雲のゆくえ

 2021年10月25日、「推し」である乃木坂46一期生の生田絵梨花が、自身の公式ブログでグループの卒業を発表した。同年11月5日にリリースされたグループ初のベストアルバム『Time flies』でのリード曲『最後のTight Hug』とソロ曲『歳月の轍』が最後の参加楽曲となり、12月14日から2Daysでの卒業コンサートが催された。

 生田は活動初期から常に中心的なポジションに立ち、かつ、舞台やミュージカルへと精力的に取り組み、グループの活動の幅を内外から広げてきた。2015年の『リボンの騎士』を皮切りに、『ロミオ&ジュリエット』『レ・ミゼラブル』『モーツァルト!』『グレート・コメット』『キレイ』など様々な公演に出演し、2017年には岩谷時子賞奨励賞、2019年には菊田一夫演劇賞を受賞し、舞台女優としての評価も確立している。また一方で、乃木坂46加入前にはピアノコンクールで東京都代表に選ばれ、音大へと進学。一流アーティストによるアコースティックを基調とした音楽ライブ番組「MTV Unplugged」には、ソロとグループ名義とで二度出演している。

 そんな文字通り「才女」としてグループを牽引してきた生田が具体的な活動を終えるのは、12月31日の紅白歌合戦と予定されている*1。さて、私は先日、卒業コンサートの二日目をライブ配信で観た。その時、オタクとしての様々な気持ちが「報われた」と思う瞬間を初めて経験した。今回のブログでは、そんなライブでの経験をもとに、生田絵梨花と、彼女の背負ってきた「乃木坂らしさ」とはなんであったのかを自分なりに考えてゆきたい。

目次

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 「乃木坂らしさ」とは何だろうか?まずは漠然とそのように問うてみる。「コンセプトがないのがコンセプト」であることから始まり、10周年を控えた乃木坂46(以降、乃木坂)のグループカラーをひとつに絞ることは困難な作業だ*2。しかし、その変遷を表題曲の歌詞における「〈君〉と〈僕〉の物語」の系譜として捉えることは可能である(この系譜はカップリングにも多く存在するが、ひとまず大きな流れを示すものとして本稿では表題曲のみ扱うこととする)。では、それらを見る前に補助線として、乃木坂のたどった歴史をグループの体制やコンセプトの変化から、便宜的に次のように区分してみようと思う。

  • 第一期:2012~2015年。一期生を主軸に、紅白出場と神宮球場でのライブ、TVドラマの放送と、結成からグループとしての第一の目標が達成されるまでが含まれる。
  • 第二期:2016年~2018年。主力メンバーの卒業がはじまる。また、現エースである齋藤飛鳥のセンター初抜擢、三期生の合流など、既存のイメージの変化が大々的に展開されるようになる。そして、20thシングルの発表や、レコード大賞の二年連続受賞など、グループのブランドが確立される。
  • 第三期:2019年~2021年。一期生、二期生の過半数が卒業し、最初期の体制がほとんど終わりを迎える。四期生の合流、三期生の成熟などもあってイメージの刷新が進む。

以上を踏まえたうえで、三つの時期に表題曲の歌詞世界の展開をざっくりと対応させてみよう。

 「〈君〉と〈僕〉の物語」は、生駒里奈の1stからの連続センター最後の曲である『君の名は希望』(2013)、二期生合流以降唯一選抜メンバーが一期生のみだった、いわば原点回帰がなされた『今、話したい誰かがいる』(2015)、これら二つの楽曲に代表されるものである。両者は共に、歌詞の中で内向的で孤独な〈僕〉が〈君〉との出会いによって世界との紐帯を結び直すという物語が語られる。第一期の頃に現れたこのような世界観は、カップリングも含めてさまざまな楽曲に偏在していた。けれど、出会いと紐帯という物語の展開は第一期から移ると徐々に影を潜めてゆくようになる。続く第二期ならびに第三期の序盤では、『シンクロニシティ』(2018)『Sing Out!』(2019)など、具体的な〈君〉ではなく、〈僕〉からの宛先のない無数の他者への呼びかけへと変化している。そして、直近の第三期では『僕は僕を好きになる』『君に叱られた』(2021)と、〈僕〉が他者との関りによって自己イメージを再び抱え直すような成熟した自省的態度が示されている。そして、物語はベストアルバムのリード曲『最後のTight Hug』の、〈君〉の結婚へと結実する。
 「〈君〉と〈僕〉の物語」の変遷を大まかにスケッチすると以上のようになる。乃木坂の歌詞における「僕」は、具体的な担い手が不在であるため、ファン/グループ相互の一人称として機能しており、この互換可能性によって楽曲への「共感」が生まれる。ゆえに、上記の変遷から、単なる物語の類型として現れる抽象的なキャラクターの鋳型としてではなく、時々におけるファン/グループの二者関係が反映されているものとして〈君〉と〈僕〉を捉えることが可能である。

 こういった「〈君〉と〈僕〉の物語」の系譜において特権的な位置を占めるのが『君の名は希望』(以降、希望)である。グループが初期のリセエンヌと呼ばれるイメージから脱却する際に、本作の物語性・叙情性はそのとっかかりとなった。2015年の初出場の紅白歌合戦では最新曲ではないにもかかわらず披露され、また、歌番組などでもグループの看板曲として扱われることが多い。発売当初、センターを務めた生駒里奈は歌詞への深い共感を示し*3秋元康も後年になって生駒をイメージした曲であったことを明かしている。当時としては稀であった、パーソナリティと深く結びついた表現として、「コンセプトがないのがコンセプト」であった乃木坂に明確なグループカラーをもたらした。

 さて、そんな乃木坂を象徴する一曲である『希望』は、生田絵梨花とも深い結びつきがある。『希望』がTVやライブで披露される際、合唱曲のようなフォーマットで、ピアノの伴奏を彼女が務めることが往々にしてある。また、MV内で行われたオーディションと地続きで公開された映画『超能力研究部の3人』(2014)では橋本奈々未秋元真夏と共に主演に抜擢された。7thシングルの個人PVでは、親戚の音楽プロデューサー・佐久間正英のアレンジで弾き語りを行っている。また、同曲が乃木坂駅発車メロディーに採用された際には、生田のピアノ演奏がレコーディングされた*4。彼女がソロで登壇したMTVのライブでは、セットリストの最後に披露されている*5。このように、『希望』はそもそものパフォーマンスにおいてピアノを弾く生田絵梨花の姿と分かちがたく結びつきながら、それ独自に展開してきたといっても過言ではない。先日行われた卒業コンサートの直後、生駒はInstagramのストーリーに、「ずっと 私の 君の名は希望は。 生田絵梨花 でした。」とポストしている*6

 生田絵梨花は『希望』と共に「乃木坂らしさ」を負うてきた。それを踏まえたうえで、生田をセンターに据えた楽曲において「〈君〉と〈僕〉の物語」がどのように展開されていたかを続けて見てゆく。

 彼女が休業明けに表題シングルで唯一にして初めてのセンターに抜擢された『何度目の青空か?』(2014)。このMVでは、クラスになじめない男子生徒を皆の輪に呼び込むヒロインとして生田絵梨花の役が描かれている。MVは、主人公の男子生徒が生田に気持ちを寄せていることが明かされて終わるのだが(MVの中では、西野七瀬にも方向づけされており、生田の立ち位置はやや後退して映されている)、思えば、〈僕〉から〈君〉への恋心が、一人称に対応するかたちでドラマとして直接的に描かれているのは今作のみである。

 また、1stアルバム『透明な色』(2015)のリード曲『僕がいる場所』も、生田がセンターを務めた楽曲だ(アルバムのリード曲は表題曲と近い立ち位置にある)。MVのないこの楽曲の歌詞の中で、〈僕〉は恐らくこの世を去っている。「見えない存在」となった〈僕〉は、別れを悲しむ〈君〉のため、ずっと近くにいると人知れず決意するのである。ここにおいては、二人の関係は相思相愛の関係と捉えられる。それは、「恋」であるかまでは明示されていないが、深く踏み込んだ・結びついた関係であることは確かだろう。『希望』においては孤独な「透明人間」だった〈僕〉は、今作ではむしろ〈君〉を待つ「見えない存在」としてポジティブな方向付けがなされている。

 まとめよう。「乃木坂らしさ」は、歌詞の「〈君〉と〈僕〉の物語」の系譜としてまずは見出される。そこでさらに象徴的な立ち位置にあるのが『君の名は希望』である。『希望』は生田絵梨花とも強く結びついている。そんな生田のセンター曲では、「〈君〉と〈僕〉の物語」が「恋心」あるいは「結びついた関係」として描かれている。すなわち、生田は「乃木坂らしさ」を担うと同時に、そこへ「恋」の幅を持ち込む役割があてがわれていたという訳である。

 二日目の卒コンの序盤では、初期の楽曲が多く披露された。「〈君〉と〈僕〉の物語」は、一般的にファンの間では『希望』のような繊細な他者への歩み寄りとして解されている。しかし、生田絵梨花はそれを「恋」のイメージとして引き受けていた。初期の楽曲群の多くにもこのような「恋」というモチーフがあったことは、生田絵梨花へとライブ全体がフォーカスされたことでなおいっそう強調されていたように思う。それは、「孤独」というグループのモチーフと重なりながら、ずっと徴候的に存在していたものだったのである。

結婚

 『最後のTight Hug』(以降、Tight Hug)は、「〈君〉と〈僕〉の物語」のひとつのエンディングでもある。歌詞の中では、〈君〉が〈僕〉ではない誰かと「結婚」し、内面的に相互依存しているような関係が終わりを迎えている。詞には「恋」というワードもあることから、それが、ある種の〈僕〉にとっての失恋であることも示される。感傷性の強い歌詞の一方で、楽曲自体を初めて聴いた時は、「抱きしめるしかなかった」「結婚」「おめでとう」「幸せになれ」「責任とかじゃなくて」といったフレーズが印象深く、むしろ、関係の成熟として、互いに言祝いでいるような印象も受けた。ともあれ、卒業曲で描かれる「旅立ち」のモチーフが、生田自身が担ってきたグループの物語を完結させるかたちで、「結婚」へと結実しているのが今作である。

 MVのドラマは、北欧風の衣装に身を包んだ生田が、霧深い森の中へと入ってゆき、様々なメンバーたちから祝福を受けるというものだ。雨、霧による湿り気のある映像は、意図したものではなくとも、ヴェールに覆われたような世界のありようを示し、神秘的かつ、夢と溶け合った雰囲気を演出している。そしてここにもまた、「結婚」のモチーフが直接的に存在している。今作MVは、監督の池田一真も認めるように、アイディアの多くを映画『ミッドサマー』(2019)に求めている*7。それはもしかすると、生田が以前に46時間TVにて披露して話題を呼んだ「フィンランド民謡」を意識して、「北欧」つながりで選ばれたのかもしれない(だとしたら昇華のさせ方がかなりぶっとんでいるが……)。アリ・アスターによるこの映画は、白夜という設定のもと、終始明るい画面で描かれるサイコホラー作品である。北欧スウェーデンの村落で行われる祭事に大学生のグループが参加し、様々な猟奇的な出来事に見舞われてゆく。カルト共同体をテーマに据えながら、今作はまた一方で、いわゆるフェミニズム映画として、男性主導の関係性を悪魔祓いするような筋書きでもあった。女性である主人公は、セラピー的な痛みの共感をベースとした母権的な共同体の中で、花嫁衣裳を着て、強権的であった元カレとショッキングな決別を果たして物語が終わる。

 『Tight Hug』は、この『ミッドサマー』の美術や場面をおおっぴらになぞるように展開してゆく。ごく一面的に見れば、そのしぐさは、参照元の映画においてある種のキータームであった「結婚」や、男性たちの裏切りを予見させる「悪夢」、これらのモチーフを口当たりの良いものへと転倒させているとも捉えられるかもしれない。しかしMVで興味深いのは、そういったテーマ性による応答の問題ではなく、『ミッドサマー』に存在しているロマン主義的な形象を取り上げていることである。

 ロマン主義的な形象──両作に引き寄せて考えれば、それは森の精であるニンフなどがそうだ。ロマン主義において夢想された森の精との「結ばれ」は、人間存在と自然的存在、対照的な二つの世界の宥和という古来よりの夢を負うものであった。ロマンチックバレエにおいて、丈の長いチュチュが採用され、脚を見せずに高さを追求することで夢想的な浮遊感が表現されるのも、そのような非現実的な世界への越境が期待されてのことである。その意味で、『Tight Hug』が採用した祝祭的な「結婚」とロマン主義それぞれのモチーフには、「異なるもの同士の結びつき」といった点で説得力があると言えよう。すなわち、ここには二つの「結婚」あるいは「婚姻」がある。一方は、『ミッドサマー』的な、共同体に寄与する象徴儀礼として、他方では、ロマン主義的な、神秘的な他なるものとの合一として。これらの「結婚」は当然、ファンとグループの関係を反映するという類いのものではない。特に前者的な意味では、むしろ、グループ内のメンバーたちの精神的な結びつきをゆるやかに強調しているようにすら思う。



憧れ

 『Tight Hug』MVは、ミュージカル的に展開してゆく。それは、白石麻衣が『しあわせの保護色』で演劇的な側面を全面に打ち出したこととはまた異なる方向性である。質素な床面の上で、様々な舞台装置が生起する中で展開するMVは、乃木坂の「演劇」性のピークだった。『Tight Hug』が示すのは、それともまた異なる「ミュージカル」性のピーク、物語的というよりも祝祭的に開かれてゆく荘厳な空間である。
 そもそも、「演技」を強みとして先鋭化していった乃木坂において、生田絵梨花の存在は非常に大きい。乃木坂に入るより以前、習い事に追われる日々を過ごし、ピアノでは全国レベルと、典型的なお嬢様かつ才女であった彼女は、『アニー』の舞台に憧れ応募するも落選したという*8。また、斉藤由貴と対談した際には、『レ・ミゼラブル』を毎年観劇しており、舞台への憧れを持ったと語っている。メモリアルブックのインタビューによれば、大学進学に合わせて本格的に歌と音楽へ取り組むことを決めた彼女は、進学のタイミングで乃木坂の卒業を考えていたという。当時のグループでは、そもそも、舞台やミュージカルなどは外仕事と連続性のあるかたちでは展開されていなかった。結局のところ、運営に説得されてグループに留まることを決めたが、以来、さまざまなミュージカルのオーディションに自分から応募するようになっていったという。

 少なくとも、文化施設が何もなく、ネットも使えないような環境に暮らしていた私自身の幼少期と比べると、彼女のようなミュージカルや舞台への憧れの持ち方はあまりにも遠く感じられる。それを改めて強く実感したのは2017年のMTVでのライブだった。先述のとおり、『希望』は合唱曲、オーケストラ編成での披露など、生田にピアノを弾かせる演出がパターン化していた。正直なところ、ハイソや清楚な「風」を装ったものを見せられているような気がして、当初はあまり好きではなかった。しかし、MTVのライブでは、生田が、自分にはパーソナルな経験として受け止められない縁遠い憧れを抱えていて、それに起因する形で個人的に報われているように見えた。MTVには、3年後、卒コンの直前にも乃木坂名義で再度出演している。生音のバンド・オーケストラで、ソロコンサートのように披露される姿を見て、このような舞台への道は、やはりまごうことなく夢が叶う瞬間であると実感された。それは、ドキュメンタリー映像によってショーアップされることもなく、ただ愚直に続けてきたことが美しいものになるという、まったくの文字通りの意味においての成就である。
 そんな生田が、卒業曲において、まったき純粋さと素朴さによって「結婚」という、一般的であるがゆえに個人と切り離されたものとしても扱われがちな大掛かりなモチーフを扱うことには、非常に正当性を感じる。



 『Tight Hug』MVには、『ミッドサマー』以外にまた別の出典が挙げられている。ミュージカル映画の古典『ロバと王女』(1970)と、黒澤明』(1990)。後者は壮年の黒澤が自身の見た夢を映像化し、夢想的な風景を描いたものである。『夢』には、監督たっての希望で、民俗学者の田中忠三郎が衣装協力をしている。田中が同様に映画に関わったのは、寺山修司田園に死す』(1974)を含めた二作のみである。ここで、やや話が飛躍するが、乃木坂の描いた「夢」というモチーフを見てゆくにあたって、寺山映画を手引きとして挙げたいと思う。今作は『Tight Hug』と直接の結びつきは持たない。しかし、黒澤映画を蝶番として、田中忠三郎、そして田舎の風景、習俗と夢想的世界というモチーフの連続性があり、さらには私自身が乃木坂に触れてゆくにあたって非常に重要な要素がそこには含まれている。

 『田園に死す』は、寺山修司の同名の歌集を元にした映画なのだが、大きく分けて二つのパートに分けられる。前半部では、主人公が上京に至るまでの田舎での憧れとそれにまつわる象徴的な出来事について、物語としてパッケージされたものが詩的に描かれる。後半部では、前半の内容が主人公が後年になって手掛けた映画であったことが明かされ、そのうえで、この物語は「嘘」であると反省される。後年になって、幼少期の出来事が歪められ、物語化されたものである、と。ゆえに、後半部では「真実」が語られ、矮小でチープ、醜い少年時代が露わになってゆく。今作のキャッチコピー、「俺の現在は 俺の少年時代の 嘘だった/俺の少年時代は 俺の現在の 嘘だった」という言葉にも明らかなとおり、コンプレックスによって、過去と現在、二つの地点が交差しながら記憶がゆがめられている様子が浮き彫りにされる。そうして、作中の現在時へと回帰してゆくのである。

 『Tight Hug』MVは、「夢」を一貫した物語として描く。一方で、寺山的な過去と現在の二つの時間の共犯によって生まれた「夢」はそうではない。けれど、乃木坂には、後者のような意味での「夢」と現在の相互浸透性が、むしろ相互浸透するがゆえに「現在」を引き裂くようなものが、少数だが存在している。実のところ、私は乃木坂のMVや楽曲のコンセプト面では、「繊細さ」や「他者との距離」ではなく、そういった「夢」の描き方に惹かれてきた。特に、『田園に死す』のシナリオは『あの教室』(2016)のプロットと完全に対応している。また、『逃げ水』(2017)『全部 夢のまま』(2021)なども、過去と現在の距離が、MVも含めて焦点化されている(余談だが、MTVへの二度目の出演の際、生田は『逃げ水』を弾き語りで披露している)。これらによって示されるのは、記憶と現実の重層的な関係へと分け入ってゆくような姿である。現在とは異なる別の時間へと接触し、そこに一本の連続性を示す線を引くのではなく、あたかも、移ろいゆく現在に身を任せながら、後ろ向きに歩くような。絶え間ない目移りへと囚われてしまうこと。これは例えば、個人に堆積した時間を順序も長さもばらばらに、断片的に描いた柴崎友香の小説などに顕著な特徴である。
 ちなみにだが、夢と現在の相互浸透性といった点では、『路面電車の街』も挙げられそうである。しかしこのMVでは、過去と結びついた具体的な「幽霊」の姿が登場する。ここでは、異なる複数の時間の境界線が、実体化されており、作中世界の見えるもの/見えないものがシンプルに根拠づけられてしまっている印象を受ける。だからこそ、個人的には惹かれそうで惹かれなかった微妙な立ち位置の楽曲でもあった。もしも「幽霊」というモチーフが採用されるのであれば、それは現在の「私」とはまったく無関係な幽霊たちとの出会いであってほしかった。

 改めて『Tight Hug』MVを見ると、同様の夢想的な世界、別の時間へと立ち入るかたちで、現在時の「成就」が描かれていることが分かる。しかし、それらは先のような現在に揺らぎをもたらして瓦解させるのではなく、限りなくポジティブに示されており、物語を積極的に紡ぐものとして現れている。確かにそれらは、寺山的な意味での乖離してゆく相互浸透ではない。だが、相互浸透によって縫合される「夢」の形象は確かに存在している。西野七瀬の卒業曲が、乃木坂でなかった自分、あるいは乃木坂を終えた自分の将来について描いたことを思えば、「夢」の一貫性をあくまで現実に投影するのではなく、ステージの上の物語として完結させる『Tight Hug』の「夢」には一定の距離感が設けられている。寺山的な物語が描くのは、過去と現在の乖離であり、『Tight Hug』の物語はそれらの縫合を描く。全体の雰囲気も対照的ではあるが、これらの作品群が「夢」と「現実」のズレによって抽象的な空間を開くというかたちは同様である。そして、その「夢」へのアプローチは「生田絵梨花」がショーアップしてきた個人史と合流することで、説得力のあるものへと練り上げられていると言えよう。「結婚」というモチーフを、生田絵梨花の夢の成就を通して描く。と、同時に、他者や時間として隔たったものとの相互浸透が、それを受け止め、物語を積極的に紡ぐ態度のうちに示されている。



卒業

 生田絵梨花卒業コンサートは、他者性を、自身と自らの担ってきた「乃木坂らしさ」に貫入させるようなライブだった。セットリストは以下を参照。

 ここでは各楽曲の感想を述べてゆくことはしないが、大まかに二日目の流れを追ってみる。①生田絵梨花の「らしさ」を示す。②期生ごとの世界観に参加する。③幼いメンバーとして割り当てられていた楽曲によって成熟を示す。④ダンスナンバー。⑤歴代センターのポジションに立つ。⑥卒業曲とアンコール後のセレモニー。ライブは以上のようなフェーズによって構成されていた。生田は、ダンスナンバーのパートへと移るフリのVTRで、自分の担ってきたグループカラーとは異なる幅を持った表現に対して「もっと貪欲であれたんじゃないか」という後悔を語った。ゆえに、開始直後に生田自身が担ってきた「らしさ」を提示し、そのうえで、後輩たちの描く明るい未来や、齋藤飛鳥白石麻衣といった近年のグループの変化に応じて流動的な立ち位置を示したセンターポジション、そしてダンスナンバーと、パブリックイメージから外れたものに積極的に挑む姿を見せたのは、乃木坂としての「やり残し」を総括するためであったと言えよう。

 ほとんどステージに出っぱなしだった生田絵梨花が唯一パフォーマンスに参加しなかったアンダー楽曲を披露する流れ、その一曲目は『あの日、僕は咄嗟に嘘をついた』(以降、咄嗟)であった。この楽曲は、生田センターの『何度目の青空か?』(以下、何空)のカップリングとして収録されたアンダーメンバーによる楽曲であり、センターは井上小百合が務めた。『咄嗟』のMVは『桜の園』を踏まえた女子校の演劇部をめぐる群像劇である。『何空』MVでは、女子校から共学へと変わった学校に入学した一人の男子生徒の視点で進んだが、『咄嗟』にはそのような視点主を務める男子がおらず、対照的な構成となっている。歌詞にも、「違う空を見ている」といったフレーズが存在し、またMVでは両者ともにセンターのメンバーが一歩引いた立ち位置に置かれているなど、二曲は暗に対になっている。
 また、井上は舞台演劇へと積極的に取り組んできたメンバーであり、その意味でも、生田絵梨花と対照的でありながら似たポジションに立つメンバーだった*9。2014年のCDTVでは、時間の都合上出演できなかった生田に代わって井上が『何空』の、「真夏の全国ツアー2019」では、参加できなかった井上に代わって生田が『咄嗟』の、それぞれセンターに立って楽曲を披露している。そういった事情もあって、生田の卒コンに、彼女が不在の『咄嗟』の時間が割かれたことには、B面として示されている井上小百合の存在が感じられて感慨深いものがあった。

 アンダー楽曲以外でライブ中に生田がセンターを務めなかったのが、現メンバーである齋藤飛鳥のセンター曲『Sing Out!』『ジコチューで行こう!』である。もともと、この二人にはほとんど接点がなかった。加入時点での年少メンバーでありながら、様々なポジションを経験し、内面的な変化の多かった飛鳥に対し、生田はポジションも内面も、外から見るぶんにはかなり一貫している。一期生の数が減ってゆく中でも、主力メンバーでありながら二人での表立った交流はほとんどない。ここ最近になってお互いのパーソナルなことについて口にするようになったが、それでも相対的に見て二人の結びつきは少ない*10。生田の卒業記念メモリアルブックで企画された二人の(数少ない)対談では、『裸足でSummer』のタイミングで、飛鳥が底抜けに明るい生田に対して、「自分よりもその曲にふさわしいのではないか?」とコンプレックスを抱えていたことを明かしている。二人の関係は、分かりやすい友愛ではない*11。それは、ただ同じ時と場をともにしたという偶然的でしかない結びつき、ある種の別の親密さであった。だから、というわけでもないのだが、卒コンでセンターとフロントといった関係で互いが主導するパフォーマンスを披露した際、楽曲のセンターのカラーに互いにややなじみ切れていないようなズレを感じた。その、合わなさ、あるいは隔たりは必ずしもネガティブなものではない。むしろ、生田自身が固着したイメージからの脱却に挑む姿と相まって、二人の距離はグループカラーや様々な楽曲の抱える印象が、いかようにも刷新されうるという可能性を示していたように思う。

 そして、生田の卒コンはこれまでのグループ内で実践されてきた「卒業」をまた別のかたちで示すものでもあった。2016年の深川麻衣卒業曲やセレモニーをひとつの典型として、以後の「卒業」は常にそことの距離を意識して展開されていたように思う(この点については以前の記事で書いている)。ざっくりと言えば、ソロコンサートが催されるような主要メンバーたちは、橋本、生駒、西野などのように、自らに流れている時間を示すような、自身と乃木坂が培ってきたフィクションそのものを閉じるような「現実へと帰る」方向性を示してきた。それらはひとつの「正解」であり、理念的なモデルであろう。また、グループの顔であった白石は、活動の幅の広さにも現れているようなある種の空虚さを抱えるがゆえに、深川的な規範的「卒業」をよりダイナミックにアップデートして展開した。

 対して、生田はどうであったか?ライブ開演時には客席側からステージへと続く道を歩いて登場し、終演時にはメインステージの背景に現れた階段を上って退場していった。こうした身振りと演出は、明らかにバージンロードを進んでゆく花嫁の姿を意識したものだろう。言ってしまえば、彼女が引き受けてきた物語を、「結婚」に象徴されるようなグッドエンディングとして物語内で完結させたのである。ライブは全体としてそのような、「〈君〉と〈僕〉の物語」すなわち「乃木坂らしさ」を完結させる方向性で枠組みされていた。しかし、ここまで見てきたように、ライブの構成自体はむしろ既存のイメージが取りこぼしていた諸々をすくい取るような、「乃木坂らしさ」を切り崩すものでもあった。橋本や生駒、あるいは西野は「乃木坂」というフレーム自体から「個人」として逸脱することで物語を切断的に終わらせた。しかし、生田はその形式を内破させたうえで、なお形式内での物語の終わりを模索したのである。ライブの本当に最後、観客に向かってステージを去る彼女が口にしたのは、「またきっとどこかで出会えますように」という祈りのような言葉だった。

 卒コンを観て、自分の「推し」のために構成され、なおかつ終始彼女のパフォーマンスが楽しめたことで、一つの理想的なライブ経験であると思えた。と同時に、古き良き乃木坂性を背負う存在として見られ、求められていたことで、グループの時間にかき消されるようにして流れていた時間や彼女の様々な場面での想いに、自分が全く目を向けられていなかったことが悲しくもあった。『Tight Hug』において、〈僕〉と無関係なかたちで〈君〉が結婚するのは、目線を置き忘れていた諸々の時間が、あらためて二人の距離として経験されるようなものでもあったのだろう。最後にそういったことに気付かされ、なおかつ目にすることができて本当に良かったと思う。冒頭で書いたとおり、「報われた」と感じたのは、そういったオタクとして見たかったと漠然と希求していたものと、“その先”に触れることができたからである。

 別の時間をすくい取ること。ライブでの経験を通して、乃木坂が10年という月日の内に培ってきた膨大な楽曲やライブ映像、MVなどのアーカイブには、まだまだ無限の可能性があると思わされた。これまでのリソース自体にさまざまな開かれがあり、オリジナルのしがらみがなくなった、とも言える。以前までの物語、コンテンツは、もはや何度でも新鮮に楽しめる可能性があるがゆえに、現行のクリエイションにこだわる必要もないのかもしれないとさえ思えた。これまでも、これからも、それらは一言で済ませられるものではない。であればこそ、私自身の問題として、今後は積極的に現在のメンバーに「推し」を探して「箱推し」となるか、あるいは「箱推し」として一歩後退して追ってゆくのか、分岐に立たされている。今回のブログは、そういった「乃木坂」との関係を改めて見直すためにも書きはじめた。



毎日

 近年の乃木坂はメンバーの新陳代謝が進んでいる。初期体制(一期生と二期生)で培われたイメージとは異なる方向性を模索した三期生、先輩たちからの継承をゆるやかに引き受ける四期生、そんな新メンバーたちは、2019年ごろ──個人的には西野七瀬の卒コンから、一気に成長を実感させるようになった。冒頭で提示した乃木坂の歴史区分で言えば、第二期あたりのライブは「卒業」の感傷的なスペクタクル色が強かったが、第三期以降ではライブでの後輩メンバーたちの活躍が目覚ましく、ライブ自体が過去ではなく未来を強く意識していることが感じられるようになっていった。今回の生田の卒コンも含めて、最近では久保史緒里が、特にそういった「これから」を感じさせるパフォーマンスを披露しているように思う。
 卒コンで生田が期生曲『三番目の風』に参加したパートでは、間奏で三期生の一人ひとりと順に掛け合いをしたのだが、そこでトリを務めたのが久保である。この場面に象徴されるように、二人はよく比較されたりタッグを組まれることが多かった。卒コンの直前に放送されたMTVのライブでは、樋口・賀喜・遠藤とともに生田のステージに登壇し、『サヨナラの意味』をデュエットで披露した。久保は、メモリアルブックのインタビューでは、乃木坂に師弟制度のようなものがあり、生田をロールモデルとしていると答えており、実質的に後継ポジションに位置していると言えよう。

 久保は以前に番組内で、CDTVで披露された『何空』を見て乃木坂にハマり、楽曲のセンター・生田とスタジオライブで代任した井上、二人が加入のきっかけだったことを明かしている。事実、久保は生田、井上の双方と仲が良く、歌と演技でも同期の中では頭一つ抜け出た存在だ。三期生デビュー当初に公演されたグループ定番の、第一幕のオーディションで第二幕の配役が決められる『3人のプリンシパル』(2017)では、山下美月とともにメインに最多選出され、圧倒的な存在感を放っていた*12。三期生としての活動の初期には、山下とのライバル関係とともに、すぐに「ごめんなさい」と繰り返す気弱な性格をフォーカスされ、「謝罪ちゃん」というあだ名もつけられていた。こういった一面は、現在でも共演者や卒業メンバーに対してブログ等で長文のメッセージを送る律義さとして残っている。その後、2018年に生配信された第3回「乃木坂46時間TV」での個人企画をきっかけに、「乃木坂オタク」としてのキャラも定着していった。以上のように、ステージ上での凛としたパフォーマンスとステージ外での気弱でオタクなキャラという二面性のギャップが、彼女の魅力として挙げられる。

 私自身は、生田や井上との親和性もあって、2018年ごろに久保史緒里を推せるかを迷っていた時期がある。その時は結局、突き抜けたものを受け取れないまま関心が逸れてゆき、当時のグループへのモチベを確保するために、箱推しを先鋭化する方向へと活路を見出していった。しかしながら、パフォーマンスといった点では、2018年以降に久保は目覚ましい飛躍を遂げている。
 2018年末の武蔵野の森総合スポーツプラザで開かれた「アンダーライブ 関東シリーズ」では、もともとの安定した歌声に加えて、フェイクやハモリを用いた圧倒的な歌唱表現を見せた。加入当初から注目されてきた「演技」の面では、『三人姉妹』(2018)『ミュージカル セーラームーン』(2019)『クロシンリ』(2021)、あるいは27th個人PV『春、ふたり』、直近の初主演舞台『夜は短し、歩けよ乙女』、といった具合にジャンルレスに様々な幅の表現に取り組み、それぞれの作劇のタッチを引き受けられる強度を示している。グループの活動としては、期生曲『毎日がBrand new day』(2020)でセンターを務め、グラビアなどでも多分に垣間見せているフォトジェニックさが、楽曲の物語性と相乗効果で魅力を引き立てていた。

 最近のインタビューで久保は、加入当初は同期との様々な価値観の違いを受け入れられず、最初の一年は「乃木坂46が好き」ということでしかその場にとどまれない自分に悩んでいたと明かした*13。けれど、グループ内での交流を重ね、他者を受け入れられるような内面的な変化が訪れたという。だからこそ、五期生募集のCMの中で彼女は、多様な価値観を知ったことで「わたしは、わたしでいいんだ」と言えるようになったのだろう。同インタビューでは最後に、「センターを諦めていない」ことが語られる。その理由を久保は、「心配をかけた先輩方に、一番わかりやすい形で「変わりました」と伝えられるのがセンターだとしたら、そこが目指したい場所だと思うようになったんです」と答えた。気弱であった彼女が、自己肯定を経て口にしたのは、他者のことである。それは、「人たらし」とも言われる、なんとも久保らしい言葉だと思う。

 また、生田のメモリアルブックのインタビューでは、生田の歌を乃木坂に稀な「陽」と位置付けたうえで、自分は「陰」の歌を極めようと思ったと語っている。MTVでのデュエットは、その目標が一つ結実したかたちでもあった。生田は、ユニゾンを基調とした乃木坂の「声」を長らく牽引してきた。彼女の声は、単に高音域が出る、あるいは張りや太さがある、だけではない。しなやかで、かつ時間を経て情感のある表現へと変化していった。生田の卒業は、そういった意味でも今後の乃木坂の楽曲の印象を大きく変えてゆくことになるだろう。であればこそ、生田とは異なる「声」と「歌」によってセンターを目指す久保の、まだ見ぬかたちの新しい「乃木坂らしさ」を見てみたいと思う。

 

 

*1:披露される楽曲は『きっかけ』。以下も参照→乃木坂の紅白歌唱曲はなぜ「きっかけ」? 大切な節目の楽曲で締めくく|https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202112230000018_m.html?mode=all

*2:グループの来歴などはwikipediaに詳しい記述がある。|https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%9D%8246

*3:週刊プレイボーイ」2013年3月25日号

*4:乃木坂46君の名は希望」が乃木坂駅発車メロディーに 生田絵梨花「“乃木坂”駅を一緒に作れた」|https://www.google.co.jp/amp/s/realsound.jp/2016/01/post-6033.html/amp

*5:<ライブレポート>乃木坂46生田絵梨花、聖夜の【MTV Unplugged】で見せたシンガーとしての可能性|https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/59072/2

*6:【元乃木坂46生駒里奈 “私の 君の名は希望は。 生田絵梨花”|http://nogiradi.com/archives/31473126.html

*7:池田一真Twitterでの一連のポスト|https://mobile.twitter.com/search?src=typed_query&q=from%3A%40kazuma__ikeda%20%23%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%9D%8246%20%23%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AETightHug

*8:メンバーたちの輝きの裏の素顔に迫った『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』 - 生田絵梨花https://deview.co.jp/X_topinterview_150708

*9:余談だが、生田が大人計画『キレイ』への出演が決まった際、長年、同劇団の舞台への憧れを語っていた井上は複雑な心境を吐露した。ポジションも遠く、表立って仲が良かったわけでもなく、決して単純な関係ではなかった二人。だからこそ、『咄嗟』が選ばれたことに、個人的な感傷を覚える。

*10:生田は以前にプライベートでロンドンを訪れた際、撮影で同じタイミングに同地を訪れた飛鳥と『レ・ミゼラブル』観劇中に出会ったことをブログで明かした。また、SHOWROOMでも何度か互いに言及し、それを汲んでか二人での配信も企画された。公の場での対談などは、「乃木坂46新聞 2020秋新章突入号」くらいしか目にしたことがない。

*11:卒コンのVTRで、「一期生メンバーを一言で表すなら?」と問われた際、生田は飛鳥を「初恋」と答えた。後日、SHOWROOMの配信で、好きだけれど距離のある接し方になるためと意図を明かした。

*12:乃木坂46 久保史緒里と山下美月が考える3期生の現在地 「フレッシュさ以外の武器を持ちたい」|https://realsound.jp/2017/07/post-88000.html

*13:EX大衆」2021年10月号