ダンス・トゥ・ザ・プラスティック・ビート

 最近になって、人生で初めてハロプロにハマった。正確に言えば、今年の春ごろから徐々に楽曲や映像に触れるようになり、ここ2~3か月でJuice=Juice(ジュースジュース)にのめりこむようになった。今回は、自分が新たな沼にハマるまでの過程や、これまで乃木坂46を推してきたことで相対的に見えてきたハロプロの魅力などについて、ごくごく主観的に書き綴っていこうと思う。

目次
  1. CHICA#TETSUからJuice=Juiceへ
  2. ノリへと巻き込むライブ
  3. つんく♂とリズム感
  4. エンパワメントの系譜
  5. 憧れのゆくえ――Ⅰ. 夢の仮託
  6. 憧れのゆくえ――Ⅱ. 女の絆
  7. 「推し」の話
  8. 最後に

 

CHICA#TETSUからJuice=Juiceへ

ハロプロのイメージ

 大前提として、自分にとってのハロー!プロジェクト(以下、ハロプロ)のイメージは小さい頃にTVで見ていたものくらいしかなかった。シャ乱Qのボーカルであるつんく♂がプロデューサーであり、2000年前後くらいにモーニング娘。(以下、モー娘)が『LOVEマシーン』とかで大流行。AKB48の人気と入れ替わるようにして徐々に人気が下火になり、2000年中期に、いわゆるプラチナ期と呼ばれる時期に入って、ライブに注力するようになった。近年のメンバーでバラエティなどを通して自分が認知していたのは、道重さゆみ、ももち、岡井千聖あたり。ハロプロのグループやユニットなどは、断片的に名前だけは聞いたことがあっても、それがそもそもハロプロに所属していることすら知らなかったりした。

 古いモー娘曲以外で見聞きした記憶があったのは、かなり昔にスマイレージがレコ大の新人賞を獲った時の『夢見る15歳』と、乃木坂46(以下、乃木坂)にハマった直後にリアルタイムの他アイドル曲を見ていた時に偶然出てきた、Juice=Juiceの『Dream Road ~心が踊り出している~』のMV、フェイクドキュメンタリードラマ『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』(2016年、テレビ東京)において、松岡茉優がモー娘'16に加入するという流れから「ひなフェス2016」で披露された『One・Two・Three』、℃-ute解散年のFNS歌謡祭での『Kiss me 愛してる』、同番組内でのAKBグループ・坂道シリーズ・スターダストとのコラボメドレーで披露された『大きな愛でもてなして』である。ここ最近の関連するトピックとしては、山戸結希『21世紀の女の子』の主題歌が収録されていたこともあって触れた、道重がフューチャリングしている大森靖子のシングル『絶対彼女』、BURUTUSの特集「危険な読書」で、作詞家の児玉雨子が江戸文学について紹介しているインタビュー記事*1を読んだことなど。以上が、これまでの自分のハロプロに関する記憶、知識のだいたい全部である。

 冒頭にも書いたとおり、今年に入ってから、あるハロオタの布教活動によって、ハロプロ関連のさまざまな楽曲を見聞きした。歴史の長いグループもののアイドルかつ、それが複数に展開されていることもあって、流し見程度ではメンバーの顔と名前が覚えられる訳もない。そのため、MVやライブ映像を目にしても視覚的なとっかかりがなく、また楽曲に直感的に惹かれて見はじめたのでもなかったため、当初は雑多な印象をまとまりなく醸成してゆくといった感じだった。とはいえ、ハイクオリティなダンスや歌のパフォーマンスによるエネルギッシュなライブの魅力は伝わってきた。一方で、MVをはじめとした映像コンテンツや舞台演劇、写真集といったヴィジュアル面での展開は、それこそ乃木坂と比してやや不足に感じた。

CHICA#TETSU

 最初の転機となったのは、CHICA#TETSU(チカテツ)との出会いである。CHICA#TETSUは現在デビューしているグループの中では最も新しいBEYOOOOONDS(ビヨーンズ)の前身となった研修生ユニットのひとつであり、グループが統合されたのちもカップリング曲を担当するといったかたちで残されている。メンバーは四人で、コンセプトに「女の子が心の奥底に秘めている繊細な感情」を掲げ*2、シンプルなダンスと清楚かつ切なげな歌唱パフォーマンスを特徴としている。リーダーの一岡伶奈の鉄オタキャラにフォーカスして、曲中では電車にまつわる豆知識がCメロで挟まれる。楽曲は電車や駅といった一貫したモチーフにやや感傷的な恋心を重ねる往年の歌謡曲的感性を全面に打ち出し、ライブパフォーマンスを見れば横一列のラインを基調としたキャッチ―な振りつけと、総じてオールディーズなアイドルを強く意識させる仕上がりとなっている。

 もともと乃木坂でも、からあげ姉妹や『あの教室』『全部 夢のまま』などの、ノスタルジックかつシュールでアナクロ(時代錯誤的)な楽曲が好きだったため、自分の好みにドンピシャだった。しかしひとつ問題だったのは、CHICA#TETSUはあくまでデビュー前の研修生による一時的なユニットであったため、楽曲自体が三つしか存在せず、いずれもMVがない。続くBEYOOOOONDSは歌劇を取り入れた楽曲をメインに持っているような、ややクセの強いグループとして見えていたので、そのままのめりこむにはかなりハードルが高く感じた。結局CHICA#TETSUは、ハロプロへ関心を持つ契機にはなったけれど、深堀してゆくまでには至らなかった。

※【2021/12/03 追記】ハロオタの方から指摘をいただいたのだが、CHICA#TETSUが「研修生による一時的なユニット」であるという表記は誤り。結成当初は独立した活動を目的としてグループ名が与えられていた。しかし、紆余曲折あり、CHICA#TETSUとして単体ではなく、同時進行であった複数のプロジェクトと統合するかたちで「BEYOOOOONDS」としてデビューする運びとなった。なので、デビューはしていないが、メンバーが兼任するかたちでユニットの活動自体は続いていると考えて良い。加入発表の様子なども参照。

Juice=Juice

 決定的な転機となったのは、Juice=Juice(ジュースジュース)の『ポップミュージック』と『DOWN TOWN』である。どちらも、結成から8周年を迎えたグループの直近のシングルである。『ポップミュージック』は1990年に『愛は勝つ』で一世を風靡したKANが作詞作曲を手掛けており、MVの昭和TV風のスタジオセットも相まって、80年代風の昔懐かしい雰囲気が全面に押し出されている*3*4。『DOWN TOWN』は山下達郎らによるバンド・シュガーベイブが1975年に発表した同名曲をカバーしたシティポップなナンバーとなっている。両曲に共通するのもやはり「アナクロ感」である。特に『ポップミュージック』に関しては、曲の冒頭で「POP」といった言葉の意味を問いながら、鳩の鳴き声である「ポッポ」、「恋」といったフレーズと結びつけて頬が赤くなるオノマトペ「ポッ」といった具合に、一つの言葉が音の響きへと還元されながら音韻的かつ連想的に展開されてゆく。最後には曲の「フィーリング」を問うかたちで歌詞が締めくくられ、ただただ「ノリの良さ」のみが自己言及的に歌われている。

 近年のJ-POPに照らせば、登美丘高校ダンス部のパフォーマンスとともにリバイバルヒットした『ダンシング・ヒーロー』や、コンセプチュアルに昭和歌謡ノリを示したサカナクション新宝島』、あるいは80~90sシティポップの流行と並走するかたちで、10年代前後から海外を中心にインターネットで起きた日本のレアグルーヴを再消費するフューチャーファンクなどのジャンル化したムーヴメント、Juice=Juiceの二つの楽曲はこのような意味での「今っぽさ」を引き受けていると感じられ、自分の好みとも合致した。

 思うに、女性アイドルの作詞家として長年活動している秋元康が乃木坂などでオールディーズノリを見せるとき、そこでは絶妙にアナクロ感が生じない。少なくとも乃木坂に関して言えば、合唱やシュールな夢心地といったフォーマットが採用されることで、オールディーズなノリは一時代的な過ぎ去った感性としてではなく、やや厚みのある(なんなら高尚な)ものとして扱われているように感じられる。あるいは80年代的なオールディーズアイドルそのもののプロデュースが秋元康の背景にあるため、ノスタルジーがあまりにも明け透けなものに感じられてしまうのかもしれない。ウワモノに比重を置きつつ、感傷的なフレーズを交えた可聴性の高い秋元グループの楽曲群に比べると、ディスコサウンドやブラックミュージックのような盛り場的いかがわしさを備えつつ、どこまでも突き抜けてユーモラスかつチャーミングなハロプロの楽曲は実にアナクロ的なポップスの「ノリ」を体現しており、その違和感やギャップが受け取る側の楽しむ余長となっていると感じられた。そして、このような楽曲たちを通して私はJuice=Juiceに本格的にハマることになったのだった。

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ノリへと巻き込むライブ

 Juice=Juiceにハマってから、MVとともに、武道館や代々木第一体育館、配信公演などの複数のライブ映像を円盤で視聴した。ライブは映像であっても、臨場感や、一度限りであることの訴求力があり、一般にライブ至上主義、パフォーマンス偏重と言われるハロプロの強みが直感的に理解できた。Juice=Juiceの歌はパート割りが細かく、もともとクセの強い個々人の声の肌理が際立って感じられる。パート割の細かさ自体は「歌」に比重を置いたつんく♂イズムのひとつとされているようだが、大所帯のグループである乃木坂、ハロプロで言えばモー娘などに比べるとユニゾンは圧倒的に少なく感じる。またダンスも、フォーメーションの複雑な変化で運動量の多い「フォーメーションダンス」ではなく、サビで横一列になって同じ振付や即興を踊るラインダンスが取り入れられている。歌の細かいパート割に並走して、個々人が埋もれづらい状況で見えるので、歌とダンスを両立させるメンバーの身体的強弱や起伏が非常に感じられる。モー娘の小田さくらは「歌」についての座談会の中で、「声も楽器」であると語っていたけれど、まさに、歌とダンスを通した身体パフォーマンスとして、Juice=Juiceひいてはハロプロのライブは感じられるように思った。

 こういった、ライブを通した歌とダンスによる身体強度の経験は、ファン同士のあいだでは誰々のいつの時の歌い方/踊り方のクセといったかたちで、メンバーの「個性」として話題にあげられる。例えば、個人的に好きな振付として、『ロマンスの途中』という曲の間奏で、ギターの音に合わせてメンバーがコンパクトに集まり、全員で上方に矢印を向けるようにして指さしながら腕を伸ばしてゆく動きがある。これも、単に全体での動きの変化や一致による視覚的なダイナミズムの表現という感じではない。全体のグルーヴ感が高まってゆく場面ではあるが、ここにおいても、各々の振りへのアプローチは相対化されつつ可視化されており、動きの中からキャラや個性を看取できる。乃木坂の場合は2〜4人くらいのユニット単位で振りと歌パートが割り当てられるが、Juice=Juiceの場合は、細かいユニゾンやシンメトリーな構成はあれども、基本的には個人単位でパフォーマンスが配列されている。ダンスはマスゲーム的な一致ではなく、個人の裁量がある程度重視されている。よって、ライブパフォーマンスではメンバーごとの身体性が際立つため、それが「個性」として受け取られるのである。

パフォーマンスを通したファンの目線

 映像を見ている内に、自分が徐々に歌やダンスを通してメンバーに惹かれてゆくことに気づかされた。この感覚はアイドルに関して、バラエティ番組のようなメディアでのトークや振る舞いによる、パーソナリティやメンバー同士の関係性消費というものが染みついている自分からするとやや新鮮にも感じられた。アイドルを推すといってもどこか異なるものを見ている。乃木坂でも自分は生のライブが一番好きではあるが、一方で、各種メディア出演や動画サイトでの配信、コマーシャル、それらに加えてメンバー個々人の発信と、パフォーマンス外の“パーソナル”に紐づけされたコンテンツが日々無限湧きとも言える状態なので、ライブを通してストイックにメンバーの魅力に気づかされると言うには、様々なコンテンツがすでに不可分にメンバーたちと結びついてしまっている。一方で、ハロプロのアイドルは、初見ということもあって相対的に見て圧倒的にライブの中に自己表現の場が置かれているように感じられた。

 実際ハロプロのファンの中には「スキルメン」といった言葉に現れるようなテクニックに比重を置く判断基準が存在するし、また、ハロプロの情報を追ってゆく中で驚かされたのは、ファンの間では「フェイク(主旋律に重ねたアドリブの無言歌)」や「ダミー(パフォーマンス披露の際に音を拾わないマイク)」「マイクホールド」といった用語が周知されており、研修生の得手不得手を見て所属グループを議論することや、メンバーの歌い方をピッチの正確さなどによって実力を測る、誰と誰のパフォーマンスのクセが似ているかを見つける、そのような文化がごく普通に存在する。

 こういったファンの目線は、制作サイドから発信されるコンテンツによっても補完されている。現行のクリエイションを深堀するtiny tiny(タイニータイニー)、各種レコーディング風景、20周年記念で様々なメンバーによって行われた座談会、あるいはつんく♂が自身の手掛けた楽曲について書いたライナーノーツ、作曲家自身によるYouTubeチャンネル「星部ショウのハッケン!音楽塾」での解説など、受け手の側がコンテンツを制作視点で考察や分析することはままあっても、作り手側からの発信が大きな位置を占めていることには新鮮さがあった。ハロプロの番組というと、地上波TV番組での黄金期のメンバーを集めた懐古的内容、業界ノリの強いバラエティや、当時の暴露裏話が多い印象だったが、現行の体制はあくまでそれらとは雰囲気の異なるストイックさがあった。

 環境美学研究者であると同時にハロオタでもある青田麻未によれば、明確には捉えがたい「アイドル」というカテゴリーは、歴史的には「成長途上」であることや「パーソナリティの享受」といった観点から定義づけられることが多かった*5。それに対し、ハロプロは「歌手」「踊り手」といった他のカテゴリーと横断的かつ相補的な関係を持っていることが、作り手側の自己規定とファンの鑑賞態度に見られるいくつかの揺らぎの中から説明される。自己規定の問題などの細かい内容は省くが、重要であるのは、コンテンツの送受信を担う双方によって、パフォーマンスを基軸とした目線が築かれている点である。

 これは余談になるが、2020年2月2日に放映された『Love music』(フジテレビ)で、「ハロプロ以外で思わず嫉妬したアイドルソング」といったテーマで当時の在籍メンバーたちにアンケートがとられた際、一位は欅坂46の『不協和音』だった。紅白で過呼吸になってメンバーが倒れるトラブルが起こるほどハードなこの楽曲が評価されることには、主体性を渇望する曲の世界観とともに、当時の欅坂の打ち出していたハードなダンスへの傾倒との親和性があったように思える。

歌い継ぐこと

 さて、あくまで乃木坂との比較で言ったとき、少人数で全員がほぼ出っ放しの状態でフルステージの公演を行う彼女たちは驚異的だった。かつ、複数の公演をたどることで、メンバーの卒業や加入によって、Juice=Juiceのグループとしての変遷も感じられる。ハロプロの楽曲は、先も言ったとおりパート割が非常に細かく振り分けられている。それゆえに、誰がどこで歌うかによって、フックになるフレーズが全体の中で生起する塩梅がかなり変わってくる。これは、基本的にユニゾンによって歌う乃木坂ではほぼ感じることのないものだ。

 そして、卒業メンバーのパートを別の新旧メンバーが歌うことによって、楽曲自体が歌い継がれてゆくわけだが、個人の塩梅によって左右されるものが大きいこともあって、楽曲のテイストは大きく変わる。この点などは、乃木坂ではどうしても、歌声やグルーヴ感の変化ではなく、あくまで楽曲のセンターポジションの担い手が変わるといったシンプルな配置の問題、フォーメーション上のドラマで終わることが多いため、羨ましく思った。ハロプロではさらにグループの垣根を越えてこのような「歌い継ぎ」の文化が存在しており、例えばJuice=Juiceのライブでの代表曲のひとつ『Magic of Love』などは、本来彼女たちのために書き下ろされた曲では無かったりする。また、2014年にモー娘を卒業した道重さゆみは、自身の卒業コンサートのダブルアンコールで『赤いフリージア』を披露した。これは、MCで「この曲を歌って私はモーニング娘。になりました」と言うように、道重が6期オーディションの課題曲として歌ったメロン記念日の楽曲である。道重の成長を象徴する一曲として、オリジナルとは異なる物語が生まれ、育まれていることがうかがえる。こういった、一つの曲の色褪せなさというのは、グループの運営やメンバーの手腕の卓越さと同時に、つんく♂を中心とした作詞・作曲が一定程度普遍的なものであることも示しているだろう。

ノリを伝播すること

 ここまで雑然と見てきた、Juice=Juiceひいてはハロプロのライブの魅力は、個性重視のハイクオリティなパフォーマンスによる「その場限り」の一回性の説得力についてのものである。しかし、そういったものとは別に、ライブ映像を見ていると観客の側に強く訴えかけてくる何がしかのものをひしひしと感じていた。それは何だろうか? 

 ある時、ステージを見ていて、ふと、彼女たちにはダンスと歌との境目はないのだろうなと思った。生歌*6である以上、歌のフックや声のうわずりと、ダンスによって生じる肉体的な緩急や震えは、身体動作によって統合されなければならない。細かいパート割に対応して、声を出しつつ全身を動かすとき、歌唱とダンスを両立させるために、歌うようにして踊り、踊るようにして歌う。特定の音を発声しつつ、全身が傾斜した姿勢へと向かうのであれば、そこでは歌を可能にする制限の中でダンスを成立させる身体動作が選択される。ゆえに、歌も、ダンスも、広くは肉体の総合的な表出となるだろう。

 少々飛躍した物言いになるが、ハロプロのパフォーマンスは、上記のような肉体の総合的な表出が強く感じられるがゆえに、やってみたいと思わせる訴求力があると思える。というのも、そこでは、歌うことの身体性や、踊ることの歌唱性のようなものが感じ取れるので、ただ客観的に見ているというよりも、思わず自分もその肉体的なリズムにつられてしまう。私たちが、他者の肉体の動きを見ているとき、それは単にオブジェとしてではなく自分の肉体を通してその動きを想像する、痛みに共感するといったことが起こる*7。ゆえに、歌とダンスの身体的訴えの強いハロプロのパフォーマンスは、見ることを通して、踊り・歌うことへと誘ってくる。つまり、先ほど感じた「訴えてくるもの」とは、「曲のノリを伝播してくる」ことなのだ。これは当然楽曲自体のノリの良さにもよるのだが、完全にそれに帰するものでもない。あくまで、楽曲をアウトプットするメンバーの歌やダンスがあって、初めてこれほどまでに見ている側を身体的に引き込むのだと思う。事実、ライブ会場でのファンにはコールやミックスといったパフォーマンスへのレスポンスではなく、楽曲に合わせて踊る「振りコピ」をする人もいるという*8

 映像を観る・歌詞を読むにフォーカスし、コンテンツの客体化に特化した乃木坂との最も大きな差異――世界観の違いと言ってもいい――もここにあるだろう。「文学性」と言われるようなコンテンツを読み解く鑑賞を主とした乃木坂に対して、ハロプロは圧倒的に「一回限り」の「ノリ」へと巻き込むことで、「場を共にしている」といった「共在」の感覚を惹起することに長けている。

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つんく♂とリズム感

 ハロプロのライブを通して感じられた「ノリ」、これを裏打ちしているものはなんであろうか。一つの答えは、恐らく「つんく♂イズム」と呼ばれる、総合プロデューサーであるつんく♂の指導によってメンバーたちに通底しているテクニックやなんらかの美学だろう。すなわち、アイドルをプロデュースする中で打ち立てられた手法やメソッド。では、そのつんく♂イズムとは具体的に何を指しているのだろうか?

モーニング娘。の確立

 それを探るためにも、まずは、つんく♂がアイドルのプロデュースをしてゆく背景を確認してゆきたい。そもそも、「ハロー!プロジェクト」とは、1997年にASAYAN(アサヤン)というオーディション番組で行われた「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」の合格者・平家みちよと、最終選考で落選した5人によって結成されたモーニング娘。、両者の合同ファンクラブとして1998年に設立された「Hello!」が1999年に改名されたものである。すなわち、現在まで続くハロプロの原型は、一人の「ロックボーカリスト」とそこへ一歩足りない少女たちであったのだ。

 「モーニング娘。」のグループ名は「モーニングセット」に由来しており、親しみやすさやバリエーションの豊富なお得感など、音のキャッチーな響きに加えて、言葉のごく一般的なイメージやメジャーさも加味してネーミングされた*9。1998年1月にリリースされたモー娘のメジャーデビュー曲『モーニングコーヒー』は、80sアイドルを意識した、清楚で少女性の強い楽曲である。この点についてつんく♂は、自分も初めてのことで手探りであり、当時のアイドル達と正面からぶつかるつもりがなかったので、「時代の隙間」をついたら往年のアイドルファンが食いついたと回顧している*10。当時のアイドルとは、SPEEDMAX安室奈美恵TRFのような小室ファミリー、などである。彼らは、歌・ダンスともに本格派志向でハイレベルなパフォーマンスを披露し、音楽性もミクスチャーなものであった。そういった時代の中で、ブームの過ぎた80sの純粋であどけない姿のアイドルを懐かしむ人々のニーズに合致したのだ。しかしながら、1stシングルの方向性に早くから限界を感じていたつんく♂は、2ndシングル『サマーナイトタウン』では、一転して、ヤングアダルトなディスコチューンを作曲した。ASAYAN時代のファンを裏切るかたちにはなったが、女性ファンの獲得とティーンエイジャーの浸透に大きく貢献したという。その後、景気の悪化などもあってCDの売上は徐々に落ちてゆき、方向性もやや迷走しつつあった。デビューから一年半以上経ち、レコード大賞や紅白への出場も叶っていたこともあり、つんく♂としてはグループを終わらせることも考えていた。そのタイミングで「華々しく散っても問題ない」と思いながら作った『LOVEマシーン』(1999年9月)が空前の大ヒットとなったのである。これには大きな自信をもらったという。現在に至るまでのハロプロのイメージやグループカラーが定まったのもこの辺りだろう。

 2000年代に入ってからは、モー娘が軌道に乗り、2002年に小学生を対象としたキッズオーディション、研修生制度の設立を目的とした2004年のエッグオーディションなど、ブランド力を上げる精力的な展開が続いてゆく。つんく♂がアイドルをプロデュースする際のメソッドを確立したのがいつ頃で、どのようなものであるかは分からない。ASAYANでは、オーディションやレッスンなどの様々な場面でつんく♂のクセの強いキャラクターや音楽性への細部にまで至るこだわりが見られるが、具体的なメソッドが詳細に明かされるわけではない。しかしながら、研修生制度の設備等を思えば、遅くとも00年代初頭にはつんく♂のメソッドは明確なものになっていただろう。

つんく♂の“リズム感”

 さて、つんく♂がレッスンにおいて重要視することとして、本人や新旧ハロプロメンバーたちは「16ビート」と「リズム」を挙げている。メンバーが言うところでは、つんく♂本人のリズムレッスンでは、16ビートを体に叩き込まれ、常に心の中で刻めるように指導されるのだという。つんく♂も各所で「リズム」の重要性について語っているが、同時により抽象度の高い「リズム感」といった言い回しも多用される。本人の公式サイトに公開されている「つんく♂のリズム論」と題された文章によれば、「リズム感は、ノリとは違います」「リズムとリズム感は違う。リズムは時間を刻むもの、リズム感はノリで表現したり、感じたり、自然にかもし出たり」「リズムは音符に起こせるが、リズム感は音符では表現できない」という。また、自身がプロデュースしたゲーム『リズム天国』のインタビューでは、「リズム感というのは、そのリズムの流れに対して、自分がどのように動いていくかということ」であると語っている*11

 つんく♂の言うところの「リズム感」とは、ハロプロの「ノリ」を生み出すもの(本人の言い方に従えば、「リズム感はノリで表現」される)であり、一般的には「グルーヴ感」などと同様に、「拍子」のような数字で割り切れる音楽の流れから溢れ出る部分をも含めた言葉であると考えられる。「リズム」という概念自体が、そもそも広範な使われ方(生活リズム、季節のリズム、リズミカルな文章、リズムに合っている、等々)をされるわけだが、例えば、ルートヴィヒ・クラーゲスは、車輪の音のような規則的な単なる音の反復を「拍子(タクト)」として捉え、波のように一定の持続を示しながら運動的な変化が常に起こるような音の連なり方を「リズム」と考えた*12。「拍子=同一性の反復」と「リズム=類似の回帰」。明確な規則性や構造を示す「拍子」や「ビート」に対して、「リズム」は音の反復や連なりをより包括的に捉えた語であり、そこでは、無意識的に看取されるような幅広い領域が含まれる。ゆえに、「リズム感」を鍛えるとは、単にビートを譜面通りに正確に刻むことを目指すわけではない。例えば、歌声が譜面に沿って的確な位置で的確に発声されようと、それは必ずしも優れた歌唱にはならないだろう(「即興」などが分かりやすい)。「リズム感」とは、場にある音の連なりを身体的に捉えて反応すること、あるいは自分や他者の身体から表出される動きのテンポやアクセントのずれなどを、流動的に知覚してアプローチできる能力のことを指していると考える。

 このような「リズム」に対する能動的なアプローチを可能にするレッスンをゲーム化したのが、つんく♂がプロデュースした『リズム天国』シリーズである。つんく♂自身が企画書を書いたことから開発へ至ったという同ゲームは、開発スタッフにダンスレッスンを行うなど、従来の類似作品とは異なる独自性の強いゲームとなっている*13。『リズム天国』は、歌ものを含めたつんく♂の作曲した短い曲に合わせてタイミングよくコマンド操作を行う、いわゆる「音ゲー」「リズムゲー」の派生作品である。一般的な「音ゲー」は画面端に譜面が表示されており、楽曲に沿ってコマンド操作のタイミングと種類を示す「ノーツ」が流れて来る。プレイヤーは譜面にノーツが重なるタイミングでコマンドを入力し、その一回一回のタイミングの正確さが判定され、楽曲全体で換算されるスコアを競う。譜面とコマンド操作が複雑化してゆくことで、ゲームの難易度は上がる。昨今の多くのゲームは譜面を押すタイミングの遅い速いを、プレイヤーのクセに合わせて調節可能であり、また、難易度が上がるほど困難になってゆくが、譜面とノーツが可視化されているのでいわゆる「目押し」もできる。対して、『リズム天国』にはそもそもタイミング調節などは存在しないし、ゲーム画面はシュールなアニメーション表現で譜面やノーツもないので、「目押し」もほとんど不可能である。コマンド入力のタイミングの判定はかなりシビアであり、曲のテンポはワンプレイの短い曲中でも様々に変化する。こうしたゲームプレイによって、プレイヤーは自分の正しい「リズム」の取り方を反省せざるを得ない。私自身は、ウラでの音が取りやすく、テンポが速くなる際に音をかなり速く取ろうとしてしまうクセがあることが分かった。

 リズム感を鍛えることで、休符明けの一拍目を外さずに音を取れる。音だけを聴いて後続のリズムやテンポを予測しながらノるのであれば、楽曲の展開次第ではとっかかりを見失いかねない。数をカウントするようにリズムを刻み、自分の中のリズムと外から聴こえてくる音の流れを調和させなければうまく音楽に「ノれ」ない。これは、セッションなどの感覚にも近いだろう。つんく♂は「リズム感」のレッスンによって、プレイヤーとしての主体的な音楽の聴き方・捉え方を示しているように思える

歌のこと

 このような音を捉えてアプローチする能力「リズム感」はどのようにつんく♂イズムを形づくっているのだろうか?ここでまた、別の観点から検討してみよう。ハロプロアイドルの歌い方は、「ハロプロ歌唱」「つんく♂歌唱」などと呼ばれることがある。これらの言葉によって示されている傾向性は、つんく♂の作詞とメンバーの歌唱によるものだ。つんく♂は、アイドルたちに「歌手」としての熟達を第一に求めたという。先に参照した青田によれば、こういった発言自体は徐々に変化してゆくらしいが、一方で、彼自身がバンド出身であり、モー娘も「ロックボーカリスト」オーディションで集めたメンバーから始まっていること思えば、ある程度一貫性のあるものではないだろうか。つんく♂の作詞において特徴的なのは、その共感的な内容や特異なフレーズ以上に、語数の徹底などによる歌いやすさにある。例えば、『ギューされたいだけなのに』の歌詞には「今週の末」といった言葉が登場するが、これは「今週末」では歌う際にメロディーに違和感が残るために選択されたものだ*14。J-POPなどではサビごとに歌詞が変わるため、二番のサビで無理に言葉が配置され窮屈で歌いづらい(=キャッチーでない)ものになってしまうこともしばしばある。つんく♂の歌詞にはそういった違和感が全く生じない。また、2020年9月2日に放映された『今夜くらべてみました』(日本テレビ)でモー娘の特集が組まれた際、『TIKI BUN』の、タイトルと同様のサビのフレーズの意味を問われたつんく♂は、「TIKI BUNは自分の心にある不条理とか邪念とか、そういう心の叫びを音で現した時に、あの音符にハマる言葉はTIKI BUNしか出てこなかった。他の言葉で歌ってみたらかなり違和感あるはずなので 試してみてください」と返答した。日本語の意味よりも、音の心地よさや歌いやすさに寄り添っていることがうかがえる。歌詞の可読性ならぬ「可“唱”性」が高いのだ。

 また、このように作詞された楽曲をメンバーが歌う際にも、特徴的な様子が存在する。例えば、『ザ☆ピース!』では「明るい 未来に」が「明るうぃ 未来に」と発音されており、ひとつの語の母音が続く語と結合している。太陽とシスコムーンの『ガタメキラ』などは、「Gotta Make it Love」を日本人的なカタカナ発音に起こしたフレーズがタイトルとサビに据えられ、レコーディングの際にもつんく♂が個々のフレーズを英語に変えて発音させるなどの細かい指導がなされている。こういった、音の切り方や語尾のクセ、音の強弱の変化、フレーズの切れ目に細かく「ン」を入れた鼻にかかったような発声など、多様なアレンジは節々に入れられている。歌詞の言葉はそれらによってさまざまなボリュームや遠近を抱え、日本語は意味の連なりではなく、むしろ音の連なりとして耳に届いてくる。これは、フェイクと同様に、楽曲が「歌詞」ではなくあくまで「音」の心地よさへと展開してゆく効果がある。すなわち、先の項で「歌の身体性」と述べたように、もはや楽器のように音を鳴らす歌声や身体がそこにはある。

 では、それらを踏まえて今一度つんく♂イズムに立ち返ってみよう。「リズム感」とは音を捉えて再びアプローチする能力だった。そこで選択されたレッスンでは16ビートになじませることが求められた。16ビートで細かく音を取るとは、言ってしまえば音楽の解像度を上げるということだろう。つんく♂イズムの独特な歌い方とは、細かく拍を刻むことによって、節回し、ブレス、撥音、声調、母音の長さ、アクセントなど、歌に様々なニュアンスを加えて装飾を施すことではないだろうか。細かなパート割やライブでの即興、フェイクなども、このような音へのアプローチによって可能になっていると考えられる。つまり、つんく♂イズムとは、適切な音やピッチの取り方といった基礎的レッスンなどではなく、歌声に個性や「らしさ」、即興性を演出する技術のことである。

秋元康の歌詞偏重

 ライターの掟ポルシェは、歌唱法による色気といった点から、つんく♂秋元康の歌詞の直接性と対置している*15。いわく、歌謡曲では伝統的にアイドルの歌詞に直接的な色気やセクシャルを持ち込むことがなかったので、歌い方によって可愛らしさなどが演出された。つんく♂のアイドルはその系統の中にある。一方でそういった伝統を打ち破ったのが秋元康だった。おニャン子クラブの『セーラー服をぬがさないで』は分かりやすい例であるし、AKB48がデビューして間もない頃の楽曲にも『スカート、ひらり』がある。

 秋元康は作詞家としてのキャラクター性を確立している。ゆえに、センセーショナルなものも含めて、彼の手掛けたアイドルには歌詞への偏重が見受けられる。例えば乃木坂も物語的に展開してゆく歌詞を指して「文学性」の内に語られることがしばしばある。実際のパフォーマンスでも、あくまでユニゾンがメインであり、時には合唱曲のように披露されたことも少なからずある。それによって歌詞はスムーズに頭に入ってきやすい。Juice=Juiceをはじめとしたハロプロにおいて、R&Bやロックバンドのように、歌唱の中に現れるノイズや振れ幅自体が享楽され、一方的に聴き入る音楽ではなく、身体に対する訴えがあったこととは対照的である。

 歌詞の世界観といった時に、つんく♂の歌詞では、よく言われるように女性の繊細な感情の機微やあるある的な事象が語られる。そのほかには「宇宙」や「愛」にまつわる主語の大きいモチーフなども存在する。これらのいずれの場合にしても共通しているのが、「呼びかけ」の多さである。「~だよ」「~しよう」「~ね」「~よ」といった、特定の誰かに向けた言葉、すなわちダイアローグとして発話されているのだ。つんく♂の歌詞が強い共感を呼ぶことや、楽曲のノリへと引き込むのは、このような言葉選びによるところも大きいだろう。なぜなら、道端の警官の「おい、お前、そこのお前のことだ!」といった日常的な例であれ、「呼びかけ」とは、聞き取られた時点で、それは他ならない自分に向けられたものであると再認/誤認されるものであるからだ*16。このような聴衆への呼びかけはロックバンドのステージングにおいては基本であり、文字通り聴衆はステージ上のアーティストの言葉に捕らえられ、ロックされるのである。

 一方、秋元康に特徴的なのは女性アイドルグループの歌詞で、「僕」の一人称を用いる点だ。そこでは内省的な歌詞がモノローグとして描かれることが多い。つんく♂とは対照的に、「共感できない」と言われる原因のひとつとも言われるのがこれだ。確かに、一般的には男性が用いることの多い「僕」を、女性アイドルが曲中で用いることは不思議である。なぜなら、それは一見すると歌詞とアイドルが乖離して感じられるし、かといって男性ファンにとってもアイドルが女性である以上は歌詞へと共感するには依り代との断絶が意識される。つまり、ここでは「僕」のモノローグの担い手がいないのだ。実際のところ、こういった「僕」の用法が何を意図しているのかは分からない。しかし、個人的に思うところを述べてみたい。

 『君の名は希望』について考えてみよう。当の曲の歌詞のみを追うとき、「僕」が一般的に男性の用いることの多い一人称であるため、「さえない僕に希望を与えてくれた君」といった曲中のストーリーにおいて、「僕/君」は「ファン/(女性)アイドル」の配置になる。しかし、実際の歌唱パフォーマンスをファンが経験するとき、「僕」の一人称をアイドルが発話するため、「僕/君」は「アイドル/ファン」という逆の配置になる。このようにして「僕」を蝶番として互換性のある関係をとることで、楽曲に触れる際、ファンがアイドルに対して非常に深い結びつきを感じるのではないかと思う。乃木坂が「僕」によって歌うことの特異性はここにある。それは、一人称を相互的に用いることで、二者関係が双方向的に感じられるのである。単に歌詞に従って「僕」が「君」を想うものとして理解するのであれば、視点主が他者を理想化しているだけで終わる可能性がある。けれど、「歌う」という行為を通して、「君」もまた「僕」と同様の辛さや自閉を抱えているように感じられる。これは、字面の上での歌詞だけではなく、『君の名は希望』をなんとなく聴いた時に「僕」と「君」のフレーズがいかに印象づけられているか、あるいは実際に彼女たちが歌っている姿を見ている時の経験などによって見えてくる。

 ともあれ、こういった作詞を通しても、秋元康は「詞」へ、つんく♂は「歌」へと偏重していることがうかがえるだろう。

「生音」について

 さて、最後にもう一点触れておきたいことがある。それは、ここまで見てきた「リズム感」を元にした音へのアプローチと身体への訴えとも関係のある、ハロプロの「生音」へのこだわりである。ハロプロの楽曲は、昨今の打ち込み全盛期の時代にあって生音での演奏が非常に多い。それらのレコーディング風景は、メンバーたちの歌撮りと同じように公開されている*17。すべての楽曲ではないにせよ一定以上のこだわりとして存在する「生音」は、音楽の「ノリ」にとって重要な要素だ。批評家の椹木野衣はテクノミュージックについて論じた際、DTMと生音を区別している*18。生音だと、楽器は身体的な制限の中で実演される(例えばドラムの演奏の場合、速いテンポの16ビートであれば、一般的にハイハットを両手で叩き合間にスネアを叩くというフォームになるため、ハイハットとスネアは同時に鳴らない)わけだが、打ち込み・DTMでは全ての音を均等に鳴らし続けることも可能であり、実演のリアリティや間の取り方とは無関係に作曲することができる。つまり、一般的に流布する「リズム」やそれによって生まれる「ノリ」とは、そもそも演奏のリアリティから、生ものとしての身体性から隆起するものであったのだ。DTMが初めて世に現れたとき、その現実に反して、「踊れない」という見方が一定程度あったという。それは、「ノリ」というものが身体的な演奏によって生まれるものと考えられていたからである。

 とはいえ現在、DTMはダンスミュージックの最もポピュラーな要素のひとつである。ハロプロの番組内で紹介されたレコーディング映像では打ち込みメインの楽曲の制作風景も公開されており、また、プラチナ期に続く道重さゆみが中心となったモー娘の転換期でもあるカラフル期には、グループがEDM路線に舵を切り、ダンスはより身体的負荷の大きい(=歌いづらい)であろうフォーメーションダンスを売りにしている。これは、あくまで時事性に呼応したポップスとして、つんく♂R&BからEDMへと移行したに過ぎない。ちなみ、ここで自分の推しであるJuice=Juiceの話をすると、10年代のモー娘の旧来的なイメージから脱却する試みに並走する形で、Juice=Juiceは歌やラインダンスによる伝統的なつんく♂の「ノリ」を打ち出していたとも考えられそうである。であれば、Juice=Juiceが「歌謡曲」性なるアナクロな美学をもとにした系統のうえで、シティポップやオールディーズの楽曲をカバーしていることには一定の妥当性があるように感じられる。少々脱線したが、ともあれ、ハロプロが電子サウンドを遠ざけていると言いたいわけではない(それは現実に即していない)。ただ、「生音」での楽曲制作へのこだわりは、つんく♂以来の「リズム感」に傾倒した一側面として見出すことも、あるいは可能ではないだろうか、ということである。

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エンパワメントの系譜

 ここまで、ライブを通した「ノリ」の伝播、その基底の一つをなしているつんく♂の「リズム感」をもとにした「歌」への偏重を確認した。とはいえ、つんく♂は2014年で総合プロデューサーの立ち位置から身を引いている*19。本人はインタビューの中で、モー娘のカラフル期を経てから、当時に比べてそれ以後(の現在)は制作サイドから自身に求められる楽曲の方向性に偏りがあるとも語っている*20。それはおそらくJuice=Juiceとも無縁ではないだろう。つんく♂が最後にプロデュースしたJuice=Juiceは、モー娘がEDMとフォーメーションダンスを売りにしてゆく時期に、あくまでオールドスタイルなパフォーマンスを打ち出していった。すなわち、90年代的なブラックミュージックに寄ったつんく♂ディスコチューン楽曲の幅を担う役割が同グループにはある。とはいえ近年は、BEYOOOOONDSやアンジュルムに顕著な、「脱つんく♂」と呼ばれる展開もさまざまになされている*21秋元康の手がけたグループが、彼の名のもとに一手にクレジットされていることを思えば、ハロプロは制作面での多様性が作家の名前である程度担保されているように思う。2015年以後の作詞・作曲数を見れば、年々つんく♂一強状態が弱まっており、2019年ごろには児玉雨子や星部ショウらのクリエイター陣が関わった数を上回っている*22。そこで、ここからは、そのようなつんく♂とは異なる現在の展開の一側面を見てゆきたい。特に注目してゆきたいのは、「女性作詞家」の存在である。

 さて、ハロプロは長続きしている男性プロデューサーをトップに据えたポップカルチャーでは珍しく、フェミニズムとの親和性によって語られる*23。一般に、女性アイドルを通して立ち上がる男性視点で描かれた理想の女性像というものが、他者を、さらにパフォーマンスレベルで言えば楽曲の担い手である少女たちを客体化して取り扱うものとして批判されることがある。そもそも、アイドル自体がセクシャリティを商品化する危うさを常に孕むものである以上、少女たちの生を客体化・商品化する手つきはなおいっそう避けられるべきものである。つんく♂の歌詞がこういった危うさと異なる評価を受けるのは、あくまで女性の心境に寄り添いながら一人の女性としての自立を応援するような言葉選びであり、それが「リズム感」とは別の一つのイズムとして確立されているからである。例えば、『ガタメキラ』では「そうよ女だって Wow wow wo A Ha Ha」とパワフルに歌い上げられ、『女が目立って なぜイケナイ』では画一的なルッキズムが揶揄され、個々人の差異が肯定される。『Help me!!』の「本音が言えない 言えナイチンゲール」といったギャグとしか思えないようなフレーズは、恋愛に対して受動的な女性の仕草がユーモアによって余裕のある態度へと転じている。メンバーたちはつんく♂がメンバーと会話する機会を多く設けていることを語っており*24、本人も楽曲制作の際に特定のメンバーを意識することもあると明かしている。ゆえに、歌詞の中でも願望器としての「女性像」ではなく、具体的な「彼女たち」の自立した姿へと言葉が向けられていることがうかがえる。

 こういった、つんく♂の視点は現在の楽曲の歌詞でも重視されている点である。例えば、星部ショウが手掛けた『赤いイヤホン』のサビは「男なんかのわがままに 女はもう縛られない」といった歌詞であり、さらには若い女性としてより当事者性の強い歌詞を書く児玉雨子山崎あおいをはじめ、井筒日美、三浦徳子のような女性作詞家が精力的に活動している。以下では、まず児玉雨子山崎あおいの二人の楽曲を紹介し、そこから様々なインタビューや文筆活動を通して自らの考えを積極的に発信している児玉の言葉に注目してゆきたい。

山崎あおい

 作詞・作曲のどちらも行う山崎あおいの手掛けた楽曲では、『泣けないぜ…共感詐欺』『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』『涙のヒロイン降板劇』といったタイトルにもあるとおり、印象に残るフレーズがどこか繊細なタッチで描かれる。歌詞では、いずれも女性が自立してゆく姿がたたえられ、彼女たちを鼓舞してゆくステートメント的な言葉遣いがされるときもある。昨今のK-POPではBLACK PINKに代表されるようなセクシズムから解放された女性のクールさを打ち出す「ガールクラッシュ」*25と呼ばれるムーブメントが存在するが、山崎の楽曲に存在するエンパワメント(主体的であることを後押しすること)性は間違いなくそういった、男性視点で理想化された女性像ではない、主体性のある姿をリアリティのある視点で描くことによってもたらされている。また、時には内面的な「弱さ」を吐露する心情も描かれるなど、決して理念的な姿一辺倒ではないことも重要な点だろう。

児玉雨子の叙情性

 児玉雨子は、明治大学の院で文学研究をしていただけあって、叙情的な描写がその特徴のひとつとしてまず挙げられる*26。先の山崎の歌詞がハロプロ的な呼びかけを踏襲していることに対して、児玉は、比較的作中世界の描写を多く書いている印象がある。つばきファクトリー『今夜だけ浮かれたかった』では、ミドルティーンの少女が夏祭りで意中の相手との駆け引きが思い通りにならなかったことを後悔しているが、数多く登場する情景描写によってイメージを喚起される。回想と、過去形で語られる後悔や自己嫌悪の言葉が矢継ぎ早に現れることで、語り手の心境も生々しく立ち上がっている。

 そして、一般的にロマンチックとされるようなシチュエーションは「誰にでも話せるような 思い出づくりはしたくない」とばっさりと否定され、恋愛に対して相手の行動を待つ受動的な態度のように見せかけつつも、非常に能動的な相手への欲望が露わとなってゆく。それは、一見すると相手に「見初められる」ことを待ち望む女性と思わせるような目線を用い、恋愛の駆け引きの後悔を偽装しながら、きわめて自分本位の欲望の成就が目指されている。ここには、シンデレラ・コンプレックスなどに代表される「受け身の女性」といった偏見的イメージを逆手に取るような「愛されたい」と「愛したい」の共存が見られる*27

児玉雨子とエイジズム

 さて、児玉雨子はエッセイやインタビューあるいは小説といったかたちで、自身の考えを積極的に発信しており、フェミニズムをはじめとした現代的な感性を多分に意識して活動していることがそこからうかがえる。しかし、彼女は以前にJuice=Juiceに向けて書いた『チクタク私の旬』という楽曲に関して批判されている。フェミニズム文学批評を行う水上文は同曲の「賞味期限チクタク私の旬」という歌詞の問題性を指摘し、SNS上で児玉自身も自らの非を認める発言を残している。一定数、ファンからの批判も存在する*28。さて、この楽曲が、アイドル産業が構造的に抱え持つエイジズム(年齢差別)や、それと結びついた若年層の女性への搾取、それらを意識しつつも結果的には再生産に加担しているといった批判は正当であろう。しかし一方で、児玉自身がこれらの楽曲によって「そういった呪いをひっくり返す、そんなの関係ない!というテーマ」を目指したが「下手くそ」でしたと発言している点については検討されるべきである。

 児玉は、松浦理英子との対談などでも自身の作詞活動について、「アイドルのキャラを消費しない」「たったひとりに向けて書くつもりで歌詞を書いている」といったことを語っており、少女性の消費に対しては批判的な態度を明確に示している*29。これは推測だが、曲を歌うメンバーやグループの特徴などを加味しつつ、「私」といった一人称から当事者性の強い歌詞を書くとき、年代を加味した語彙の中から言葉が紡がれるだろう。研修生も含めた比較的幼い年齢のメンバーが歌うことを想定された『チクタク私の旬』は、エイジズムへの批判は当然意識しつつも、直接言葉に起こすことにはリアリティが伴わなかったのではないかと思う。ゆえに、構造的な悪癖を表面的には自明視しているそぶりを見せながら、あえて言葉にすることで疑問を投げかけ将来的には否定されることを示唆すような、迂回した描き方を選んだのではないだろうか。これは、後述する児玉がハロプロの作詞家となってから改めて強く意識するようになったという少女小説の第一人者である吉屋信子の作品に見いだされる面従腹背性(うわべでは従いつつも内心では反抗すること)とも近い戦略に思える。

 その後、児玉は『25歳永遠説』という楽曲の歌詞を手掛けている。このタイトルは、ハロプロのファンのあいだで長らく存在する「25歳定年説」という、メンバーが基本的に25歳までに卒業する事態を指した俗語にかけたものだ*30ハロプロ自体がハードなパフォーマンスを基本としているために、エイジズムとも取れる状況が存在することは確かである*31。しかし、「定説」として流布されている状況が多分に問題含みであることは明らかだろう。児玉はそれを逆手に取り、Juice=Juiceの初代キャプテン・宮崎由加が25歳でグループを卒業するタイミングでリリースした当楽曲で、成熟した女性の主体的な選択の自由や様々な未来の展望を描き出した。

 この楽曲は、『チクタク私の旬』の延長線上にあり、アイドルのエイジズムといった同様のモチーフが存在する。先ほど述べた『チクタク私の旬』の微妙な態度に比べて『25歳永遠説』のメッセージは明確だ。しかしながら、両者を並べてみると、やはり10代半ばで厳しいレッスン受けながら事務所の意向に従う立場にある少女たちに『25歳永遠説』と同様の射程をもった楽曲を歌わせることは、それこそ当事者性といった観点からみて違和感がある。ただ、少なくとも『25歳永遠説』のような、旧弊的な悪癖への直接の転覆を試みた作品をエクスキューズできる状況である以上、『チクタク私の旬』にかつて意図されていた、あるいはそこに見出されうる潜性的な抵抗の兆しは読み取られてしかるべきであろう。

幻想と未来

 ここまで見てきた山崎、児玉の楽曲のアプローチが、非常に現代的な感性に裏打ちされていることは一見して明らかである。加えて重要であるのは、彼女たちの歌詞で描かれる女性たち・「私」視点の人々が、規範が内面化されていることに対して自覚的であることだ。山崎と児玉、両者は共に、規範的・社会構築的な「女性らしさ」を内面化した人物が、そこから一歩踏み出す姿を繊細だが力強く描かれているとも言えよう。ハロプロが一般に「女性人気が高い」と呼ばれるのは、こういった楽曲群の歌詞の、時代の感覚を鋭敏に捉えた魅力によるところも大きいだろう。

 そして、制作陣だけではなく、ハロプロのグループに所属した・するメンバーたちも同様な問題意識への関心を感じさせる。アンジュルムを卒業した和田彩花は、卒業後もアイドルという肩書で活動を続けながら、フェミニズムについて積極的に発信している*32*33。大学では美術を専攻しているという彼女が関心を示す、エドゥアール・マネやアルテミジア・ジェンティレスキなどは美術史における女性表象を語るうえで特に重要な画家である。両者はそれぞれに女性を見る/女性として見られる双方の立場での経験や問題意識から絵画を描いている。また、アンジュルムとして最後の参加シングル『恋はアッチャアッチャ』では、(本人は直前に着ることを嫌がったらしい)ウエディングドレスを身に纏った和田がパートナーがいない状態でバージンロードを逆走する*34スマイレージ時代に「日本一スカートの短いアイドルグループ」といったキャッチコピーをつけられるなど、長いアイドル活動を通して様々な困難や偏見を経験してきたと思われる彼女が、それらの問題意識を元に発言しつつ、なお「アイドル」を継続し、カテゴリーの内側からアップデートを試みる姿には、非常に強い説得力があるだろう。

 また、モー娘を卒業した道重さゆみは、彼女のファンであることを公言していた大森靖子の楽曲『絶対彼女』に参加した。大森はこれより以前に発表した『ミッドナイト清純異性交遊』が、道重を意識して作ったものであることを明かしている(好きな曲と語る『ラララのピピピ』のフレーズが引用されている)。大森自体が、自らの欲望や憧れに徹底的に享楽する作家性を持っているのだが、彼女が「あざとい」キャラとして地上波でブレイクした道重さゆみと二人で、ピンクのフリルワンピース(まさしく長年「女の子らしい」とされてきたものである)を身に着け、「絶対女の子がいいな」と何度も繰り返し口にする姿には、単純なエンパワメントとは異なる奥行きを感じさせる。彼女たちが示すのは、性差に基づく旧弊的な価値観や表象を切り捨てず、「能動的に選択」する態度であろう。当人たちに何らかの屈託はあるかもしれないが、ここでは社会的な影響と不可分である「欲望」のかたちやデザインが、個人の欲望として新たに調停されているのである。主体的に選択される「かわいい」である。大森の動画のコメント欄には様々な人々からの「救われた」といった旨の言葉が数多く綴られている。道重もまた、あくまでキャラであったとしても、日々容姿を品定めされながら、「私はかわいい」と言い続け、見られることへの立ち向かい方と覚悟、あるいは単純なルッキズムから解放された自己享楽の道を示した*35。『絶対彼女』で、道重の言う「かわいく生きてね」といった言葉は、文字としての言葉以上に実存的な迫り方をしてくるのである。

 字数の都合で詳細は割愛するが、「女性らしさ」への関心についてそのほかにも思い浮かぶトピックがいくつかある。2014年に公演された演劇女子部(当時は、モー娘、スマイレージ、研修生の一部メンバーが参加)による舞台公演『LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-』では、ゴシックかつ悲愴的な世界観が人気を博した。『LILIUM』は、吸血種の少女たちがサナトリウムで反復的な生を営んでいるが、ある時、その施設の歴史や目的が明らかとなってゆくというストーリーだ。クローズドな物語の舞台はハロプロアイドルの置かれている日常を想起させ、また、この世界観にとらわれたファンが自らのこじらせを劇中の用語で「繭期(まゆき)」と呼称していることなど、ストーリーと設定、舞台のフレーミングなどが多層的に関係を持ちながら、「少女幻想」の終わりが訴求力をもって描かれる。

 また、ここまでの話題とは少々ずれるが、金澤朋子江國香織への偏愛を見せている点も個人的には興味深い*36。特に、金澤がJuice=Juiceのキャプテン就任時に読んでいたという初期の代表作『神様のボート』(1999年、新潮社)では、シングルマザーの家庭の母子関係がそれぞれの視点で描かれている。現実的な家計のやりくりよりも、口約束だけを残して去った男への想いをもとに様々な土地を行き来する母親。この物語が示すのは、徹底した記憶や夢への執着と全うである。一方でスリリングに示されるのは、ある種の女性のロマンティシズムのようなものが、いかに奇異な視線を向けられるかという困難であろう。

乃木坂46のノれなさ

 最後に、改めて乃木坂とも「女性」の描き方について比較をしておきたい。乃木坂、ひいては秋元康のグループはフェミニズム的観点から批判されやすい。主な批判の要因とされるのが、秋元の書く歌詞の保守的なジェンダー観にある。例えば、『ワンダーウーマン』(2017年)の日本公開に際してイメージソングとして発表された『女は一人じゃ眠れない』は、フェミニズムのアイコン的キャラクターのイメージにそぐわないものとして、映画ファンを中心に大きな批判が集まった*37。サビの「女は いつだって 一人じゃ眠れない〔…〕誰かといたい」といった歌詞は、児玉雨子の作詞した『約束・連絡・記念日』のサビ「ほんとは ひとりじゃなきゃ眠れないんだ そう 鬱陶しかったんだよ」とは対照的である。

 しかし注意したいのは、秋元のコンプライアンスへの挑発的な歌詞というのも、ある面ではメインストリームへ乗ることのできない屈託を反映している部分があるということだ。例えば、乃木坂46君の名は希望』リリース当時のインタビューでは、主要メンバーが、自分はスクールカーストの「底辺」に位置しておりいじめにもあっていたと告白し、そのような過去を踏まえて歌詞に強い共感を示した*38。こういった自己のメインストリーム化、あるいはメインストリームへの乗りこなしから疎外された、「弱さ」へと寄り添う世界観が、ポリコレや自己責任論などへの秋元の微妙な距離感と重なる。それは、一般的には秋元康(というエスタブリッシュメント)の保守的な態度による冷笑に見えるが、一方では、そもそもそういった議論への参加に自分の居場所を見いだせない後ろ向きな感情を掬っている部分もある。このような留保やためらい、うしろめたさを許容する場が、少なくとも乃木坂の根本には存在している。おニャン子クラブの「エッチ」なフレーズから、ワンダーウーマンという「強い女性像」に対する露骨な逆張りに一貫性を見れば、秋元の歌詞は単なるセクシズムにしか見えないだろう。それは現代では批判されてしかるべきだ。しかし、秋元の歌詞に見られるのは、より広義の規範への「ノれなさ」であり、それは孤独と挑発といった両義的なかたちをとって通底している。とはいえ、無節操な社会一般の事象に対する挑発は、議論に「ノれない」弱さへと共感する主体をその時々によって変える。また当然、このうしろめたさはマジョリティに帰属するものでありながら、必ずしもそれだけではない。ゆえに、個々の事例に沿って議論は必要である。

 以上のことを踏まえると、乃木坂46『Sing Out!』とアンジュルム『46億年LOVE』は、両グループの違いを示す好例となるだろう。『Sing Out!』は乃木坂の表題曲の中では珍しく、冒頭から鳴るクラップ音が聴いている側の合いの手を誘うファンの参加度合の強い楽曲であり、また歌詞も「Bring peace(平和をもたらす)」と個人の手から離れてゆくような大きな物事についての視点が存在している。児玉雨子が作詞したアンジュルム『46億年LOVE』もまた、「来てよ優しい愛の時代」「もしも争いのない未来」と世界平和について歌う。両曲ともに、雑踏や繁忙な日々と個人の非対称性が存在している。しかし、乃木坂の歌詞は呼びかけを含むものであっても、孤独性はやはり強いし、どこか世界や他者に対する「祈り」に近い。他方でアンジュルムの楽曲が「作ろう」「ノッてこう」と、(少なくとも言葉の上では)本気で世界を変えようとする能動性が明らかである。「ノれない」からこそポップスらしい主語の大きな呼びかけすらも自省的になる乃木坂と、力強くキャッチーに「ノってこう」と主導して呼びかるハロプロの言葉は大きく異なる。ともあれ、ポストフェミニズム*39、シャドーフェミニズム*40といった、女性に関する議論が一般化したがゆえにさらに広い需要がある中で、例えばこれらのアイドルグループの発する、「ノリ」方の違いは重要な幅だろう。

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憧れのゆくえ――Ⅰ. 夢の仮託

 女性の自立した姿、あるいはつんく♂から現在の作詞家たちに継承されている女性目線、これらの作詞面でのモチーフや言葉の選び方が、同性ファンに見られる幅広い人々からの人気を集める理由の一つであることは明らかだろう。とはいえ、ハロプロジェンダー的な観点によって過剰に賛美される状況自体は、当のコンテンツやメンバーたちの発信を一元的な理解へと矮小化する可能性もあり、不誠実でもあるだろう。そもそもつんく♂の歌詞の力強さは、昨今のフェミニズムへの国内での関心の高まりよりもずっと以前から存在しており、この点については留意しておく必要がある。

 さて、ハロプロのアイドルは、「女の憧れ」あるいは「アイドルが憧れるアイドル」と言われることがある。これらの理由が、先ほどの歌詞やハイクオリティなパフォーマンスにあることは確かである。こういった文脈での「憧れ」とは、同性アイドルをロールモデルとする意味合いで用いられている。「憧れ」とは字義通りの意味としては「強く心が引かれること」を指している。ロールモデルとすること以外には、疑似恋愛として恋慕することを指して「憧れ」と言うことが多いだろう。しかし、「推し」といった言葉を含め、昨今のアイドルの捉え方がより拡張され、家族的親密、友人感など様々な関係性の投影の上でファンの関心を集める時、そこにはどのような心性が潜み、働いているのだろうか?以降では、アイドルへ目線を向ける際の心性を、「憧れ」といった言葉をもとに「夢の仮託」「女の絆」といった二つの観点から見てゆく。

武道館

 「憧れ」をめぐる問いへと当事者の目線から向き合った実践的な例のひとつが朝井リョウの小説『武道館』(2015年、文藝春秋)である。この小説はjuice=juiceによってTVドラマ化もされている。今作では、一人の女性がアイドル活動と幼馴染の少年との関係、幼少期から培われている二つの「憧れ」(ロールモデルと恋慕)と向き合ってゆく過程とその顛末が、所属グループが武道館公演という目標へと進むタイムラインに並走して描かれる。今作の「憧れ」は、グループの商業的な成功を象徴する「武道館公演」のような外在化された目標ではなく、もっと個人的な内に潜む純粋な強い衝動として存在している。それは同時に、様々な外的要因に阻まれるがゆえに、主体的に選択し続けなければ持続しないものとしても描かれる。このような、「憧れ」の様態が、アイドルである当事者の視点によってまずは示される。そして、彼女たちの視点によって逆照射されるかたちで、「ファンの望む姿」「ファンの見たいもの」といった無数の他者の視点の危うさも暗に示される。

 アイドルの視点で「個人的な欲望の成就」の困難を描いた『武道館』、その文庫版の解説でつんく♂は、アイドルとは「自分の代弁者」「なれなかった自分の成り代わり」であると、ファンの目線について指摘する。言ってしまえば、「夢の仮託」が、アイドルに向けられる「憧れ」というわけだ。これは、幼い子供がアイドルに憧れ、TVの前で歌って踊り、オーディションに応募する、あるいは彼女たちの服装を真似、自らのロールモデルとする心性とはまた異なる「憧れ」であろう。そこには、「なれなかった」と自覚するだけのある程度のファンの側の時の経過が含まれており、当のアイドルとの年齢的な隔たりが示唆されている。

誰にも奪われたくない

 児玉雨子の初小説作品である『誰にも奪われたくない/凸撃』(2021年、河出書房新社)もまた、「夢の仮託」としての「憧れ」といった、年齢的な隔たりの中で、なお「憧れ」として目を向けられるアイドルとファンの関係について扱われている。今作は、兼業で作詞活動を行う20代の女性と、10代の女性アイドルの関係を描いた『誰にも奪われたくない』、「凸待ち配信」と呼ばれる通話アプリで論戦を行う有名配信者の会社員男性と、炎上系の配信を行う中学生男子との関係を描いた『凸撃』、これら二つの中編から成る。

 二つの物語の登場人物は、いずれも日々の些細な出来事や、ショッキングな体験など、様々なかたちでの煩わしさや生きづらさを抱えている。それらの困難は、性差に起因することもあれば、構造的な暴力や搾取によることもあるが、基本的には大文字の「他者」によって自らの時間や意見、感情、振る舞いが「奪われ」曇りなく全うされることがないからこそ起こる。両作は、生きることが常にそういった他者のリソースを奪い・奪われるゲームであることへの疲弊感を示しながら、なお他者と関わらなければ(=奪い・奪われなければ)生きてゆけないことへの葛藤が描かれている。そして、『誰にも奪われたくない』では、作中のアイドルは日常的に他人の持ち物を自らという「正しい場所」へと定位するために盗んでいるのだが、最終的には罪を受け入れながら、主人公に持ち物を返す。『凸撃』ではエンターテイメントでしかない配信上のやり取りの空隙で、中学生男子は主人公に自らの「本音」と「感謝」を打ち明ける。二つの物語が描くのは、「女らしさ」「男らしさ」といった構造的抑圧下にある20代の男女が、自らの生を奪われまいとする10代の同性との間に一時的な関係を築く姿である。物語は、10代の少年少女からの贈与を受け取る態度によって対照的な終わりを迎える。しかし、20代の語り手がいずれも若者たちに対して現在の自分ではできない行動を起こせることに対してある種の「憧れ」や「感傷」を抱く点で共通している。そこに、作詞家であり語り手と同世代である児玉雨子と、彼女の日々接するアイドルたちの関係のアナロジーを見ることは自然だろう。

 『武道館』に関するつんく♂評と、児玉雨子の小説作品、これらが示唆しているのは、大人になった人物が、なれなかった自分、そうは振る舞えなかった自分への感傷として、アイドルに夢(や夢見るモチベーション)を仮託するような事態である。こういった自らの生の欠損を、他者の生によって埋め合わせるかのような振る舞いは、大文字のフェミニズムへの単純な賛同や、マイノリティのエンパワメントを描いているわけではないことを指している。むしろ、単一ではないモザイク状のアイデンティティの中へと身を置く屈託とゆらぎが見られる。

推し、燃ゆ

 近年の、消費活動が全面化した中でのオタクの振る舞い(自己表現や連帯)に対して批判的なまなざしを向ける水上文は*41、宇佐美りん『推し、燃ゆ』(2020年、河出書房新社)評の中で、中島梓の論じた「成熟」に着目する*42。中島は、「成熟」という語が暗に抱えている性差別的なイデオロギーを見出し、「自分自身の苦痛を直視する」といった非-性化された「成熟」のモデルを模索しているという。それを踏まえた上で、水上によれば『推し、燃ゆ』が描くのは、「推し」であるアイドルへの幻想の挫折によって主人公がまさしく中島的「成熟」を経験し、自分自身の輪郭を捉えることであったという。興味深いのは、オタクのアイドルへの同一化といった、「推し」に対する自らの生を過剰に仮託した態度を、一方では自らの根幹を手にする営みとして捉えている点であろう。なれなかった自分や、自分以外の何物かの夢を見ながら、対象との同一化が断ち切られることによって、自らの複数性は抱え直される。『推し、燃ゆ』、ひいては水上の文章では、アイドルを通して現実との紐帯を結び直し、自己の輪郭を再帰的に経験することが語られている。それはまた一方で、児玉が小説の中で示した10代の少年少女との関係の中にも見いだされる「憧れ」や「感傷」にも通じてゆくものではないだろうか。

 児玉が小説を通して示唆するのは、アイドルからの「贈与」(「奪う」「略取」の反対の行為)であった。贈与によって、略取の主体である「自分」が、自身について再帰的に経験し、そのプロセスが「(夢の仮託としての)憧れ」や「感傷」といった感情として解される。すなわち「夢の仮託」としての「憧れ」とは、それ自体の挫折、あるいは贈与の受け止めによって、自己の輪郭を再帰的に経験することへと向かうのである。

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憧れのゆくえ――Ⅱ. 女の絆

 ハロプロの特殊性について、青田麻未は「女子校的想像力」を、文芸アイドルであり、ハロオタを公言している西田藍は、『桜の園』にも通じるような「箱庭」感を指摘する*43*44。これらは、ハロプロ自体がクローズドな場としてあることに起因する。そのクローズドな空気感は、一人のメンバーの「憧れ」や「目標」が、徹底してハロプロ内でのメンバーに対してのみ向けられることなどによってもたらされている。事実、現役メンバーがハロプロの先輩たちへのインタビューを敢行する本が好評を博している。また、演劇女子部における男役メンバーの人気や、メンバーたち個々人の演技がパーソナリティとフィードバックし合うかたちで熟達されてゆく様は*45、一般的な外部の役者を交えた舞台仕事などとは峻別されるものだろう。あるいは、乃木坂などがメンバー同士の緊張感のある関係をほとんど表に出さず、仲の良さを売りにしていることに対して、ハロプロの厳しい上下関係とそれに基づく礼儀正しさなどは定番化したネタとされている。こういったクローズドな場、そこで女性たちが入れ替わってゆく「女子校的」雰囲気はやはりハロプロに強く見受けられるものであり、坂道シリーズが制服姿や校舎といった女子校的モチーフを殊更に用いることとは全く異なるものに思える。

 さて、女性アイドルというのは、スキンシップや仲の良い姿が発信された時、ファンから「百合」として「カップリング」されることが往々にしてある。児玉雨子は、こういった安易な性愛関係の投影を行う視線のあり方へと懸念を示している。だが、クローズドな場でのメンバー同士の「憧れ」を介した結びつきが、「百合」ではなく「女子校的想像力」と言われるのは、どういった事態なのであろうか。ここで、一つの手がかりとなるのは〈エス〉と呼ばれるある時代の価値観である。

吉屋信子と〈エス

 児玉雨子は、在学中の修士論文では戦前から戦後にかけて活躍した「少女小説」の第一人者である吉屋信子について研究したのだという。時に日本のシスターフッドの源流とも言われる吉屋の小説は、異性愛や家父長制の拘束や規範が厳しい時代に女学生たちの深い関係を描き、彼女たちの関係性が「sister」の頭文字をとって〈エス〉と呼ばれ流行した*46*47

 吉屋の作品に共通すると言われるのが、女学生である「少女」、すなわち当時の、社会的に規定された人生の道筋の手前に立つ未成熟な女性たちが主人公であることだ。少女たちは、女学校というクローズドな場で性愛関係を示唆するような深い結びつきをもつ。このような関係が、のちの回想として、すなわち過ぎゆくものとして語り起こされるのである。当時、同性愛は肯定される価値観ではなかった。ゆえに、吉屋はあくまで女学校の中でその兆しが起こりながら、大人になれば去りゆくものとして、女性たちの結びつきを将来性のない一過性のものであるかのように描いた。美しき過去という儚い少女関係は、「感傷」的ともしばしばいわれる。昨今のフェミニズム小説が、現実的な社会へと介入する術でもある事を思えば、直接的な批判や抑圧的規範からの逸脱といったものを描かず美しい描写に終始する吉屋が、大衆作家とみなされ文学的評価が低かったことはある程度仕方のないことであったのかもしれない。しかし、こういった通俗的な大衆小説としての評価に対して、久米依子は、「女性同士の親愛は友情のレベルに抑え、同性愛を封印したかに見せて、実は人物たちの心理的紐帯の奥に潜ませ、二重化された関係を展開」していると指摘する。すなわち、「面従腹背性」が見出されるという訳だ。このようにして、大衆小説にレズビアンセクシャリティが潜まされ、抑圧下の夢想的空間が広げられていった。

 一方で戦時中の吉屋は従軍作家として、現地レポート、そして皇民化教育のイデオロギーを抱え持つ作品を婦人誌に発表している。ここでは、吉屋作品の「追憶的に描かれる美的な過去」という感傷性の強い形式が、出征という死へと向かう感傷*48などによって国民を動員した帝国のイデオロギーと合流している。戦中に書かれた『女の教室』では、女性たちは良人の死によって滅私奉公の精神へと至る。感傷の危うい両義性がここには見出される。

 また、久米は、90年代のフェミニズム批評において、吉屋が「女の視点で女を愛おしむ立場」によって強く支持されたことについて、ここで言われる「女」について判断に留保が必要と説いている。というのも、吉屋の小説には、特定の女性に対する差別的な目線は存在するし、また、そもそもここでの女性とは異性愛を前提としたモデルである。ゆえに、単純に現代的なシスターフッドとして理解すべきではない。

女の絆

 吉屋信子は現在のポップカルチャーにおける「少女」「百合」表象の源流とされる。しかしながら、そこで描かれたものは決して素朴な意味での同性愛ではない。秘匿された少女たちの関係の判断は留保されながら、あくまで〈エス〉と呼ばれたある一時代的な関係性の諸相として受け止める必要があるだろう。「女子校的想像力」と呼ばれる女性アイドル同士の「憧れ」を介した結びつきは、セクシャリティが反映された関係である「百合」ではなく、時代の空隙を埋めた〈エス〉と呼ばれる少女たちの無数の紐帯を示す語に近いと思える。ファンが、メンバーや同性オタク*49たちを「百合」と名指すとき、アイドルから脱臼された性的なイメージや性愛は、メンバー同士の関係性やファンコミュニティによって補われてはいはしないか。いまだ明文化されえない心理的な紐帯、それはまた明文化された瞬間に何がしかの「属性」や「性愛」として消費されかねない。少なくとも、児玉雨子が歌詞によって描き、ハロプロの想像力が与しているのは、かような実存的な生のもとにありながら、言葉にすれば失われかねない繊細な結びつきであろう。

 児玉は、ファンの様態、人々のアイデンティティ、それらが複雑化した現代には無数の「題名のない感情」が潜んでいるという*50。百合でもなく、現代的なシスターフッドとも合致しない、〈エス〉とは、女学生同士の心理的紐帯とプラトニックラブを示す言葉であり、〈エス〉という語は、時代の隙間に存在した感情を掬いとる言葉だった。児玉は自著の中で、メッセージアプリに表示される絵文字を、一つひとつ文字で書き起こしている。それは、読み手に強烈な違和感をもたらすが、一方で、登場人物たちによってやり取りされる現代的な感情の機微や情動を、特定の語によって固定することが回避されている。女性が女性に憧れること、ひいては女性が同性アイドルを「推す」ことにセクシャリティが伴うものと捉えられること。これは、アイドル=「疑似恋愛の対象」として見られていた、いわば「異性愛」が自明視されていた時代の名残だろう。一方で、「推し」「萌え」「尊い」(さらに言えば「百合」も意味の広い言葉である)といったファンやオタクの感情を指す言葉は、旧弊的な語彙ではその心性が捉えきれなくなってきたことの証左であろう。

 まとめよう。ハロプロのメンバー同士が、「ロールモデル」として「憧れ」合うこと、そして特定のメンバー同士がパーソナルな結びつきを持つこと、そういったものはファンによる性愛の投影などとは異なる、表面的には曖昧な関係に留まりながらも深い心理的紐帯を示すものであった。児玉の着目した吉屋信子の〈エス〉、あるいは青田の言う「女子校的想像力」、これらはいずれも同様の「女の絆」を指すものだろう*51。加えて言えば、このような結びつきは必ずしもメンバー同士で閉じるものではない。クローズドなコンテンツに触れるとき、ファンもまたこのような「女子校的想像力」の「ノリ」へと巻き込まれてゆく。ゆえに、「女の絆」は、浸透性のあるものであるだろう。

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「推し」の話

 今回、ハロプロにハマってゆく中で新たに知ったことや、その魅力と思えることなどについて書いてきた。ごく大雑把にまとめると、以下のようになるだろう。

  • ライブパフォーマンスによる「ノリの伝播」
  • つんく♂の「リズム感」をもとにした「歌」への偏重
  • メンバーの振る舞いや楽曲を通して示されるエンパワメントの系譜
  • 「憧れ」の心性による二つの働き。一つ目は、「夢の仮託」を通して、アイドルからの贈与を受け取り自己を再帰的に経験すること。二つ目は、「女の絆」として示される、曖昧でありながらも深い心理的紐帯の結ばれた関係に巻き込まれること。

 今回は、あくまで個人的な経験や趣味嗜好についての話からスタートしたが、中盤においては「乃木坂46」との差異をある程度意識しつつ、やや飛び石的に目についた話題から「ハロプロ」という大きな枠組みをたどった。そこで、最後にまた個人の経験として、自分の「推し」について語ってゆこうと思う。

稲場愛香

 ハロプロでの「推し」、それはJuice=Juiceの稲場愛香(通称:まなかん、いなばっちょ)である。彼女はいわゆるダンスメンである。ハロプロダンス部の公演では時にセンターポジションに立ち、ハロプロ内でのアンケート投票でも「ダンスがうまいと思うメンバー」で一位に輝き、20周年の座談会企画でも「ダンス」のテーマで登壇している。彼女の経歴などはここでは割愛するが、EXILE系列のダンススクールEXPGでダンスの基礎を培っていることだけは一応述べておきたい*52*53

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 彼女のダンスの魅力は、しなやかさにある。一般的な感覚として、ある程度見せることを目的としたダンスというのは、緩急の時に張りを求める傾向がある。だから、どうしても手をピンと伸ばした指先の綺麗さのような、身体の末端に目が向かいがちだが、体幹のぶれなさと、また全体の緊張の度合いのコントロールによって、しなやかさの見え方や楽曲のヴィジュアルな印象はかなり変わる。稲場も当然ハロプロ文法に従ったダンスなのだろうが、パッショナブルな身振りが強いモー娘などと比べて、かなり軽やかな身体動作を見せる印象を受ける。それは極めて高い技術によるものだろう。バキバキ、ゴリゴリ、と言われるような、スピード感・キレのある動きも素晴らしいが、ここぞというタイミングで身体全体のメリハリによって柔らかな動きに視線が導かれ、気持ちよく踊っているように見える。身体の動きを通して伝わるテンポやリズム、あるいはグルーヴ。アイドルが何かの憧れの依代になるのだとしたら、自分に代わって別の歌声を体現しつつ幻視させてくれるのと同様に、心地よいダンスは見ている人を楽曲のグルーヴの中に引き込みながら、同時に私ではない別の身体を感覚させてくれもする。

 彼女のダンスの魅力が特に感じられるのは、振付では『禁断少女』でセンターポジションに立つCメロ部分、MVでは『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』、ライブでは『LOVE LIKE CRAZY』である。最後の曲は、2018年の武道館公演『TRIANGROOOVE』でパフォーマンスされた、後浦なつみ後藤真希松浦亜弥安倍なつみのユニット)のR&Bナンバーのカバーである。この公演は三つのテーマに沿ってユニットが組まれたのだが、稲葉はチーム「COOL」として、宮本佳林段原瑠々とともに同曲を披露した。世界観の定まったダンスとともに、三人体制で、それぞれの歌も存分に楽しめる。ちなみに、この時の振付の話などはtiny tiny#125に出演した際にも語られている。

 Juice=Juiceは、先述のハロプロ内のランキング企画で歌・ダンスともにグループ内のメンバーが一位を取った、分かりやすくプロフェッショナル集団である。また、冒頭や途中でも述べたように、基本的にはジャンルレスとはいえ、どちらかと言えばブラックミュージックに傾倒していた頃のつんく♂の方向性を引き継ぎ、「歌」パフォーマンスを重視している。太陽とシスコムーンの楽曲をカバーしてアンセム化していることからも、ハイティーン路線での大人っぽさがあり、表現やあてがわれる言葉の幅も広い。最近は、オリジナルメンバーの多くが卒業したこともあって、センター不在のような状況になっているが、それは必ずしも魅力の低下を意味しない。Juice=Juiceは個々人のスキルが高く、その強度が人数やハードさで曇らないパフォーマンス構成である。ゆえに、現役メンバーたちのそれぞれがフォーカスされ、偏りがあまり多くない。ゆえに、稲葉の今後の活躍にもよりいっそう注目してゆきたい。

 そしてまた、彼女の人となりについても少しだけ言及しておこう。Juice=Juiceのキャプテン・金澤朋子は卒業時のブログでメンバーたちに一言ずつコメントしていたのだが、稲葉には「謙虚なあまりいつも自分に自信がなさそうなのが不思議でなりません」と綴った*54。事実、あざといキャラとして、本来グループアイドルの中ではいじられやすい立ち位置にいるにもかかわらず、しゃべり方が異常に謙虚かつ丁寧であり、パーソナリティの幅として惹きつけられる。ほかにも、激辛好き、インドア趣味、演技、MC、ラジオ番組での語りなど、様々な魅力がある。しかし、この「謙虚さ」が先の圧倒的なダンスでの自己表現とのギャップとなっており、ストイックな人間性も感じさせるのである。完全に余談になるが、森貴史『〈現場〉のアイドル文化論──大学教授、ハロプロアイドルに逢いにゆく。』では、大学教授である著者がゼミ生の卒論がきっかけでハロプロへとはまった経験が〈現場〉に根差して語られるという。こちらは未読ではあるのだが、著者の推しは「稲場愛香」であり、書籍の表紙も『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』の歌衣装のイラストである。あるいはこういった書籍を通しても、彼女の魅力が感じられるかもしれない。

杉山弘樹

 さて、実は「推し」は、メンバーとは別にもうひとりいる。それは、映像作家の杉山弘樹である。彼は様々なMVを監督しているのだが、ハロプロは2017年頃までMVのディレクター名がクレジットされていたわけではないので、詳細はやや不確かな部分もある。しかし17年以降の楽曲では、℃-uteモーニング娘。’17鈴木愛理、近年ではJuice=Juice『微炭酸』、宮本佳林未来のフィラメント』、つばきファクトリー涙のヒロイン降板劇』、アンジュルムはっきりしようぜ』などのMV、そして元・乃木坂46である伊藤万理華主演のドラマ『お耳に合いましたら』にも監督の一人として参加している。ハロプロとの関連では、2014年に『THEビッグチャンス』(フジテレビ)というクリエイター・オーディション番組に出演している。同番組内では、モー娘の新曲MV監督を公募した様子が放映され、杉山はファイナリスト3名まで勝ち残っている。当時の杉山の映像に関するつんく♂のコメントは「女の子の撮り方が個性的、かなり気になる」というものだった*55

 杉山の映像は、全体の印象としてはコントラストが強く、光の濃淡のギャップや、粘度の強い色彩が、被写体を艶やか・なめらかに感じさせる。VFXをほとんど用いないため、画角やデジタル/フィルム感の細かな操作、画面を二分割する構成、カメラが一定のスピードで機械的に動き回る浮遊感といった、撮影の「生っぽさ」が感じられる。また、ハロプロのMVの多くが、ダンスとリップシンクに重きを置く中で、杉山は、風景によって物語の気配を示す、あるいはガジェットへ感情移入をさせるといった視覚的なドラマ性も強い。

 先日公開された、竹内まりやの同名曲をカバーしたJuice=Juiceの新曲『プラスティック・ラブ』、このMVを手掛けたのは杉山である。オリジナルは、70〜80年代、高度経済成長期にあらゆるものが消費の対象へと変わり、街の景観がみるまに変わってゆく、その刹那的・表層的な時代背景にあって生まれた楽曲である。「プラスチック・ラブ」の明確な意味は定かではないが、無機質な感情、偽り、あるいは表層のゲームの中で見失われた本物への郷愁のようなものも感じられる。最近の80~90年代カバーの流れがあったとはいえ、インターネットミーム的に大流行した楽曲*56をカバーしたことは少々意外でもあった*57。それはある種のつんく♂カラーと共存可能な幅として模索されている、グループの新たな一面なのかもしれない。今作MVでは、シティポップ的なアーバンな雰囲気を思わせるモチーフが積極的に用いられる一方で、様々なレトロガジェットが登場し、単なるノスタルジーだけにとどまらない、時間や時代の変化といった移ろいゆくイメージも忍ばされている*58。これは、キャプテン・金澤の卒業と、新メンバー三人の合流といったグループの状況にも対応したものでもあるだろう。時の変化のエモーショナルさと、大人っぽい表現、これらを共存させた表現を可能とするのは、ハロプロ内においては、今のJuice=Juiceのほかにあり得ないだろう。

 MVは、フィルムの捉えた淡く粒だった光のもとでメンバーたちが物憂げな表情を見せるドラマパートと、高解像度の映像による、恐らくガラス越しに撮影されたと思われる湿り気のあるリップシンクの映像が交互に繰り返されて進行する。ラストでは、湾岸エリアを思わせる都市部の遠景をバックに、建物の屋上で全員がダンスを披露する。間には、途中のドラマパートでメンバーが手にしていたハンディ・カメラを想起させる荒い映像でのショットが挟まれる。原曲が最後半部で大きく展開することに合わせて抑制されていたイメージが数多く現れるので、楽曲と映像のモチベーションが相乗的に高まってゆくエモーショナルなMVとなっている。

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最後に

 一般人からアイドルになる過程を見せるというのが、モー娘が築き上げた新しいアイドルのかたちだった*59。しかしながら、「アイドルらしさ」のパロディがスタンダードとなった現在では、アイドルは特定の職能を有する存在ではなく、様々な拡張性やメタ・アイドル性を伴うものへと変化している*60。このような状況の中では、特定の基準も存在しないので、逆に様々なアイドルの魅力というものが見えづらくなっているようにも思える。今回のブログは、そういった自分の疑問と向き合ってゆく中で手探りに書いたものである。

セクシャリティの消費

 多岐にわたる発信を見てゆく中で、昨今のハロプロが一般に「パフォーマンス」や「楽曲」、「フェミニズムとの親和性」によって評価されることは強く実感できた。しかし同時に、これらの独自性がアイドル自体が構造的にはらむ「セクシャリティ」の問題を見えづらくしているとも感じた。例えば、ハロプロのメンバーが撮影で水着になる、肌の露出をすることは主体的な選択に基づいて行われるという*61。ゆえに、それらは「主体性」のもとに肯定されうる。しかし同時に、本人の意向の判断とは独立した、可視性の受け止め方も判断されるべきだ。ぬるっとしたフェミニズム的雰囲気での受容は魅力的である一方で、それによってセクシャリティやその商品化にまつわる諸問題が罷免されることはない。

 先日、ライブビューイングではあれど、はじめてハロプロの「現場」に参加した。坂道に比べると、ファンの年齢層は高く、また女性の姿も多かった。とはいっても、会場にいたファンの過半数は男性であり*62、やはり彼女たちのパフォーマンスもまぎれもなく男性向けコンテンツとしてデザインされたものであると実感された*63。そのような前提に改めて立った時、例えば写真集のほとんどが水着やボディラインを強調した衣装であることなどは単に「主体性」であれば屈託なく受け止めてよいものなのだろうか。

 坂道シリーズの写真集は、抽象的ではあれど、場面の進行やドラマが存在する。そのうえで、写真集では必ず水着や下着といった「脱ぎ」が用意されている。普段のグラビアでは肌の露出が全く存在せず、グループ自体が禁欲的にイメージづけているため、ファンの間では毎度大きな話題を呼ぶ。こういった、プロモーションとしてのセクシャリティの取り扱いが問題含みであることは明らかだ。しかし、写真集での露出に対しては、坂道オタクの中には少なからず否定的な意見が存在しており、また、ページの多くが様々な衣装を身に纏った姿であり、露出は全体としてはごく一部にしか割り当てられていない。そういった事例を踏まえたとき、個人的には、ハロプロの写真集での露出は、無垢な主体性賛美のもとに了解されすぎていると感じた。

 また、juice=juiceの元メンバーである高木紗友希は、当時ハロプロの中でもトップクラスの歌唱メンと目されていたにもかかわらず、男性アーティストとの交際報道を受けて謝罪文を公開し、グループとハロプロを脱退した*64。この件について、歌唱メンとしてライバルであったモー娘の小田さくらは、ブログで以下の通りコメントしている。

私は、最近のアイドルの在り方に対して違和感をおぼえる点があります。

〔…〕

音楽を武器にしようとしているハロー!プロジェクトが私は大好きです。

なので、高木さんのように歌声という最大の武器を持ち合わせていた人ですら、戦えない事があるという現実に
音楽が1番大事ではなかったんだと感じた事が
すごく悲しかったです。

じゃあ私達がアイドルとして努力してきた歌やダンス、ダイエットなどは無駄なのでしょうか?
「アイドル」は音楽という娯楽の中にちゃんと属せているのでしょうか?

私が思う事は1つで、
アイドルが個性や音楽で評価される世の中になったら良いなぁと思います。

でもこれは、私が音楽が好きだから思っただけの話です。

私がプロとして皆さんから頂いているものは
歌、ダンス、笑顔、キラキラ など
あくまでステージ上のものに対して頂いていると思っていましたが
その中にプライベートの事までもが含まれていたのならば
家でだらだらしている事なども改めないといけないなぁと思います。

〔…〕

私が現役のうちに変わるかはわかりませんが、より「アイドル」が自立できる日が来るのを願っています。
アイドル自身の幸せとファンの方の幸せが比例していったら、そんなに素敵な事は無いと思います!

――私が思うこと。小田さくら | モーニング娘。‘21 天気組オフィシャルブログ Powered by Ameba

 皮肉にも、高木の所属するjuice=juiceの主演ドラマ『武道館』では、恋愛スキャンダルとアイドルの主体性の齟齬が大きなテーマであった*65ハロプロが打ち出す「主体性」の軸は非常に重要だ。しかしながら、運営母体やファンコミュニティまで含めて旧弊的な産業構造から脱しているわけではないということは、留意しておかねばならない。私自身は、センセーショナルに報じられる恋愛スキャンダルを目にした時にまったくショックがないと言えば嘘になるが、とはいえ、それによってパフォーマンスの訴求力が翳ってしまうとはまったく思っていない*66。アイドルの恋愛スキャンダルに対して「寛容」と言われるオタクには、隠せばOK・バレたらアウトといった風潮もあるが、それでは結局のところ感情的になっていないだけで糾弾する人々と恋愛禁止の不文律への加担といった点で同じである。アイドルや大衆文化に対して積極的に発言しているライターの香月孝史は、白石麻衣が卒業を発表した際に、「ノースキャンダル」を讃える風潮に対して警鐘を鳴らしている*67。清廉さをプロフェッショナリズムとして受け止めるような目線もまた、「恋愛(特に異性愛)=裏切り」といった考えに与している。

互恵的な関係へ

 現場の様子、写真集、恋愛スキャンダル......これらを通して、改めて「セクシャリティを消費する」といった大前提はやはり看過されるべきではないと思える。容姿に惹かれてメンバーを追うようになることはごく素朴な経験としてあり、それがファンやオタクになる大きなファクターであることも少なくないだろう。当然、個々人の差異を外見によって、かつ差別的様相をもって判断すれば「ルッキズム」へと陥る。しかし、男性向けにデザインされている以上、様々なコンテンツは大なり小なり「セクシャリティを消費する」側面を抱えるものだ。この確かな前提を受け止めながら、屈託や留保を持つ必要がある。

 さて、少々飛躍した言い方になるが、児玉雨子の小説とハロプロによって示される、「贈与」を伴うシスターフッドブラザーフッドからうかがえるのは、「互恵性」というフィクションの可能性ではないかと思う。これは、ある種の共同性を志向するものだ*68。「ノリ」や「エンパワメント」を通して表現され、アイドルの側から誘われる互恵的な関係。各種番組を見ながらメンバーと同じように他メンバーにツッコむような、親密さや近さのフィクションではない。それらは時に過剰な内輪を形成して、誤った踏み込みをしてしまうことがある*69。そうではなく、誘いや呼びかけによって、それへと応答するファンの側の主体性を引き出すものである。そのようにして、主体的に互恵的な関係を志向するのである。もちろん、「互恵」という時、応答への応答として、アイドルからファンへ向けられる感謝の言葉をどこまで字義通りに受け止めるべきかは分からない。非対称であるがゆえに、ファン個人の態度は直接届くものではなく、ほとんど「祈り」に近いかたちをとるだろう。しかし、それでも、「祈り」を向けるように他者との関わりを望むことは、単に他者の生を消費する態度とは峻別されるものであろう。

 セクシャリティともある程度結びついた、容姿やヴィジュアルの好み、しかし、それもまた個々のパフォーマンスとフィードバックするかたちで個人の魅力を形成している。消費という、他者の生を商品化する経済へ、略取へと加担すること。それでもなお、屈託や留保の上で、「アイドルを見ること」。それは、個々人が自己を再帰的に経験し、他者や対象へと向かう自らの欲望をそれぞれに特異な仕方でさかしまに辿る実践ではないかと思う。それが、「成熟」や「感傷」といったかたちをとる。互恵的な共同性を受け止め、同時に自らの欲望を再認する。その有機的な繰り返しの中に新規ハロオタである自分の身の置き場があるのではないかと思う。

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*1:「危険な読書」『BURUTUS』2019年1月号

*2:新グループ、グループ名決定のお知らせ|http://www.helloproject.com/special/newgroup2018/

*3:正確に言えばKANの同名楽曲のカバーである。しかし、同じアップフロントグループに所属し、リリース時期も二か月程度しかずれていないこの楽曲をシュガーベイブなどと同様の横断性をもった「カバー」曲として扱う必要はないだろう。また、この楽曲自体が70年代のヒット曲のさまざまなオマージュがちりばめられており、つんく♂同様、複数の楽曲のメロディを元ネタとして作られる歌謡曲の伝統的なスタイルを踏襲している。『ポップミュージック』の元ネタに関しては以下の記事を参照 →【レビュー】Juice=Juice『ポップ・ミュージック』がオマージュだらけで最高|https://www.ongakunojouhou.com/entry/2020/04/19/223949

*4:KAN、5年ぶりニューシングルMVで「57歳にもなって」華麗にダンス|https://natalie.mu/music/news/364905

*5:青田麻未、2017年「アイドルとハロプロ」『フィルカル』Vol.2 No.1(株式会社ミュー)

*6:生歌に関してはユニゾン箇所で音源の歌声を乗せる「被せ」などもあるため、文字通りのピュアさがすべてのパフォーマンスに存在するとは言えないだろう。しかしながら、ハードなダンスナンバーであっても、音質の落ちるヘッドセットを使うことなく必ずハンドマイクを左手に持って歌う徹底ぶりには心底驚かされる。

*7:現象学においてキネステーゼと呼ばれるものがこれに相当する。同概念を提唱したフッサールは哲学的タームとして用いるが、この話題は「『私』が『他者』を感じる際の、『私』と『他者』を同一に感じている根拠はあるのか?」といった問いや批判へと向かう。いわゆる「他我問題」である。また「キネステーゼ」という「他者の動きを自分の身体感覚で想像する」現象は、運動教育学ではより実践的な、すなわち「なんらかの動作を先生の手本を見て覚える」といった意味合いで元の文脈からやや独立して用いられている。神経医学においては、ミラーニューロンという「自分と他人を区別しない」神経の働きによって説明されうる。

*8:ハロプロ】実は48グループ、坂道オタだった私がハロヲタになってびっくりしたこと♡|https://youtu.be/SdikRUJiVWw

*9:ユニット名決定!!! 1997年9月14日放送『ASAYAN』公式サイト(アーカイブによる復元)|https://web.archive.org/web/20130212204553/http://www.asayan.com/vocal/morning/0914.html

*10:モーニング娘。まるっと20年スペシャル! (updated)』NHK、2018年5月6日放送

*11:つんく♂さんに教わるリズム論『リズム天国』でノリ感アップ!|https://www.1101.com/nintendo/rythm_heaven/01.html

*12:ルートヴィヒ・クラーゲス、杉浦実訳、1994年『リズムの本質』(みすず書房

*13:社長が訊くリズム天国ゴールド』|https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/ylzj/vol2/index.html

*14:つんく 節感」のある歌詞とリズム|https://note.com/hellotaretare/n/n501ce03af1aa

*15:掟ポルシェが語るハロプロの真価 つんく サウンドの「特殊性」とは?|https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_9e8d3ad7-843f-4ef1-8d7c-55ab55ee467b.html

*16:田中純、2006年「自殺するロックンロール」『政治の美学』(東京大学出版会

*17:ハロプロの沼は楽器レコーディング映像にこそ潜んでいる。|https://note.com/pou_cham/n/n3ecc5d685b1a

*18:椹木野衣、2001年「「音楽」の消滅とその〈痕跡〉」『ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージック:拡散する〈音楽〉、解体する〈人間〉』(大村書店)

*19:喉頭癌の闘病エッセイ『だから、生きる。』(2015年、新潮社)で明かされた。また現在のつんく♂は、YouTubenoteなどでもある程度オープンに触れられるかたちで、オンラインサロンを開設するなどしている。

*20:HELLO! PROJECT COMPLETE SINGLE BOOK 20th Anniversary Edition』(2018年、音楽出版社)のインタビューで、つんく♂はモー娘の楽曲に関して以下のように答えている。「いまはシングル曲として、元気系やかわいい系、イケイケノリノリ系の発注はこないので、僕の作品がちょっと偏っているように感じてしまいます。〈ピョコピョコ ウルトラ〉があったから〈恋愛ハンター〉が生まれ、その結果、〈One Tow Three〉に繋がっていくというようなクリエイティヴな相乗効果をまた生んでみたいという気はしますね」。同様の発言は、『ミュージック・マガジン』2016年1月号のインタビューにも見られる。

*21:つんく♂路線継承”のJuice=Juiceと“脱・つんく♂”のアンジュルム 両グループの方向性を分析|https://realsound.jp/2018/05/post-190698.html/amp

*22:つんくへ。ハロプロ新時代を創るBEYOOOOONDSとあの人。|http://nirinnshasougyou.livedoor.blog/archives/19974926.html

*23:2020年にダ・ヴィンチハロプロ特集が組まれた際、そのタイトルは「ハロプロが女の人生を救うのだ!」であった。同人活動としては、女オタクによる、女オタクをテーマに据えた、てぱとら委員会『いちいち言わないだけだよ。』が挙げられる。また、ジェンダーセクシュアリティを専門とした社会学者・中村香住の、SNSでの以下のポストのツリーも参考になる。→ https://twitter.com/rero70/status/1210797904639623169?s=21

*24:「[グラビアインタビュー]モーニング娘。’20」『ダ・ヴィンチ:特集=ハロプロが女の人生を救うのだ!』2020年2月号(KADOKAWA

*25:BLACKPINK、MAMAMOOなど。K-POPの“ガールクラッシュ”に見る、多様性|https://www.thefirsttimes.jp/column/0000019942/

*26:Meiji Now  【特集・第3回】作詞家・作家 児玉雨子さんにインタビュー|https://meijinow.jp/senior/interview/33218

*27:男性アイドルが「愛されたい」と歌ってもいい。作詞家・児玉雨子の目指す“男性像”の多様化|https://news.livedoor.com/lite/article_detail/16148013/

*28:『チクタク 私の旬』の問題性と、手遅れになる前に呪いを解こうと試みること|https://note.com/penpenbros/n/ne99ca2ffeac9

*29:「[対談]作詞家・児玉雨子×作家・松浦理英子」『ダ・ヴィンチ:特集=ハロプロが女の人生を救うのだ!』2020年2月号(KADOKAWA

*30:モー娘。’21、アンジュルム、BEYOOOOONDS……各グループの平均年齢も算出 ハロプロメンバー学年別分類2021年版|https://realsound.jp/2021/04/post-734793.html

*31:ハロプロ25歳定年説が打ち消されたことでの弊害|https://okakiyamaarare.tokyo/archives/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%AD25%E6%AD%B3%E5%AE%9A%E5%B9%B4%E8%AA%AC

*32:和田彩花は女でありアイドルだ。アイドルとして女性のあり方を問う覚悟|https://sheishere.jp/interview/201910-ayakawada/

*33:新しいアイドル像を表現する和田彩花 業界に必要な変革とは?|https://tokion.jp/2021/02/05/ayaka-wada-idol-industry-needs-to-change/

*34:ぱいぱいでか美が感じる、流動的なのに揺るぎないハロプロという存在「絶対に見ているうちに好きになる」|https://entamenext.com/articles/detail/3087/1/1/1

*35:文学アイドル「道重さゆみモー娘。卒業で伝説になります」|https://www.news-postseven.com/archives/20141124_288053.html

*36:金澤朋子が選ぶ [ 江國香織作品BEST3 ]|https://grfft.com/tokyograffiti/contents/16730630/

*37:本日公開『ワンダーウーマン』、秋元康が書き乃木坂46が歌う日本版イメージソングが女性蔑視でヒドい! 町山智浩も激怒!|https://lite-ra.com/2017/08/post-3411.html

*38:週刊プレイボーイ』2013年3月25日号

*39:ハロプロもAKBも地下ドルも…アイドルとフェミニズムは矛盾しない! “主体的”なアイドルであることの尊さ【研究者・高橋幸さんインタビュー】|https://www.cyzo.com/2021/07/post_285589_entry.html

*40:結婚とシャドーフェミニズム 遠藤麻衣|https://relations-tokyo.com/2021/06/06/mai-endo/

*41:水上文、2020年「〈消費者フェミニズム〉批判序説」『ユリイカ:特集=女オタクの現在──推しと私』2020年9月号(青土社

*42:宇佐見りん『推し、燃ゆ』論 成熟と喪失、あるいは背骨と綿棒について 水上文|https://web.kawade.co.jp/bungei/10243/

*43:青田麻未、2017年、上掲

*44:文芸アイドル・西田藍が読み解く『まーどぅー本』ハロプロ特有の箱庭感がもたらす幸福とは?|https://entamenext.com/articles/detail/1127

*45:青田麻未、2020年「「イケメン」な女性アイドル──工藤遥試論」『ユリイカ:特集=女オタクの現在──推しと私』2020年9月号(青土社

*46:なお、本稿での吉屋信子の記述については以下を参照した。管聡子『女が国家を裏切るとき:女学生、一葉、吉屋信子』(2011年、岩波書店)、久米依子『「少女小説」の生成:ジェンダー・ポリティクスの世紀』(2013年、青弓社)、竹田志保『吉屋信子研究』(2018年、翰林書房)。

*47:児玉雨子はBURUTUSへ吉屋信子について寄稿した際、自身のTwitterで「吉屋作品研究・解釈は、久米依子、竹田志保さん、日本における「少女」なるものの考察は本田和子、渡部周子さんの影響を受けてきました」と明かしている。|https://twitter.com/kodamameko/status/1316654623554322433?s=21

*48:例えば1943年に明治神宮で行われた出陣学徒壮行会について、田辺聖子は『感傷旅行』で芥川賞を受賞した際に「最もセンチメントな出来事」とコメントしており、杉本苑子は『あすへの祈念』の中で「おさない、純な感動に燃えきっていた」「感情の燃焼があった」と述べた。両者はともに、明治神宮で開会式が催された1964年の東京オリンピックのムードの中でこれらの言葉を残している。

*49:ハロプロに限らず、男性向けコンテンツにおける女性ファン・オタクは、ある種のマイノリティとして目されることがある。社会学者の中村香住は、「「女が女を推すこと」ことを介してつながる女ヲタコミュニティ」(『ユリイカ』2020年9月号、青土社)の中で、男性アイドルを推す女性オタクが同じメンバーを好きな人と友達になることを避けようとすること(同担拒否)に対して、女性アイドルが好きな女性オタクは異性愛が忌避された親密な同性コミュニティを築くことについて実体験に基づいて指摘している。

*50:児玉雨子、2020年「「好き」のグラデーション。」『BURUTUS』2020年11月号(マガジンハウス)

*51:「男の絆」を示す「ホモソーシャリティ」について、Hammarén, Nils. & Johansson, Thomas. (2014). Homosociality: In between power and intimacy. では、ホモソーシャリティには、「垂直」(権力、階級的)と「水平」(親密さ、友愛)の二つの要素が存在すると指摘される。本稿における「女の絆」として示された「情動的な深い結びつき」は、後者の水平的なものとして理解することも可能かもしれない。一方で、日本での「シスターフッド」の受容に対しては、小田原のどかが「彫刻を見よ──公共空間の女性裸体像をめぐって」の中で指摘した、軍国主義の転倒として裸婦像が導入され、平和広告が公共空間をデザインしたという歴史的な事象なども踏まえて慎重な態度が必要だろう。小田原によれば、戦前・戦中に「軍服を着た男性」彫刻が置かれていた台座には、戦後、GHQ電通によって「裸の女性」彫刻が設置された。時に複数の裸の女性たちの手を取り合うイメージ(それは果たして「解放」された姿なのだろうか?)が、「平和」の象徴とみなされたのである。元々の文脈における「シスターフッド」の語とは別に、イデオロギーとして喧伝された戦後日本における女性イメージ──それらが構造的に孕む性規範──との形態的一致やそれによる思想面での合流可能性を考慮しつつ、日本的「シスターフッド」の受容は改めて検討されるべきであろう。

*52:稲場愛香の経歴などについては下記など参照。→ juice=juice 稲場愛香を紹介!! 今だからわかる、彼女がカントリーガールズではなくjuice=juiceになった理由。【元EXPG】|https://youtu.be/Yv5YCffWwQU

*53:下記の写真は、「週間ファミ通2019年6/20号」に掲載されたもの。カメラマンは、1st写真集『愛香』(2018年)、2nd写真集『ラヴリネス...』(2020年)を担当した根本好伸。撮影についてなどは以下を参照。→ https://twitter.com/heyshohei0411/status/1136245024264376320?s=21

*54:♪.みんなへ!ついに明日!竹内さん! 金澤朋子 | Juice=Juiceオフィシャルブログ|https://ameblo.jp/juicejuice-official/entry-12711879559.html?frm=theme

*55:「THEビッグチャンス」 2014.12.29|http://bestnudist.blog118.fc2.com/blog-entry-2629.html?sp

*56:インターネットのPlastic Love|https://note.com/ykic/n/nef12db225043

*57:最近のカバー曲の流れやグループの路線については、前作『DOWN TOWN』について解説した以下の記事も参考になる。→ なぜ今、ハロプロの超実力派Juice=Juiceがシティ・ポップの名曲をカバーしたのか|https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83881

*58:有志によるMVロケ地の紹介|https://twitter.com/wordsalad_8kb/status/1461772274659250178?s=21

*59:モーニング娘。'20との邂逅 | 佐々木敦、アイドルにハマる 第2回|https://natalie.mu/music/column/374279

*60:香月孝史、2014年『「アイドル」の読み方:混乱する「語り」を問う』(青弓社

*61:ぱいぱいでか美が感じる、流動的なのに揺るぎないハロプロという存在「絶対に見ているうちに好きになる」|https://entamenext.com/articles/detail/3087/1/1/1

*62:これは、あくまで足を運んだ「現場」についての話である。2022年より放映予定のTVドラマ『真夜中にハロー!』(テレビ東京)の公式アナウンスによれば、現在のハロプロのファンクラブ会員は男女比では女性が数を上回っているらしい。ライブチケットを買うためには継続的にファンクラブに登録する必要があることを思えば、会員登録者の内訳は現在のアクティブなファンの実態を反映したものと考えられる。また、有志が行った近年の検証によれば、ハロプロYouTubeチャンネル登録者の年代ごとの男女比の内訳を見ると、10〜30代前半は女性、30代後半〜60代は男性と、若年層と高年層で過半数を占める性別がはっきりと分かれているという。さらに、全体で見れば、20代前後の女性の割合が全体の半分を超えるというデータが示されている。Twitterでの投稿を対象とした、個々のメンバー人気に関する同種の検証では、男性人気が圧倒的過半数である乃木坂などに対して、ハロプロメンバーの人気は男女比がかなり拮抗していることが示された。これらのプラットフォーム上に現れる差異は、SNSを軸としたファンと、「狼」と呼ばれるミーム化した5chのファンとの年齢層や男女比の違いをも示唆しているように思える。さらに興味深いのは、ハッジというユーザーが行った、Twitterのハロオタ246名から回答を得たという「ハロヲタになる過程」についてのアンケート調査である。ここではさまざまな結果が示されているが、「黄金期」「娘。9期加入直後」「17年以降」のタイミングでファンが増えたという分析は、先のファンの年代と性別にも相関するものとも考えられよう。以上のように、ファンの「過半数が男性」であるといった点については、一概に言えるものでは全くないことは付言しておく。

*63:モーニング娘。 20周年記念オフィシャルブック』(2018年、ワニブックス)のインタビューで、つんく♂は、「最終的には、熱狂的なオタク男子がいなくなったら終わり」と発言している。真意はどうあれ、この一節は前後の内容も含めて、一部のファンのあいだでは都合よく解釈されている感も否めない。例えば5chのスレッド内では少年漫画(少年向けコンテンツ)にハマる女性ファンに対する尾田栄一郎の同種のコメントなどが引き合いに出されている。また、つんく♂の当記事のインタビュアーを務めたUTBの女性編集長は、グラビア誌を受容するファンの幅が広がっている現状を踏まえた上で、つんく♂の発言を引き合いに出しながら、「どれだけファン層が変化しても、従来の読者が求めている王道は追求していきたい」と語っている。これらを鑑みても、各種コンテンツが「男性向けにデザインされている」こと自体は、それが全てではないとしても、一定以上妥当性のあるものだろう。

*64:恋愛スキャンダルで一発退場…なぜアイドルのルールだけが厳格なのか?|https://www.oricon.co.jp/special/56121/

*65:Juice=Juice主演『武道館』が示したアイドルの変化――恋愛禁止や特典商法の果てにあるものは?|https://realsound.jp/movie/2016/04/post-1363.html/amp

*66:例えば乃木坂46松村沙友理は、男性と親しげにする様子をグループ初のスキャンダルとしてセンセーショナルに報じられた。のちに、出演した舞台『じょしらく』ではその出来事を踏まえたセリフが用意され、リアリティを伴った迫真の演技としてファンの間で大きな反響を呼んだ。また、グループのドキュメンタリー映画悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』ではスキャンダル当時のことについて、本人も含めたさまざまなメンバーへのインタビューが行われている。この映画もファンの間では好評である。恋愛行為自体が背信であるといった前提に基づいた振る舞いではあれど、ここからはスキャンダルが必ずしもファンとアイドルの関係を引き裂くものではないことがうかがえる。秋元グループのパーソナリティの過剰な消費は、このような「スキャンダル」と呼ばれる事態をも「ネタ」として消費する無差別さがある。それは、一方で峯岸みなみが頭髪を丸刈りにして謝罪したような過度な暴力的表現へと至る危険を抱えながら、他方で指原莉乃を「左遷」というかたちで新規グループのアイコンに据えるなど、旧弊的な悪癖自体を逆手にとって継続的なプロモーションを行うことを可能にもしている。

*67:乃木坂46の「世代交代」を前提とする議論に異議あり! 「卒業」のモデルを絶対視しなくてもいい理由|https://www.cyzo.com/2021/07/post_285611_entry_2.html

*68:実際のところ、「アイドル」のパロディと化した現代のアイドルというのは、確固たるジャンルの方向性を築いているというよりは、ある種のメタ・ゲームの場と化していると思える。個々のアイドルグループやメンバーたちは、パーソナリティや外付けされた「属性」「キャラ」「コンセプト」の差異によって、「アイドル」というエコノミーの中で各々の位置づけがなされている。このとき、「成長過程」を見せるそれぞれのグループは、みな何がしかの目標として「真なる形式」のアイドルを目指しているわけだが、この「真なる形式」とは明文化されているものではない。少なくとも多くのアイドルファンがグループやメンバーを応援するとき、彼女たちの目標の達成は「武道館公演」のような商業的な成功に見出される。「売れる」「見つかる」「広まる」こと。すなわち、アイドルとファンによって構築される共同体のフィクションが拡張されてゆくことに大きな意味が見出されているのである。つまり、現代のアイドルは差異によるメタ・ゲームを通して、各々の「共同性」を競っているとも考えられるというわけである。本稿ではあくまでハロプロ的な「共同性」について扱い、それを「互恵性」として捉えて指摘した。しかし、「共同性」自体はファンの参加度合やモチベーションとはほとんど無関係に、構造的にあらゆるアイドルが抱え持つものである。また一方で、前掲の管聡子『女が国家を裏切るとき』では、『国体の本義』の〈情〉の贈答において、共同性として仮構された「幻想」の働きが見出されている。すなわち、互恵性というものがイデオロギーと結託する歴史的場面が示されているのであり、それが無批判に賛美されるべきでないことがうかがえる。

*69:平山朝治は、「〈論説〉AKBレインボー経済」(2019年、筑波大学国際日本研究専攻)の中で、指原莉乃が後輩メンバーへと過度なスキンシップを行う姿が、ファンの間で「サシハラスメント」と呼ばれ定番化しており、それによってヘテロ男性ファンが快楽を得ていることを指摘している。また、AKB48などではしばしばファンによる「貧乳いじり」がメンバー側から問題視されることがある(※指原莉乃の投稿へ寄せられたリプライ大家志津香の炎上)。