MVの構造」と「画面に現れる顔」について、順に見ていきます。

 

1. MVの構造のこと

 まずは、「MVの構造」についてです。今作は公式のアナウンス*5にもある通り、「歌唱パフォーマンス、女優としての演技、モデルとしての撮影、さらにはバラエティ番組の出演など、その全てをこなすアイドルという存在」の複数の「生きる姿」をコンセプトに、「どこまでが本当でどこからが演技かをわからなくしたい」という監督の意図を反映したものとなっています。前半はMV公開前にファンの多くが目にしていた歌唱パフォーマンスを追った、いわゆるダンスパートです。その後、カメラがゆっくりと後退してゆき、彼女たちが身を置く場がMV撮影の「現場」であったことが明かされます。以降は、ドラマ、モデル、TVバラエティといった様々なシチュエーションにおいて、同様に「舞台上のパフォーマンス→現場であることの種明かし」という順で映像がテンポ良く切り替わってゆきます。それによって、「いくつもの水準のアイコンを常時演じ続けることのプロフェッショナルである乃木坂46」の姿がクリアに示されます*6

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メタフィクションとは

 さて、このような画面内の出来事に画面の“外”を相対化してゆく仕掛けは、メタフィクションと呼ばれる手法であり、グループの過去のクリエイティブでもフェイクドキュメンタリーといったかたちで大々的に採用されたこともあったものです*7メタフィクションのひとつの特徴として、メタを重ねる、すなわち「リアル」を「リアル1」「リアル2」「リアル3」……といった具合に重層化・階層化することによって、より強度のあるオリジナル、根源たる「リアル0」とでも言うべきものを立ち上げることが挙げられます。それによって、「リアル0」への到達不可能性や、言語化や紐付けできない細部へと意識を払わせたり、あるいはただ画面に起こっている出来事の事実性へと回帰させるような、そういった経験を観客の側に起こします。
 しかし、この「リアル0」への渇望を駆動させることには問題があります。それは、複数あるシチュエーションやその他の「リアルn」を、真のオリジナルたる「リアル0」に比べて劣ったものとして扱う危険があるのです。例えば、アニメーションにおいて、キャラクターが普通にドラマを起こしている場面に続いて、現実のアニメーターがそのキャラクターを描いている場面が現れた場合、キャラクターたちの生きる現実は、「リアル」から「フェイク」なものへと様変わりしてしまうでしょう。さらに、そのアニメーターたちも実は別の人物によって描かれたものであった、あるいは写真であったといった具合にメタを何度も繰り返されると、見ている側は画面上に映っているものに「リアル」がないと思いはじめるわけです。あるいは、それでも「リアル」であると思わせるようなショッキングを画面の内に求めてしまう*8といったことも起こります。これは、一般的な「メタ」と呼ばれる手法に共通するものです。ここでは、「リアル0」の特権視とともに、「リアルn」に対する不信が起こっています。つまり、画面の内外にある複数の「リアル」に縦関係を生み出してしまうのです。

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円環的なストーリー

 ここで改めて『僕は僕を好きになる』を観てゆくと、必ずしもそのようなベタなメタフィクションを意図しているわけではないことが分かります。MVの最初と最後の映像は繋がっており、全体としては円環的なつくりになっています。ブリッジの役割を果たすタイトル文字は、二つの「僕」が鏡合わせになる形でデザインしてあり、その構造を象徴しているかのようです*9。さらにそれは、今作のドラマパートを見れば明らかです。というか、そもそも今作のMVにおけるストーリーとは何でしょう?画面内に継起する出来事は通時的には語られておらず、山下美月が特定の場でパフォーマンスをなすことに、映像から何らかの動機や理由、継続的な意思や信念の働きを読み取ることはできません。ただ、あくまで設えられた場へと赴き、去る、その繰り返しの中に彼女が存在しているだけなのです。
 メタフィクション的な「リアル」の取り扱いをMVのストーリーや中心的な構造に据えた過去作と比べてみると、その違いは顕著であることが分かります。『帰り道は遠回りしたくなる』では、一つの偶然に導かれた決断を起点にして、西野七瀬の人生が複数に方向づけされ、それぞれのルートでアイデンティティが強化されてゆくストーリーが展開されます。ここでは、場や状況と結びついた「個性」の確立が相対的に描かれているわけです。あるいは『君の名は希望』のエチュード版では、稽古場でのドキュメンタリーとパフォーマンスがシームレスに移行することで、当時のメンバーたちが未分化であったことの生々しさが暴き立てられます。ここでは、ふだん着飾っている彼女たちから様々なものをそぎ落としてゆき、最後に残ったものやアウトプットされたもの(すなわち生身)を唯一の「リアル」として特権視させてしまうような事態が起こっています。これら二作は一見まったく異なるコンセプトのようで、複数の「リアル」を相対化することによって主体の内外に「確たるもの」を求めるという点で共通しています。
 対して、『僕は僕を好きになる』のMVにはそのような内面的な個性の確立や、「リアル0」として現れる特定の身体的な状況(外面としての現れ)への特権視がない。今作の円環的な構造と抑制されたストーリーテリングは、それらをゆるやかに回避しています。様々な場で演じながら、オン/オフの境を曖昧にしてゆく山下に対して、ただ我々は、彼女の「リアル」が流動的に(縦ではなく)横へと増大していることを感知するのみです。物語は周到に排除されており、軽やかに横断している様子が、テンポよく切り替わるカットによって演出されています。

破局』の主体

 個々人になにがしかの「確たるもの」を求める旧弊的な神話がない。本題から少々脱線しますが、よく似た印象を最近読んだ小説でも感じることがありました。2020年上半期の芥川賞を受賞した遠野遥『破局』では、大学四年生の一見して満ち足りた青年と彼の周囲の人々の、空虚ともとれる現代的な主体のありようが描かれています。
 語り手である主人公は、肉体的に恵まれたラガーマンであり、知性も社会的な立場もある。彼の行動は常に自信に満ちており、決断的にも映る。しかし、その行動の根拠は彼自身にあるのではなく、社会的なマナーや慣習、父親の教えといったものにすぎません。言ってしまえば、彼は成熟した主体かのように振る舞いながらも、極めて社会や外部に従順なだけなのです。これは、彼自身が常に他者との関係の内にしか日々の(ごくごくふつうの)行動をなさない、 自己完結した欲望や意思を持てない様子からもうかがうことができます。さらに、周囲にいる友人や恋人たちは、皆それぞれに不安を抱えているのですが、この不安は主人公が従順である記号化された「外部」の裏側にある規範などによって増幅されたものであるのです。『破局』では、自らの欲望に常に他者が半分挿入されている、自我と呼べるものが希薄な若者たちが登場します。

物語を離れて

 さて、この個人的な連想にあった『破局』の人物造形を踏まえると、「僕は僕を好きになる」というタイトルに表された言葉も、「自分の表裏の両方を好きになる」といったシンプルな意味合いではないように思えてきます。MVのなかで、あくまで「リアル」が相対化されてゆくだけで、自らの物語によってそれらの統合を試みることのない山下美月。その姿からは、他者が交差してゆく場や、他者によって作動する回路のようなものとして彼女のありようが感じさせられます。単純な他者の承認による自己肯定や、現実逃避からの帰還などによる、パーソナリティの充実といったことではなく。そのようなステレオタイプの理想からは抜け出している……。自分の印象に基づいて飛躍した言い方をすれば「僕は僕を好きになる」という言明は、個別なものの両面性の肯定ではなく、個別なものが他者との間に取り持つ中間的な領域とそのボリュームを肯定しているように響きます。このような歌詞のニュアンスの豊かさを、MVは可能にしてくれました。
 では、改めてMVにはいったい何があるのでしょうか?歌詞の世界観と呼ぶようなものは、一対一で対応する形では反映されていません*10。映像によって再定義される「僕=山下」の姿は、物語を排除している以上、映像を見ている我々にとっての「現れ」でしかないものです。であればこそ、ここには「顔」そのものの強度の経験があるのではないでしょうか。

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2. 顔のこと

 というわけで、続いて「画面に現れる顔」を手がかりにしてMVを改めて見てみます。さて、ここでひとつ意識してもらいたい点があります。今作において映像に映るメンバーたちと目が合う瞬間は何度あるでしょうか?映像が開始するとすぐに、フロントメンバー五人がひとりずつ軽く顔を上げて、これ見よがしに目が合うカットが続きます。見ている側は、そのまなざしによってぐっと映像の中に引き込まれるでしょう。しかし、それ以降には同様の、映像の人物と見ている側の目が合うような、すなわちメンバーがカメラに目線を向けるシーンはほぼありません。かろうじて目が合うなと思わせるものは、1サビの前で堀未央奈が中心で抜かれるカット*11、1サビの導入で山下美月をバストショットで捉えたカットくらいでしょうか。最初のダンスパートの、引きのショットでフォーメーションの全体を捉えたものも、やや上方から角度をつけて追っているため、歌番組での歌唱パフォーマンスのような正面からメンバーたちと向き合うこともほとんどありません。
 ドラマパートでは目が合わないという傾向がより顕著なものとなり、目線がカメラに対して正面から向けられることはなくなります。特にモデルの仕事をしている際に差し込まれる雑誌の切り抜きのカットでは、誌面上でこれ見よがしに目線を向けてくるメンバーの姿が映るので、映像内でのまなざしのあり方とコントラストをなしています。つまり、ダンスパートに限らず全体を通して彼女たちがパフォーマンスを向けているそのベクトルを、我々がじかに受け止める瞬間はきわめて少ないのです。
 続く2サビは、レッスン中のダンスを捉えたものです。このシーンでは、メンバーの顔が比較的正面に近い角度から映る瞬間も何度かあります。ですが、彼女たちの視線はカメラのさらにその先を捉えているようで、見ている側との双方向的な視線のやり取りの広がりを感じさせません。というのも、このシーンは本当の練習風景を撮影しているので、メンバーたちはカメラの背面に位置しているであろう鏡で自分の振りを確認しており、そもそもカメラを見ていないのです*12
 MVの最後のシークエンスでは、冒頭の場面にあったダンスのスタジオ撮影に現場入りしたメンバーたちの様子が映されます。ここでもまた、後退するカメラに向かってゆっくりと歩いてくる山下美月は、アップであるにも関わらずカメラから目線を逸らし続けます。そして、センターポジションに立つと、撮影用のカメラへと向かって笑顔向けます。なにかの衝動を解放するように、彼女と目が合い、リップシンクに「僕は僕を好きになる」という歌詞があてられます。続いてタイトルが現れ、MVの全体が折り畳まれるようにして閉じられます。

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ダンスパートの比較

 今作のMVの流れを踏まえると、ダンスパートの撮り方が異質なものであると感じられます。特に前半のスタジオ撮影のフォーマットで提示されるものは、TVで同曲のライブパフォーマンスを披露する時と、カメラ・メンバー・空間の配置が同じなので違いは明らかです。TVで披露する際は、歌割りとフォーメーションの変化に従って、メンバーたちが順に顔をアップで抜かれます。リハーサルの時点でメンバーはカメラ位置を把握しているので、自分が大きく映されるタイミングでカメラに目線を合わせて「キメ顔」をします*13。ところがMVでは、こういった目線を介した一定の緩急が全くありません。

 これは、MVだからという訳ではありません。池田一真監督*14の手掛けた『制服のマネキン』『シンクロニシティ』『Sing Out!』『しあわせの保護色』などは、ほぼダンスパートのみで構成されていますが、目線や表情は、身体の動きの延長として、あるいは身体から独立した特権的なニュアンスを生み出す部位として、様々な撮り方でかなり効果的に用いられていることが分かります。そもそもこちらでは、振りの全体やフォーメーションの変化といった緩急が、アングルや空間によってかなり多く作られており、TV撮影のような限られたアングルでしか撮れない映像とは大きく差別化が図られています。
 グループの過去のクリエイティブにおいて今作の前半のダンスパートと近いのは、極めてミニマルな空間でダンスパフォーマンスを正面から撮りつつ、アップショットによるリップシンクの映像を交えた『いつかできるから今日できる』でしょう。こちらの作品と比べると、今作MVにおいて、「目が合う」瞬間がいかに少ないかは直感的に理解できます。

曖昧な顔

 『僕は僕を好きになる』の印象が音楽番組などで事前にパフォーマンスを見ていた時のものから大きく変わった一番の要因は、MVのダンスパートにあります。まず言えるのは、MVでは振りの全容が追いづらい。定点でないから、俯瞰のショットが少なくカットがこまめに変わるから、というだけではありません。今作はメンバーにカメラがフォーカスする際、ウエストショットとバストショットが多用されています。メンバーは画面の中央に置かれ、ピントもその一人のみに合わせられています。ゆえに、画面に継続的かつ安定して現れ続けるのは、個々人の身体や全体として立ち現れるダンス(群舞)の印象などではなく、あくまで「顔」なのです。さらに、その「顔」は前述のように目線をカメラに向けません。「顔」の多くは、振りや動作の狭間の表情を捉えたものであり、ときにはフックになるような場面で身体をかがめて目線を大きく落とす様子も映されています。結果として、カメラは律義に「顔」を追ってはいますが、そのほとんどが「曖昧な顔」もしくは「表情の曖昧さ」を捉えたものとなっているのです。

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 ここまで、今作がいかに「顔」に焦点を当てた映像であるかを見てきました。では、撮られている「曖昧な顔」とはどのようなものでしょうか?それを理解するために、まず乃木坂46において「顔」がどのように撮られてきたのか、比較対象としていくつか例を挙げます。そのうえで、差異化が図られたものとして今作の「顔」を確認したいと思います。

写真集の目

 「顔」や「表情」と言ってまず思い浮かぶのは写真集です。一般的な「アイドルの写真集」と言えばどのような写真を想像するでしょうか?綺麗に着飾った姿、セクシーな姿、自然な姿、など被写体にまつわるイメージを膨らませる様々なものがあります。乃木坂46の写真集も例に漏れず、パーソナリティを深化させる写真などが撮影されていますが*15、目線を正面に向けている=目が合う写真が一枚もない写真集は存在しません。むしろ、そのような写真は積極的に撮られています。
 静止したイメージである写真は、映像に比べて「目が合う」ことによって強烈な効果を生み出します。それは、視線が交わされることによって、写真を見ている人に被写体と同じ空間を共有していると錯覚させることです。共通の「そこ」にいるという感覚。これは、顔の輪郭の部分のみに強くピントを当てたり、背景をミニマルにすることによって、すなわち画面内から感情移入しうる様々なオブジェクトやイメージを排してゆくことで成立するフィクションです。「見る」側と「見られる」側の空間的な連続性、いわゆる「恋人目線」のような親密な空気感は、こういった目線の操作によって生み出されているのです*16

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自然なグラビア

 もちろん、全てに当てはまる話ではありません。例えば、齋藤飛鳥の写真集をはじめとして、乃木坂46のグラビアを多く手がける細居幸次郎などは被写体のメンバーと会話などをしながら合図を出さずにシャッターを切ってゆきます*17。動きながら、即興的に撮影することで、自然な表情が映し出されるわけです。あるいは、プロのカメラマンではなくメンバーがメンバーを撮影する『乃木撮』は、親密さや自然さという点では限りなく「リアル」に見えます。こちらの写真集に関しては、記録的なヒットを飛ばしていることからも、少なからぬファンが自身との妄想を膨らませるようなフィクションだけではなく、「自然」「リアル」な表情を求めていることが分かります*18*19

ファッション写真の例

 また対極的な例で言えば、ファッション誌での撮影なども挙げられるでしょう。一般的に、ファッション写真とはモデルの肉体ではなく服やコーディネート、スタイリングといった全体的な世界観を演出してゆくものです。そのため、人格やメンバー同士の関係性がコンテンツの中で大きなウェイトを占めるアイドル文化においては、あまり積極的にピックアップされるタイミングはありません。
 グラビア写真にファッション写真のような緻密に作り込まれた一枚絵としての強度を持ち込んだOVERTUREが休刊したことからも、アイドルは相対的にパーソナリティや肉体*20を写すことを求められる機会が多いことがうかがえます*21。とはいえ、乃木坂46のファッション写真は前提としてあるはずの被写体の空虚さが、職業モデルの人々に比べてやや劣っています。ゆえに、世界観を作り込まれた写真に写された彼女たちの表情や視線は、ストーリー性やリアルさといったものではなく、アイデンティティが確立されたものとして別の強度を抱え込んだものとして現れています。

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シンクロニシティ』との比較

 ここまで、写真における「目が合う」経験が、映像とは異なる強烈なフィクションの立ち上げに寄与していることを確認しました。そのオーソドックスから離れたグループのクリエイティブには、「自然」「リアル」あるいは「パーソナリティ」や「アイデンティティ」の現れがみられる。これらは、先に述べた「確たるもの」へと至るものです。すなわちいずれの例も、『僕は僕を好きになる』の「曖昧な顔」とは異なります。では、映像における「顔」の表現はどのようなものがあるのでしょうか。
 取り上げたいのは20thシングル『シンクロニシティ』のMVです。同作はダンスパートのみで構成され、曲のフックにあたるいくつかの箇所で、センターの白石の表情をアップで捉えています。全体として緊張感の強いMVにおいて、白石は様々な感情の乗った表情を演じます。もちろんそれらは完全に言語化して説明できるものではありませんが、明確なストーリーがなく抽象度の高い同作の映像に、歌詞と呼応するかたちで白石の「顔」は緩急を与えています。見ている側に、全体の流れの見通しを立ててくれるといった点では、「意味づけ」に近い役割があるとも言えそうです。振付を手掛けたSeishiroは、雑誌のインタビューで『シンクロニシティ』の制作について問われた際、白石について「麻衣ちゃんは表現者として本当に素敵です。いい意味でドラマチックに物事を捉えてくれるところもあります。女性って、自分に酔いたい瞬間があるんです。悲しい時には悲しい自分でいたい。そんなシチュエーションが求められたら、すぐに理解して、躊躇なく表現できる人です」*22と答えています*23。すなわち、「顔」を媒介にした明確なアウトプットがなされているということです。

 MVでの白石の表情は、Seishiroの語るとおり、「ドラマチック」かつ「酔った」「表現」なのです。そこには過剰さがあり、明確な意味ではなくとも様々な「意味づけ」に耐えうる強度を生み出しています。では、ひるがえって『僕は僕を好きになる』はどうでしょうか?ドラマの進行を取り持つほどの役割は「顔」には与えられていません。ふとした瞬間であれ、アップであれ、パフォーマンスの合間の「曖昧な顔」たちは「意味づけ」を徹底して回避しています。だからこそ、今作の画面は単なる「顔」の相対化にとどまっていると言えるわけです。写真に写された「顔」における、「リアル」「パーソナリティ」「アイデンティティ」の現れとは、強固な主体性=「確たるもの」の緊張と緩和の程度の違いです。今作のMVでは、これら「確たるもの」の不在に加えて、「顔」がそもそもの「意味づけ」からも距離をとっていることがうかがえます。「意味づけ」は、我々がなにかを目にしたときに無意識に行われますが、今作の「顔」はそのはたらきからこぼれ落ちる、しかし結び目のようなものが残ってしまう……そういった点滅した印象をもたらしています。

奥山大史について

 今作における繊細な「顔」の捉え方について、ここで監督の作風としても押さえておきます。奥山大史監督*24は、『僕はイエス様が嫌い』*25で若くしてサンセバスチャン国際映画祭にて最優秀新人監督賞を受賞しました。一昨年末には、NHK美空ひばりのAI歌唱企画において、六人の著名人のポートレイトとインタビューを兼ねたメモリアル映像を撮っています。学生時代には大竹しのぶをキャストに迎えた「写ルンです」による短編アニメーション、最近では米津玄師のMVと、国際コンペでの受賞前後から精力的に活動されている若手映画監督です。最近の乃木坂のクリエイティブは、前回のブログで紹介した松本優作監督などコンペに出ている若い映画監督をキャスティングしており、個人的にはとても良い流れだと思っています。
 さて、映画について軽く説明すると、都会から引っ越してきた小学生の主人公が、リアルと空想(のような)存在の、二人の友人ができる。淡々とした日常が過ぎてゆくなかで、二人の友人との関係が大きく変わる出来事が起こる…...といったストーリーになっています。今作において重要なのは、何よりも人物の表情です。口下手な少年である主人公は、感情や考えていることを分かりやすく伝えてくれることはありません。楽しいことも、ショッキングなことも、一定の表情の機微のなかで静かに受け止めてゆきます。ある面では退屈とも思われるかもしれない本作は、むしろ、その徹底的に繊細なカメラの捉える世界へと分けってゆくことによって魅力が立ってきます。フィルムカメラの捉える光の濃淡は、かような画面上の微かな起伏を目で追うことを可能にしています。初見の際はあまりうまく映画のことを捉えきれられず、ただ妙にフェチ的に光る場面が自分の中に残るだけでした。けれどまさしく、そのフェチ的な光景の細部を楽しむ映画であったのです。こういった性質は、『僕は僕を好きになる』MVにおいても、反映されています。

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まとめ

 今回の内容を簡単にまとめると、『僕は僕を好きになる』のMVの特徴は、「円環的な構造」と「顔の捉え方」にある。これらによって、「強固な主体」を目指した旧弊的な自己表現や、「意味づけ」が回避され、世界への志向性そのものとして「顔」が現れている、といったものなります。
 では改めて、「顔」とは、なんでしょう?いや、「顔」が見えるとはどういった事態でしょうか?それは、何がしかの意思や態度を伝えられる、その可能性に満ちた場が不可逆的に開かれてしまうということではないでしょうか。前節の終わりにちらっと、今作の山下の顔が「他者が交差してゆく場」として現れていると書きました。これは、「顔」によってコミュニケーションが導かれ、なされてしまうことを指します。当然ながら、ここで伝えられるものは言語化できるものとは限りません。ノンバーバルな領域があります。顔とは、ゆえにあくまで「現れ」「開かれ」なのです。ラストシーン、カメラと寸前のところで視線を交わすことなく、センターポジションに向かって歩く山下美月の表情に、特定の意味を求めることはできません。しかし、そこには多くの意味、意思、態度、ニュアンス、ネガティブ、ポジティブなどの多義的な可能性が満ちていることがうかがえます*26 *27。この未分化な可能性とは、目を向ける人と、彼女とのあいだを固定化させるようなものではありません。むしろ、引き込まれるたび、頓挫する。固定された関係づけはどこにもなく、空白のままです。しかし、それは「何か」で満たされた、未だ余白しか用意されていない、あるいは既に余白のみが与えられている、そのようなものとしての現れではないでしょうか。今作の最もエモーショナルで感動的な場面は間違いなくそこにありました*28

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3. 堀未央奈のこと

 さて、『僕は僕を好きになる』のMV全体を通しての話はここで終わりです。最後に余談として、ひとつだけ気になったことを書いておきます。今作において唯一、キメ顔のような、視線を観ている側に向かって刺す場面がありました。それははじめのダンスパートの堀未央奈が中央で抜かれる場面です。ここはMV内でも数少ない、画面内にテンションが持ち込まれた場面です。決断的ともとれるような、あるいは画面の反対側から向けられるであろうまなざしに抗うような、強度のある視線。本シングルをもって卒業する堀がフォーカスされること自体は自然なことですが、彼女の視線の魅力は際立ったものとして現れました。
 これは、パフォーマンスとして完結したものではなく、現在の彼女自身のあり方が反映されたものに感じられました。というのも堀は、最近ではグループのコンセプトとは異なるかたちでの個人としての発信力が寺田蘭世などとともに注目されています*29。特にInstagramでの投稿は、単なる旧弊的なフィクションではない、内実のリアリティを伴ったかたちで強固な主体の確立を感じさせます。彼女は、「リセエンヌ」のキーワードをもとにステレオタイプな「清楚」をラベリングされてきたグループにとっては貴重な幅をもたらしていると言えるでしょう。そもそも乃木坂46は一般的な意味合いでの「着飾る」機会が極端に少ないです。ネイルは色の薄いもののみ、髪を切る時にはマネージャーの許可がいる、歌衣装とは別にTV番組などのメディア仕事用の「制服」があるため服装は画一化されている、といったような制約がいくつもあります。もちろん仕事だからといった割り切った言い方もできますが、裏を返せば、個性の表現についてはかなり抑制、さらに言えば抑圧されているとも言えてしまうのです。嫌味な言い方をすれば、ファッションや見た目に関する抑制的な制約とは、「化粧けのなさ」であり、それが清楚かつ潔癖なブランドイメージを生み出すために用いられているとも考えられます。ゆえに、堀の発信する自己表現は単なる見られる対象であることに対して、内側から跳ね返してゆく強度を持ったものに感じられます。

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フェミニズムについて

 ややデリケートな問題ですが、こうした内容は恐らく「フェミニズム」「エンパワメント」といった言葉と関連性のあるものでしょう。異性愛ジェンダーロールについて保守的な価値観を抱え込みがちなアイドルというジャンルにおいては、批判的な文脈でしばしば登場することがあります。例えば最近では、おニャン子クラブの『セーラー服を脱がさないで』を歌番組で元メンバーと乃木坂46がコラボで披露した際、きわどいフレーズを元メンバーが歌うといった保身的な配慮の仕方が、歌詞の内容とともに問題となりました*30。さらに大きな波紋を呼んだのは、2017年に日本で米映画『ワンダーウーマン』が公開された時のことです。乃木坂46は、監督であるパティ・ジェンキンスによるオファーというかたちでアンバサダーに就任*31するのですが、日本版のイメージソング『女は一人じゃ眠れない』*32の歌詞が映画にそぐわないものとして多くの批判を寄せられることとなります*33*34フェミニズムのアイコンとして歴史的な存在であったワンダーウーマンというキャラクターに、男性作詞家のクレジットで「女はいつだって一人じゃ眠れない/誰かといたい」といった真逆のイメージを喚起させる歌詞が当てられたので、批判は正当なものでしょう。この件に関して擁護するつもりはありませんが、とはいえ批判の多くは「映画公開前」に「歌詞」のみに向けられたものであったことは留意すべき点です。先の脚注でも言及していますが、秋元康の歌詞はそもそも一貫性の強いものではありません。ですので、この炎上における批判の言葉が、メンバー個々人と結びついたグループカラーとしてそのままパブリックイメージに取り込まれてほしくないなと思います。

山戸結希について

 さて一方で、グループやメンバーの実践の中には上記のような保守性から脱却する態度を示したものもあります。堀未央奈と映画監督の山戸結希*35の関りは、その顕著な例と言えるでしょう。山戸は自身が「女性映画監督」であることに極めて意識的な監督です。監督作品の多くでは、「思春期の女の子」が「理想の他者」とのあいだで葛藤してゆくさまが、旧弊的なジェンダーロールとは異なるかたちで描かれています*36。本人はインタビューの中で、「新しい願望」の誕生、「女性の主体性の回復」といった言い方をしています*37。山戸は乃木坂46の映像に初めて参加した2016年の『ハルジオンが咲く頃』以降、『ごめんね ずっと…』のMVを除いて、グループと関連のある映像ではすべて堀未央奈をメインに据えています。今回のシングルに収録された堀の卒業ソロ曲『冷たい水の中』も、山戸が監督しています。

卒業ソロ曲

 『冷たい水の中』のMVは、堀のモノローグから始まり、高層ビルの屋上で彼女が一人で踊る様子がワンカットで収められています。きわめて緊張感のある堀のパフォーマンスを、風に揺られるようにゆらゆらと動くカメラが追いかけてゆく、身体性の強い映像に仕上がっています。画面に現れる堀の意思の強いまなざしは、グループ内のこれまでの卒業ソロ曲たちとの世界観とは一線を画しています。例えば、ソロ曲を多く持つ西野七瀬の卒業曲『つづく』のMVでは、乃木坂46卒業後に家庭を持ち、日々のふとした瞬間にグループに所属していた自身の過去を想うといったストーリーが展開されます。個人的に否定する気はありませんが、このMVで提示されている「幸せ」が極めて保守的な価値観に基づいていることは事実として明らかです。ゆえに、『つづく』からは西野七瀬のいた過去への回顧に加えて、前時代的な「将来像」に対する回顧の二重のノスタルジーが潜んでいる印象を受けます。
 二つのMVが、アイデンティティの確立でなしている語りの違い。この点は、山戸がインタビューで答えた二者関係に関する言葉を参照することでよりクリアになるでしょう。「恋とは、他者への希求、自己ならざるものへのベクトルに身体が支配され、自分の身体が自分のものではなくなる危うい営為でもあります。でもその危うさのまま、『だから私をあなたに守ってもらいたい』と主体性を譲り渡す道を選んだら、きっといつか後悔する日がやってくる。他者との対話を通して、自分自身の輪郭を理解できる、自分自身の主体性を回復せられる、というふうになってほしい」*38、「歴史上、女性は常に『まなざされる』ことに特化した存在で、そこに磨きがかけられていました。でも、どうやって『まなざす』かについては、まだたくさんの、面白い余地があり、作られてゆく新しい歴史があると思います。もし同じ論でいえば、男の子たちのほうが『まなざされる』ことについての、世界の余白もある気がしますね。大切な人と、もう一度出会い直せるかもしれません」*39

最後に

 重要なことは、堀が特定のイズムに乗っ取ったスタイルやメッセージを発信しているわけではないことでしょう。イズムは、あくまで主体の確立や個々人の自由に至る、その過程を築くものであり、同一化をすべき対象ではありません。『僕は僕を好きになる』MVの山下の映り方は、主体の明確な確立を避けていると書きました。これは、改めて堀のような主体性の発露と比較すると、一見ネガティブな響きに聞こえるかもしれません。しかし、重要なのは、彼女たちがあくまで旧弊的な自己実現のプロセスを脱ぎ去って現れていることです。この点において、両者はグループのクリエイティブに新たな拡張性をもたらしているのではないでしょうか。

 

 

 

*1:フルサイズの初オンエアは2020年12月17日→【初オンエア決定!!】26thシングル表題曲「僕は僕を好きになる」!!|http://www.nogizaka46.com/smph/news/2020/12/26th-2.php

*2:TVでのライブパフォーマンス初披露は2020年11月25日→乃木坂46「僕は僕を好きになる」初披露 生田絵梨花梅澤美波・久保史緒里・齋藤飛鳥山下美月が振り返る|https://www.ntv.co.jp/best-artist/articles/117cu93sf7uyl2sth4r.html

*3:歌衣装についてはこちらを参照|https://yunimate.jp/2020/11/26/nogizaka-costume-20210101bokuwa/

*4:衣装デザインは尾内貴美香|https://twitter.com/kimikatrock/status/1348243732118728705?s=21

*5:【遂に公開!!】26thシングル「僕は僕を好きになる」Music Video!!|http://www.nogizaka46.com/smph/news/2021/01/26thmusic-video.php

*6:――香月考史: 「いくつもの水準のアイコンを常時演じ続けることのプロフェッショナルである乃木坂46」の姿を、まさに彼女たち自身が俯瞰的に「上演してみせる」ことによって、「乃木坂46がいかなる職能なのか」を指し示しているんですよね。一方で、ここで演じられるオフショット的なカットさえ受け手にとっては馴染みのある光景でもあって。それは彼女たちが常時カメラに取り巻かれオン/オフを明確に峻別しえない環境を引き受けていて、オーディエンスがそのさまを享受し続けているから。その消費のありようも忘れてはいけないわけで。(Twitterより)|https://twitter.com/t_katsuki/status/1347432572444315648?s=21

*7:フェイクドキュメンタリーについては過去のブログ記事を参照→乃木坂46とドキュメンタリー|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2019/06/28/141307

*8:ここでの「ショッキング」とは、AKB48が「ネ申すテレビ」のような自前の番組のなかで過酷な課題をメンバーに課すような事態を指します。そこでは、高所恐怖症のメンバーにバンジージャンプをさせることで、その嫌がったり怯えたりするさまを、台本から逸脱した「ガチ」「リアル」なものとして視聴者に演出してみせます。

*9:タイトル文字デザインは相楽賢太郎|https://twitter.com/sagarakentaro/status/1347490424525443074?s=21

*10:そもそも歌詞の世界観というものについては判断を留保すべきです。というのも、作詞としてクレジットされている秋元康は、200人前後の作詞家たちにイメージを投げて、その都度コンペのようなことを行っているからです。ゆえに、その作詞は一貫性のあるものでもなければ、作家性として捉えることも困難です。以下も参照。→乃木坂46、選抜&センターの決め方は?秋元康氏が明かす「見つかってほしいと心から思う」|https://www.google.co.jp/amp/s/mdpr.jp/news/amp/2388754

*11:撮影時は監督のみが堀の卒業を知っていたとのことなので、このワンカットは間違いなく意図されたものでしょう→最近のマイブームはGoogle Earthで行きたい場所に行った気分になること ps.エモくないのよ全然 | 乃木坂46 堀未央奈 公式ブログ|http://blog.nogizaka46.com/miona.hori/smph/2021/01/059697.php

*12:乃木坂46>ダンスレッスンシーンは本当の練習を撮影!「僕は僕を好きになる」MV解禁|https://thetv.jp/news/detail/1016659/amp/#click=https://t.co/e87hN2dUlq

*13:TVで披露した際の目線などは以下も参照|http://nogiradi.com/archives/27109256.html

*14:池田一真監督が手掛けた乃木坂46の映像一覧|https://youtube.com/playlist?list=PLMZ7K_OMKebEtSCektIGc8nIF0P57DJbU

*15:写真と被写体の現れの関係については、写真集刊行の際の山下のインタビューが興味深い。→乃木坂46 山下美月が考える、“アイドル”を極めるということ 「誰かの憧れになれる女の子に私もなれたら」|https://realsound.jp/2020/01/post-488404.html

*16:須江隆治が撮影を担当した山下美月の写真集のコンセプトは「大恋愛」です。そういった意味でも、『僕は僕を好きになる』での抑制された視線は彼女のこれまでのクリエイティブと好対照をなしていると言えます。→ 山下美月、写真集の裏テーマは「大恋愛」 出来栄えは「無限の可能性を秘めた、無限点」|https://www.google.co.jp/amp/s/realsound.jp/book/2020/01/post-490171.html/amp

*17:――生田絵梨花: カメラマンの細居さんとは、あのとき以来のソログラビア撮影だったけど、細居さんの撮影って不思議だ。「はい、撮るよ」と言ってシャッターを押すのではなく、ふつうに喋ってるところや、私が動いているところを、細居さんも動きながら撮る。だから、ふたりともほとんど止まっている瞬間がない。→ 生田絵梨花 宮古島ロケ日記 ~『転調』、あれから8ヶ月~|https://web-zine.net/91

*18:「アイドル写真集史上最大ヒット」乃木坂46『乃木撮』第2弾決定 “いくまい”キスカット公開 |https://www.oricon.co.jp/news/2146777/full/

*19:『乃木撮 VOL.02』はなぜ名作となった? 激動の1年半の中で輝く、メンバーたちの素顔|https://realsound.jp/book/2020/01/post-482689.html

*20:乃木坂46が写真集のときのみ水着やランジェリー姿を披露する。すなわち肌の露出によって相対的に普段のグラビアを禁欲的なものとして印象づけることは、ファンの欲望を戦略的にかき立てていると言えるでしょう。

*21:OVERTURE|https://overture-mag.com/

*22:BUBKA 7月号】《乃木坂46『Sing Out!』総力特集》 Seishiro(コレオグラファー)インタビュー「作られた美しさよりも」|https://www.bubkaweb.com/posts/6333478/

*23:このコメントは、白石のパフォーマンス全般に対する言い方になってるので、必ずしも「表情」のみに向けられたものではありません。しかしながら、「表情」への言及を含まないものでもありません。

*24:奥山大史|https://hiroshiokuyama.com/

*25:『僕はイエス様が嫌い』映画公式サイト|https://jesus-movie.com/

*26:ダンスシーンの撮影は、笑顔と真顔の二つのバージョンで撮影されたそうです。そういった多層的な「顔」の積み重ねによって、ラストシーンのエモーションが演出されたとも言えるでしょう。例えば、この表情はどちらのバージョンを踊る前のものと捉えられるか、といった。→あけおモー( ˙꒳ ˙ ) | 乃木坂46 山下美月 公式ブログ|http://blog.nogizaka46.com/mizuki.yamashita/smph/2021/01/059684.php

*27:今回のシングルのジャケット写真は、MVと同様に誰も目線をカメラに向けず、多様な表情を見せています。特にセンターの山下は、見た人を惹きつける複雑なニュアンスの表情をしています。撮影の際の「儚さと芯の強さを表情で表したエモーショナルなジャケット」というコンセプトがどこまでMVと共有されたものかは分かりませんが、理解を深める一助ともなりそうです。→【遂に完成!!】26thシングル「僕は僕を好きになる」ジャケット写真!!|http://www.nogizaka46.com/smph/news/2021/01/26th-3.php

*28:また別の観点から考えてみましょう。メンバー以外の背景に映る人々は皆マスクをつけています。今ではそのような光景は「新しい日常」として当たり前になってしまっていますが、画面内の彼女たちが「顔」を晒し続けていることは、MVに映り混んでいるご時世と対照的なものです。本作の「顔」は、そのような射程もあるのではないでしょうか。

*29:堀未央奈乃木坂46卒業 際立つ“演技力”と“発信力”が切り開く未来|https://otonanswer.jp/post/79369/

*30:乃木坂46歌唱で『セーラー服を脱がさないで』歌詞の酷すぎる女性蔑視に非難殺到! 変わらない秋元康の差別性|https://lite-ra.com/i/2020/09/post-5634-entry.html

*31:乃木坂46ワンダーウーマン」アンバサダーに、監督直々オファー|https://www.musicvoice.jp/news/20170714068394/

*32:『女は一人じゃ眠れない』MV|https://youtu.be/j3NA334tzvQ

*33:ワンダーウーマン』ジャパンプレミアに参加したファンの報告が見ていてつらい「映画は最高なのでプロモーションのことは忘れて」- togetter|https://togetter.com/li/1138412

*34:本日公開『ワンダーウーマン』、秋元康が書き乃木坂46が歌う日本版イメージソングが女性蔑視でヒドい!町山智浩も激怒!|https://lite-ra.com/i/2017/08/post-3411-entry.html

*35:山戸結希|https://www.ken-on.co.jp/artists/yamato/

*36:――山戸結希: 女性は儚いものとして、男性は力強いものとして撮られやすいけれど、それは“らしさ”というジェンダーロールに過ぎない。ならばそれが逆転するような形で、〔…〕社会的なその性別“らしさ”と対になるものを入れることで、規範からより逃れる〈中性〉としての、性別以前の人間としての美しさにつながるんじゃないかという期待がありました。→ 堀未央奈と山戸結希監督の強固な絆。運命の出会いで生まれた“魂的な双子感”|https://movie.walkerplus.com/news/article/195299/

*37:【Women in Filmmaking :撮る女子! #2 山戸結希】夢は映画女学校設立! ガール・ミーツ・ボーイなシネマ道|https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a27745160/cfea-women-in-film-industry-19-06-28/

*38:同上

*39: 映画監督・山戸結希 この時代に生まれたラッキーガールへ|https://i-d.vice.com/jp/article/3kdgvv/yuki-yamato-the-fifth-sense