being here with me 02
記事容量の都合、「3DLIVE」の項目のみ分割している。前後のトピックについては前記事を参照。
身振り
ホロライブの3DLIVEに興味を持つ直接のきっかけとなったのは、『VTuberの哲学』を読んで、そこに挙げられている固有名を検索している中で目にした宝鐘マリンの「Unison」の切り抜き動画だった。中毒性のある楽曲自体がトラックメーカーのYunomiも含めて好みだったことも大きかったが*1、それ以上に3Dモデルのモーションの質の高さにまずは驚かされた。ここで感じられた3Dの動きの「良さ」は、単にデザインや演出のリッチさに帰するものではなかった。どういうことか?
たとえば昨今では、『学園アイドルマスター』のようなスマホゲームをはじめとして、バーチャルタレントのライブに限らず3Dアニメーションを活かした様々なアイドルライブがみられる。ここではキャプチャされた演者のパフォーマンスデータとカメラアイが独立していることで、照明やアングルの設定がかなり自由に設定可能である。カメラアイは現実のドローンやクレーン、撮影者の動きに依存しているわけではないため、極めて豊富なアングルや演者への追従ルートをたどり、曲の展開に合わせて演者のアピールポーズに完璧に同期したカットが生み出されている。ここに見られるのは理想的なライブステージに向けて細部に至るまで調整された、現実には実現が困難な演出であろう。VTuberの3DLIVEもまた、衣装やステージの即時の切り替え、オブジェクトのスケールや動きの操作、また、すべての映像がリアルタイムではないこともあって様々な演出が加えられた表現がみられもする。だが、「Unison」のライブ映像では、そのようなカメラワークやステージ演出としての、現実離れしたリッチさや豊かさは一見して存在しないと思える。
「Unison」のパフォーマンスにおいて、メインカメラはダンサーを正面から捉えており、カメラワークもあくまで限定的な範囲の中でなされる。振付もまたステージをとりわけ広く使うようなものではない。独立した可動域の与えられた装飾的な衣装や、ヘッドセットを採用することで得られる上半身の自由さ、これらが活かされた手振りによるスピーディな表現などがなされているわけでもない。だが、宝鐘マリンが音を取るために小刻みにステップを踏んで拍を刻む様子や、サビにおいて振り付けのフレーズごとに小さく身体をかしげるような細かな動きの表情づけ(振付の範疇でありながらもダンサー自身の演出として確信できるもの)、Cメロで振付が音との対応関係から離れてやや抽象的に展開されてゆく際の間の取り方など、踊りのなかで細かなダンサーの肉体に依存した限りでのクセが現れている状況は、カメラアングル・カット割・描画が厳密にコントロールされた多くのアニメ・ゲームキャラクターのダンスとは異なる意味での(観ている側の身体感覚・身体的共感を惹起するような)説得力があった。これらは「ダンス」「パフォーマンス」として明示的に伝えられる身体の見えとは異なる、無意識的な「身振り」の領域に属するものによってもたらされているとも思える。
■Unison/宝鐘マリン
VTuberのダンスと生身のダンスを並べて比較すると、VTuberの動きは現実の肉体に比べて極めて軽やかに映る。これは、身体表面の揺れ動きや、内的な波打ちといった、身体上の震えが反映されづらいことに起因しているように思う。現実(の身体)はレンダリングされた3Dモデルよりも圧倒的に情報量=ノイズが多い。VTuberのダンスの軽やかさは、キャプチャから映像の投影に至るまでの工程で物理身体上のノイズが剥がれ落ち、フォルムからフォルムへの推移が動作スピードによる緩急の表現へと純化されつつあるからではないか。現実のダンサーの身体を見るとき、服や肉体の表面が常に細かく震動し、その震えは微細でありながら止まることなく重力の向きを示唆し続ける。ここにおいてダンスは常に身体が引き受ける「重さ」に対する解釈であり続ける。3Dモデルのダンスに感じられる「軽さ」は、物理現実のダンスに存在するような暗示的な重さの緩急が不在であるがゆえに、動作スピードの異なるシェイプの差異へと表現が先鋭化されることに由来すると思える*2。
VTuberはしばしば3Dモデル上の不具合、髪の毛や大振りな衣装の一部が貫通する、リップシンクがずれる、オブジェクトを掴めないといった、キャプチャしきれない動きや制御の効かない挙動が前景化した際に、放送事故であるよりは「生」ゆえのトラブルとして肯定的に受け取られることがある。これは、リアルタイム配信と両立可能な範囲に抑制された物理演算量と、現実の情報量との落差のうちに、なによりも現実のドキュメンタリー性を強く感じ取るような態度であろう。当然ながら、こうした情報の拾いきれなさは、表面上の出来事だけではなく、根本的な動作そのものにもつきまとう問題でもある。
@nogizaka46_official #Idios_1stLIVE にちょこっと出演させて頂きました✨ にじさんじの五十嵐梨花さんと一緒に「君と猫」踊ってみたよ🐈 #五十嵐梨花 #にじさんじ #田村真佑 #乃木坂46 ♬ 君と猫 - 乃木坂46
3Dモデルの身体はその動きを直線的な軸と関節によって表現している。スケルトン(ボーン、骨)は可動域を設定され、メッシュ(肉)との連動が設定されている。ゆえに、当然ながらそこでは物理身体の動きそのもののフィードバックが十全になされるわけではない。基本的にはボーンを主としてひとつひとつの動作は表現されるので、関節を起点として直線的に描かれるようなシェイプの作り方は相性が良く、身体全体のシルエットの移り変わりがスムーズに受け取られやすい。一方で、身体全体をウェーブさせるような、骨を回転させながら筋肉の弛緩によって表面を波打たせるような動作などは、ややぎこちないものと感じられることがある。筋肉の表現とは、内的なヒットとリリースを指す。たとえばアイソレーションのような動きや、しなりの効いた表現などは本来は不向きなものであり、それゆえに振付自体もポージングを映えさせるかたちのものが多く採用されている印象を受ける。
また、セルルック調のVTuberのモデルはそもそも素体と衣装オブジェクトが完全に独立したパーツとして分割されていないことも多い。2Dで特に「揺れもの」と称されるようなシルエットのキーポイントや髪、服の末端部などは3Dでも独立しているが、内部レイヤーの服や靴下、細かな装飾箇所は素体部分と共に造形されているように見えることもしばしばある。また独立した衣装オブジェクトは、必ずしも素材の重さや形状によって生じる個別の質感をシミュレートしているわけではない。少なくとも服や髪の表現はある程度一元化されている印象を受ける。
ここまで、3Dモデルによるダンスについてやや否定的に見てきた。デフォルメされた身体は重さに対する身体の関係や筋肉の弛緩による内的表現が可視化されづらい、とまずは言えるだろう。そんな中でも、VTuberの身体表現を個別のものとして受け取り、時に好ましいと思うのは、観ている私による「身体の見立て」という行為に還元され切る事象でもないはずだ。「Unison」のパフォーマンスが出色であったのは、具体的な「振り」によって身体的な緩急やグルーヴが表現されているわけではなく、細かな所作や末端へ至るまでの動作の一連のプロセスの細部へと目線を焦点化する作りになっていたことによる。普段は無意識的にしか捉えることがなく、動きと動きのはざまにあるような分節化されえない「身振り」は、デフォルメされた身体においても残り続ける。
そもそもダンスの魅力は音の進行に合わせた決めポーズの連続ではなく、観ている際に、肉体的な触発を受けさせることにあると思う。少なくとも私にとって好ましく映るダンスは、身体を動かすこと、未知の可動域を探るようにした探究のプロセスに立ち会うような、一人遊びの延長にあるものである。派手なアクロバットや大仰な身振りといった分かりやすい視覚的な刺激や、そういった部分をサビとして全体を構築するようなポップス的な詩学=ナラティブを追従するようなダンスは、楽しさはあっても、必ずしもそれがダンサーそのものの肉体に対する快と結びつくわけではない。そこでは、ダンサーのビートアプローチや、リズムをどのように定着させるか、そういった個々人の実践を通して伝えられる「グルーヴ」に楽しさを感じる。グルーヴとは、音と身体が互いに規定しあい、場に存する諸要素(身体や空間)それぞれ同士の「あいだ」が迫り出してくるような、「環境」を生起させるようなものだろう。「Unison」とその身振りに見られるのは、微視的なかたちで立ち現れるグルーヴとも言えるかもしれない。現実の肉体からノイズが捨象されても、なお身体動作につきまとうある種の過剰さがここでは映し出されている。
一般的に「ダンス」「踊り」とは、典型的な演劇のように役の下地をなす身体をひとつのメディアとして扱う表現ではなく、むしろ、観ている側が身体そのものを眼差すような表現である。このとき、たとえばロマンチックバレエがその上昇性によって非日常的な世界を志向したり、ストリートダンサーが身体のより自由で拡張的なあり方を示す際にも、私たちが所与のものとしてそこに住まう「身体」が、なにがしかの制限や境界を設けるものであるという前提があると思える。すなわち、ダンスは身体が限界づけられたものであることをその場にしるしづけることからはじまる表現である。VTuberが踊ることが興味深いのはまた、そのようなバーチャルな空間や「3DCGがある」という、踊りの生起する世界の条件を暗示し続けることにある。そして、ダンスがその卓越性や物語性、ダンサーのキャラクター性を示す中で、それらに還元されきることのない「身振り」の次元は、かような身体の存する条件を特に前景化するだろう。
3DLIVEを検討するに当たって、本項で便宜的に「身振り」という区分を導入した。これは、特定の種類の動作や身体運用の流れを指すものではなく、むしろ意図的な動きの隙間に見え隠れするものだ。それを踏まえて、以下ではいくつかのパフォーマンスを列挙する。これらの表現は(塩梅に差こそあれ)いずれも明確に振り付けられているが、振りとしての動作の余長が見えやすい。注意したいのは、振付ではなかったり、日常動作が見えたときに、それが即、個人のあり方や身体運用の過剰さを示す、そう言いたいのではない*3。「身振り」はそれとして演出される領域ではないだろう。ここでいう「身振り」は極めて具体的に指摘しづらいため、以下では、歌唱パフォーマンスや声、身体所作のアドリブといった、振付が控えめなパフォーマンスの中でごく主観的な好みが感じられた例を取り上げる。
■怪物/天音かなた with 不知火フレア&宝鐘マリン
数あるホロライブの3DLIVEの中でも、このパフォーマンスは理由なく何度も見た。まずもってパフォーマンス上の魅了は三人のハモリである。天音かなたは息の量が多く情感に幅を持たせた歌い方が特徴的だ。宝鐘マリンは響きが豊かでマイク乗りのよい歌声が耳に残りやすい。そして、不知火フレアはクセがなく安定感のある歌声で、楽曲全体の進行を制御している。前者二人に比してやや後景に位置する一方で、不知火フレアの歌声がもたらす一定の張りを起点として、二人の歌声の展開がより豊かなものと感じられる。総じて、天音かなたと宝鐘マリンはかなり歌声にクセがあるが、不知火フレアの歌声が全体を下支えするかたちで楽曲をまとめ上げている印象を受ける。
このパフォーマンスにおいて、歌割りに沿ったフォーメンーションの入れ替えはあるが、基本的に振付らしきものがあるのはサビ終わりなど限られたタイミングのみである。ハモリの響きの心地よさに加えて、私はこの控えめなダンスを好ましく思う。曲のイメージやボーカルの感情を表現するような、世界観に寄与する身体の振る舞い以上に、2番のAメロでカメラから見て右方向へ少しだけ歩くような何気ない動作が不思議と印象深い。高音域の歌であることからも、激しいダンスよりも歌──というよりも発声そのものに追従するかたちで自然と現れる所作をメインに構成していることがうかがえる*4。
■ray/0期生
■ゆずれない願い/角巻わため with 宝鐘マリン&白上フブキ
■クロノスタシス/沙花叉クロヱ
このパフォーマンスをはじめて見て驚かされたのは、沙花叉クロヱの歌声が、きのこ帝国や羊文学といったシューゲイザーテイストの女性バンドボーカルと非常に親和性があるという点だった。ギターサウンドの鳴りに対して、透明感のある歌声でありながら、どこか気怠さを感じさせる息づかいや間の取り方が、全体としてメランコリーな情感をかき立てる。曲の展開に合わせて、VJで流れている映像が徐々に駆け足になってゆくのもどこか切実な感じがある。当のパフォーマンスにおいて沙花叉クロヱはその立ち位置を全く変えておらず、ダンスと呼べるようなテクニカルな身体性が前景化する瞬間も存在しない。だが、足でビートを刻むようなせわしない動きとも異なるゆらゆらと左右にわずかに揺れ動くさまは、ローテンポな楽曲のテイストと合わせて、身体の呼気のようなリズムを伝えてくれる。余談だが、私が沙花叉クロヱの存在を知った当時、彼女は箱企画にも参加しておらず、卒業もまもなくして発表された。リアルタイムでその活動をほぼ目にすることのなかった彼女の過去のパフォーマンスは、楽曲の雰囲気とノイズの走る演出もあってか、どの時間に属することもなく歌い届けられているような情動的な訴えがあった。
■夢ができたの/鷹嶺ルイ
■ninelie/七詩ムメイ
■YELLOW/常闇トワ
アイドルダンス
ホロライブは一般に「アイドル」というイメージで語られることが多い。そんな中で特に卓越した存在と思えるのがENの小鳥遊キアラである。彼女は日本のアイドル、なかでもハロー!プロジェクト(以下、ハロプロ)のファンを公言しており、3DLIVEでもその楽曲をたびたび披露している。2025年には生誕LIVEとは別にハロプロ楽曲に絞ってセットリストを組んだカバーライブも実施した。小鳥遊キアラのハロプロ・パフォーマンスの良さは、「VTuberが現実のアイドルのダンスを踊ってみた」といったかたちでアイドルダンスそのものが相対化される場として設えられながら、自身の魅力と身体的強度を遺憾無くアピールしている点にある。腰回りをはじめとした起点となる身体の各関節の可動域が極めて広く、チャーミングで可愛らしい女性性を表現するようなアイドル振りの中にも、グルーヴの途切れることのない力動的なノリが常に存在している。また、一般にメロディアスで伸びやかに歌い上げるパートのある曲は、身体的な快をシンプルに伝えるものだが、小鳥遊キアラの選曲とパフォーマンスには、そのような分かりやすい高音はほとんどみられない。だが、彼女の声質と多少鼻にかかったようなあざとくて甘ったるい歌声は、ハロプロの演出する職能的なアイドル性を強く感じさせるものだ。
■Love take it all/小鳥遊キアラ*5
ホロライブは「アイドル」というフレームをかなり重視している。これはグループの音楽展開を牽引する星街すいせいにもみられる特徴だ。「スキルメン」と称されるメンバーを見ていると、そこにはある種の「アイドル」を越え出るようなパフォーマンスの強さ、すなわちジャンル越境的な快が見出されるのだが、小鳥遊キアラの3DLIVEは愚直に「アイドル」というジャンルを先鋭化させてゆくことへの執着が感じられ、きわめて自己充足的であり、その点が他にはない彼女の圧倒的な魅力を際立たせている。例えば2025年の生誕3DLIVEでは、各楽曲のアウトロ後に「エンディング妖精」と呼ばれる長尺のフォーカスカメラへ向けてアピールする演出が取り入れられている。これはK-POPに由来し、昨今の日本のアイドルのライブや音楽番組でもみられる。
■レディマーメイド/小鳥遊キアラ with MINT*6
■友達は友達なんだ!/小鳥遊キアラ with 大空スバル
ハロプロがそもそもブラックミュージックのグルーヴィなノリ方=絶え間なくうねるようなあり方を意識していた部分があるため、それに倣う小鳥遊キアラのダンスが、散逸的な振りコピやポーズの連続といったダンスの断片化を回避しているとも考えられる。だが彼女の場合はまた、自身がオタクと公言するハロプロの踊りを真似るという出発点が明確な点も興味深い。というのも、私個人にとって、先述のとおりダンスとはあくまで一人遊びの延長にあるものであるからだ。ミュージカルや演劇における身体表現は表情も含めて特定の意味の体系を媒介するものとして身体を提示する。しかし、いわゆる「ダンス」としての表現は特定の意味や目的ではなく、より自己充足的なものとしての身体を動かす快へと向けられたものであるだろう。小鳥遊キアラのダンスはその意味において、ショーダンスであるよりも、単に憧れのアイドルの動きをまねぶ時のような没我的な行為に近しい。ゆえにこそ、それはショーダンス、ポップダンスとして観客や聴衆への媚態を含む「アイドルダンス」「アイドル振り」でありながら、同時に、「ダンス」一般において見られる自己充足的な側面が強く感じられると思える。
■FEVER NIGHT/小鳥遊キアラ
余談だが、熱心なハロオタとしても知られる天音かなたは小鳥遊キアラとのコラボ配信で自身のオタク歴について詳細に語っており、後に宮本佳林や山崎あおいとの対談が実現、オリジナル楽曲「純粋心」ではつんくが作詞・作曲を手掛けるまでに至った。ホロライブのメンバーを問わない直接的な交流という点では、後藤真希によるぶいごまのゲスト出演やコラボ配信、鈴木愛理による「ビビデバ」のパフォーマンスへの参加などが挙げられる。ホロライブでは上記二人以外にも兎田ぺこらをはじめとしてハロプロ好きのメンバーは複数名おり、個別の事例としては歌枠や歌ってみたのほか、「サマーナイトタウン」「ザ⭐︎ピ〜ス!」「The 美学」「ロボキッス」「本気ボンバー!!」「悲しきヘヴン」「DISTANCE」「七転び八起き」「盛れ!ミ・アモーレ」などのパフォーマンスが挙げられる。
■Danceでバコーン!/戌神ころね with 兎田ぺこら&天音かなた
アイドルダンスといった観点から小鳥遊キアラと比較したいのは百鬼あやめの「ビビビ」である。一見してわかるように、いわゆる「可愛い」ダンスだろう。3DLIVEでもDECO*27やナユタン星人が描くミドルティーンをテーマに据えたラブソングポップスとの相性の良さがうかがえる。カメラは正面に据えられ、当人はカメラ目線を多用する。これはキメ顔ではなく、あざとさの表現であり、より親密な印象を観客にもたらす。
■ビビビ/百鬼あやめ
百鬼あやめのパフォーマンスにおいて、振付は特定のジャンルのルーチンやスキルムーブを誇示することはなく、観ている側がワンムーブを真似しやすいくらいにキャッチーなものが多く採用されている。思わず真似できると思わせるダンス的な動きは、逆に言えば私の日常的な身体と乖離していないということでもある。ジャンルやスタイル、細かな身体制御(体幹や軸のブレなさ、全体のシルエットイメージのコントロール)の卓越さというのは、ともすれば私の身体への可能性を引き出すこともあれば、距離の遠さや排他性を感じさせるかもしれない。前者の場合は身体的な想像力を喚起させ、後者の場合は美的な快であったり戸惑いを生じさせるだろう。対して親しみや可愛らしさとは、すなわち排他性のなさであり、共感や感情移入がしやすいものであるということだ。ゆえに、そこでは自然さや肩の力の抜けた緩さも求められる。つまり、身体的な緊張が前景化しないように抑え込むような、振りを正確になぞることとは逆向きの技術的卓越さが求められる。
アイドル振りにおける可愛らしい仕草やカメラへ向けたアピールは、あくまでステージングの身振りであり、自然な仕草ではない。しかし、技巧的な身体運用とは異なり、演者の人柄や内面の充実を感じさせるものだ。アイドル振りは、その意味でメディア上の見えについて極めて自己言及的な身体運用と言える。特定のキャラクターやポーズの伝達の成功を目指すアイドルダンスは他者からの目線に晒された身体の完成を目指す。内的な動機による身体の現れではなく、外的な動機による身体の現れ。魅惑する媚態をとることとは、他者への働きかけ=他者へ向けた想像力を積極的に駆使する他律的な行為でもあるだろう。
ここまで挙げた二人のアイドル的な可愛らしいダンス(抽象的な精神や具体的な肉体に問いを向けるものではない。表面的な見えのボリューム)は、緊張と緩和の対照的な例に思える。続く下記では、先の「身振り」の項と同じくアイドルダンスといった観点からいくつかのパフォーマンスを列挙する。
■神っぽいな/AZKi with 猫又おかゆ&兎田ぺこら
先の百鬼あやめにもみられる楽曲の歌詞に焦点を当てた振りを多く採用したダンスの構成は、ニコニコ動画の「踊り手」の志向性とも類似している。というのも、「〜みた」文化は多くの場合、元になる楽曲や作品の物語性・作家性に対して再現的なアプローチをとる。そのため、楽曲のグルーヴを肉体的かつ自律的に表現するというよりは、歌詞をマイム的になぞるような、コードの産出を表現の成功に含む印象をうける。本パフォーマンスは、楽曲に示されるコードやなんらかのキャラクター性を過剰に可視化するといった点で、「演劇的」という形容もあるいは可能かもしれない。
■ベイビーダンス/さくらみこ
■シンデレラ/さくらみこ with フワモコ
さくらみこは、その活動からしてハレとケ(さまざまなライブステージと日々の配信)のバランス感が安定しており、両者に大きなギャップが存在しない。かつ、それによって、自己完結したアイドル像が目指されていると感じられる。たとえばアイドルグループの乃木坂46は、現行のアイドルの中でも特にパフォーマンス外の番組や雑誌といったメディア展開を重視していたのだが、メディア上の人柄や内面的キャラクターの充実(それは機会の多さで大きく変動する)は、実際のライブステージでの見え方の多様さに寄与する。単にスキルフルかつメリハリのあるダンスによって表現される「バキバキ」「エネルギッシュ」と言われる緊張感のある表現によって生じるギャップのみではない。人見知りな人物がしなやかな体づかいを見せたり、ダンスが下手と言われていても誰よりもその場で溌剌と踊ることによって伝わってくる肉体の訴求力、そういった個々人の身体の差異に触れることを可能にする。
さくらみこに感じるのは、同様の意味で、ゲーム実況やハコ企画を通して培われた豊富なキャラクター性と拮抗しつつ調和したステージングである。ゆえに、そこにはホロライブのみせる総合的な意味での「アイドル」のひとつのスタンダードさがある。星街すいせいや宝鐘マリンのような特権的な身体(個別性の強い声音や広い音域)とは異なる、「メディアによって培われた身体」の多層的な見え方は、それ自体としての特殊な身体的強度を見せるわけではなくとも、その人物の歴史性や個別の奥行きを示しうるのではないか。
■刀ピークリスマスのテーマソング2022/椎名唯華 with 猫又おかゆ
■コズミック・フロート/沙花叉クロヱ with 博衣こより
■Watch Me/桃鈴ねね with 兎田ぺこら
■愛包ダンスホール/天音かなた&沙花叉クロヱ&AZKi
■かがみ/綺々羅々ヴィヴィ
職能的なアイドルダンスを高次元でパフォーマンスしているのが綺々羅々ヴィヴィである。チャーミングな身振りと正確かつ繊細な振りをスムーズに共存させる様子からは、ベースとなる身体の練度がうかがえる。動きの起点や経由となるポイントが身体に非常に多く存在し、可動域が広いというよりも可動地点が多い印象を受ける。そのうえで、観客が目線を置く位置が全身に均等に配分されている。本来、モーションキャプチャを前提とした動きはやや大げさになる傾向がある*7。これは、微細な動きや所作ではトラッキングしづらいことに起因する。綺々羅々ヴィヴィのパフォーマンスにおいて身体に多節的な見えが生じるのは、トラッキング技術の向上によって従来では捨象されやすかった身体全体の細やかな制御やせわしない気の払い方が可視化されたともとれる。
振りの各フレーズごとに細かく止めきる技術によって、フレーズごとのフォルムが流れず、一連の動きが細かく分節化されている。しかし、巧みなシルエットコントロールによって、分節化されてはいても離散的でなく、身体全体で小気味よくテンポが刻まれ、各関節の細かな動きやハードかつスピードの乗った振りでも極めて軽やかな見えに着地している。
正しい場所に正しい身体部位をキャリーする技術は、特定のジャンル的な見えを前景化しているわけではない。けれども、本パフォーマンスの繊細かつ丁寧な振り運びには、個々人の行う装飾的な身振りやニュアンスづけ、ごく個人的なクセがほとんどないため、全体を通してダンサーのもたらすイメージが最適なかたちで観客に伝えられる。相対的に見てダンサーの自我や自意識は極めて希薄──空虚ですらあるが、それによってステージ上でダンサーの見え方やパフォーマンス全体のコンセプトは当人の意図するままに出力されている印象を受ける。徹底的に空虚であるからこそ、各場面での所作が、観客へ向けたあるイメージ・あるナラティブ(それは漠然としてしか掴めない印象の総体でもある)の伝達と共有をつつがなく遂行する。ここにおいて、綺々羅々ヴィヴィのダンスは極めて主体的に演出された「メディアとしての身体」を実現していると言えるだろう。
ストリートダンス
多くの3DLIVEで披露される振付はいくつかのダンスステップのバリエーションをベースにしつつ、歌い上げ・ファンへのアピール・歌詞への宛て書きとしてマイム的に作られたジェスチャー寄りの振りを装飾的に展開し、サビで手振りメインのキャッチーなスタイルへと至るものである。いわゆるアイドルダンスのような、ノンジャンルかつポピュラー文化で培われた身体運用。そんな中で、ストリートダンス経験のある幾人かのメンバーは、異質な存在に映る。以下では、ホロライブのパフォーマンスを取り上げるにあたり、語彙の整理も兼ねてまずはストリートダンスの歴史と諸ジャンルの特徴について簡易的に確認する。なお、本項でのストリートダンスの歴史・技術的な記述は、トニー・ティー(七類誠一郎)『黒人リズム感の秘密』(1999年、郁朋社)を主に参照している。また、広く共有されているストリートダンスに関する体系的な記述や記譜法を確立した明示的なメソッドなどが見つかりづらく、一素人が扱うには資料が乏しかったため、知人のストリートダンス経験者からのアドバイスや、ネットで公開されている複数のスクールの動画・各種解説などを適宜参照している。加えて、ここではストリートダンスのヴァナキュラーな展開については念頭に置いていない。
現在、ショーケースという場において参照されるダンスの多くは、ストリートダンスと結びついている。1920年代アメリカにおいて、当時流行していたスウィング・ジャズに合わせて踊るスウィング・ダンスのうち、黒人ハーレムが主体となって生まれたリンディホップとチャールストン*8の二つが、ストリートダンスのルーツとしてしばしば名前が挙げられる*9。ストリートダンスの本格的な始まりは1970年代とされる。ダンサーのトニー・ティーは、1969年に生まれたファンクミュージック=16ビートの黒人音楽をその背景として指摘しており、現在ストリートダンスと呼ばれる諸ジャンルを「ファンクダンス」と総称している。
1960年代後半から1970年代にかけて、西海岸のいくつかの場所で、ロッキング、ワッキング、ポッピングといったダンスが生まれ 、東海岸では文化運動としてのヒップホップに伴われるかたちでブレイキングが生まれる。これらのストリートダンス(ファンクダンス)は、それ以前のトレンディダンスやステップとは異なり*10、基本的には一定程度の習熟を必要とするテクニカルな体系である。ストリートダンスはソウルや社交ダンスなどを下敷きとしつつ、特定の個人やクラブでみられた口癖や方言のような独自性を持った踊り方が、徐々に広まってゆきジャンル化してゆくという流れがあった。 1971年に放映開始した音楽ダンス番組のソウルトレインは、同時多発的に各地にあったローカルなダンスをユースカルチャーとして統合する役割を担うことになる。
現在、1970年代に生まれたストリートダンス・ジャンルはオールドスクールと呼ばれ、80年代後半から90年代初頭にかけて隆盛した音楽ジャンルのニュージャックスウィング以降が、オールドスクールとの対照でニュースクールと呼ばれる。ストリートダンスのルーツ的物語を重視する場合、70年代に生まれた諸ジャンルと、それらとの直接的な結びつきのあるヒップホップダンスがオールドスクールに属するだろう*11。一方で、音楽的な特徴に依拠して捉えるならば、ハウスなどに比してBPMの遅いニュージャックスウィングもオールドスクールに含めることが可能である。この点については論者や依拠する体系によって意見が分かれる点である*12。また日本ではニュージャックスウィングの隆盛している過渡期をミドルスクールと呼称する区分も用いられる。ミドルスクールのダンスは、ニュージャックスウィングや、オールドスクールの諸ジャンルが交差するかたちで踊られた、ダンスジャンルとしてのヒップホップなどがある(一般語彙としては、ブレイキングを代表例としつつストリートダンス全般を指してヒップホップダンスという言い方がされることもある)*13。
ニュースクールの特徴は、混交性・越境性に由来するジャンルレスさと、オールドスクールに比してテンポの速い楽曲を用いることによるスピード感の違いの二点が挙げられる。代表的なジャンルはステップムーブを中心としたハウスだが、スタイル(LAスタイルヒップホップ)やガールズヒップホップのようなサブジャンル・複合ジャンルも多い。オールドスクールはロッキングを除いて基本的には使用する楽曲のBPMが遅い。ゆえに、体幹運動を基軸とした全身を使った音へのコネクションが絶え間なく可能である。一方でニュースクールの用いる速いビートは体幹を使って踊ることが困難であり、末端部位の手足を主体としなければビートを刻めない。トニー・ティーはファンクダンスの系譜から見たニュースクールに対してはやや否定的な態度を示している。手足だけで踊ろうとするとビートとビートの間を持て余し、断続的なリズムになってしまうと指摘しており、ニュースクールの諸ジャンルにおけるグールヴ表現に懐疑的である。
ニュースクール以降といった点では(ストリート)ジャズの存在も挙げられるだろう。そもそもジャズダンスは1930年代までは黒人ダンスの主流に位置付けられていたが、1940年頃からジャズダンスをメインにしたミュージカルの映画化や舞台化が始まり、ブロードウェイを中心にタップダンスやバレエのメソッドが取り入れられたことでシアタージャズと呼ばれるようになる。黎明期に重要な役割を担った人物として、『紳士は金髪がお好き』の振付で知られるジャック・コールの名前が挙げられる。ストリートダンスとしてのジャズは、バレエという白人ダンスの体系と黒人ダンスの文化が商業的な基盤で交差した時期に生まれ、ターンやジャンプといったテクニックと流動的な身体運用を基礎とするシアタージャズがルーツと言える*14。
舞台表現へとすすんだジャズはその後、ファンクスタイルのいわゆるストリートダンスやヒップホップの本格的な流行によってクラブシーンの中心ジャンルとして言及されることは少なくなるが、1990年代前後のポーラ・アブドゥルやジャネット・ジャクソンのような、ファンキースタイルなジャズダンスの登場によってストリートダンスの文脈からふたたび注目されるようになる。ジャズが特殊であるのは、ストリートダンスの中で黒人ダンスとは異なる、バレエとブロードウェイのような白人ダンスと商業ダンスの系譜に位置していることにある。トニー・ティーは、ジャズにとってはファンクの「リズム」が難関であり、ファンクにとってはジャズの「ボディライン」が難関であると指摘している。
ここまで、ストリートダンスの歴史について概観してきた。ストリートダンスと呼ばれるものの源流は1970年代アメリカで生まれ、今日に至るまで複数のジャンルに細分化・複合化しつつ発展してきたものである。ストリートダンスは諸ジャンルごとの変化を常に含むものであるが、バトルやサイファーに見られるような、プレイヤーとオーディエンスのフィードバック環境下での即興的な創造性を重視する点は一貫して存在する。即興性を重視するとは、さまざまな語彙が常に続く動きへと生成的に結びついてゆくような「次の動きへの身構え」を含むということでもある。ゆえに、ストリートダンサーたちには、動くことへの強迫観念=動き続けなければならないという意識が感じられる。
対照的に、アイドルがストリートダンスのスキルを取り入れるとき、即興でないという事情もあり、本来あるべき生成的な身構えまで落とし込むことがしばしば困難である*15。そこで避けるべきは、振付とダンサーの間にあるギャップを露見させないことである。なぜなら、振りの特定のフレーズやルーチンがグルーヴ感を欠いて過度に主張するとき、そこではダンサーの身体以上に「振付」が前景化し、身体は振付という抽象構造の後景に追いやられてしまうからだ*16。
さて、以上を踏まえたうえでホロライブの3DLIVEへと話題を戻そう。ストリートダンスに関して、デバイスの轟はじめはジャズからはじめて、ヒール系、ガールズヒップホップの経験を語っている*17。ヒール系とはハウスにおけるヒールステップやジャズの近接ジャンルであるバーレスクを指すと思われる。ジャズやバーレスクは、身体のテンションとシルエットを一定に保ち、スピードの乗った手振りに見られるような、情感的かつリズミカルな表現へと結びつける動きが多く見受けられる。他のジャンルに比して演劇的であるとも特徴づけられるだろう。ジャズがボディラインのコントロールを求めるジャンルであり、ガールズヒップホップがジャンル越境的な側面が多分にあることを鑑みれば、轟はじめは極めてニュースクール的な感性をベースとしていることがうかがえる。上体の垂直のラインがストレートでキープされていることからも、重心の位置は比較的高めにとっており、末端部のアイソレーションや足技の緩急が見えやすいのもジャズ的な要素に感じられる。
■BANDAGE/轟はじめ
一方で、幼少期からダンスを習っていたというハコス・ベールズは、轟はじめと対照的に映る。重量感のあるステップ表現を軸にして足裏で床面を掴んで浮き上がるような身体運用には、ニュースクール以前のヒップホップ寄りのニュアンスも感じられる。彼女の3DLIVEへ向けたダンスレッスン動画では、前半部が個人の振り入れ、後半部が轟はじめと二人で振り作りが行われる。その様子から胸部を起点として下方向にウェーブさせる動き(ワーム)のような、バウンス=身体全体の上下方向の緩急の表現は得意としていることがうかがえる。一方で、前半部でロッキングをメインにしたパート練習を行う際に、本人はかなり慣れない様子を見せる。末端までのラインを意識した静止動作は一つ一つの振りがやや流れる傾向があり、彼女の身体語彙にはそのルーツがあまりないように思えた。後半部で轟はじめと並んで踊ると、重心を低めに取り、タメの効いた比較的重めの踏み出しを行う様子がうかがえる。
■PLAY DICE/ハコス・ベールズ
先の轟はじめのガールズヒップホップは、ニュースクールに属しており、オールドスクールに比して重心が高くとられ、後続の振りに対してやや前のめりにアプローチする。そのため、身体の動きの緩急に対してシルエットは一定のポジションを維持し、滑らかかつスムースな表現が特徴的である。轟はじめのダンスは身体のラインは極めて垂直的な見えを維持することで、手足のような末端部の動きや曲線的でしなやかな動きのニュアンスづけが映えるような見え方がある。総じて、シルエットコントロールの巧みさが印象的である。対照的に、ハコス・ベールズは身体が軸の部分から常に多方向に波打つようなうねりがあり、むしろ腕を振り下ろすような末端部の直線的な動きがダイナミックに感じられる。轟はじめがヒット(緊張)の動きをベースとしているのに対し、ハコス・ベールズはリリース(弛緩)の動きを基盤としている。現代の状況において、後者のストリートダンスがニュースクールでないとまで言い切ることは難しいが、轟はじめと比較したときに、オールドスクール寄りの質感があることは確かだろう。
■バレる!/轟はじめ with ハコス・ベールズ
ヒップホップダンスの経験を語る水宮枢は*18、一見して明らかなとおり、上記二人に比べても音の乗り方が非常に重い。精度が高いながら抜け感のある小慣れた手振りと対照的に、下半身に比重の置かれた表現からは、視覚的な見栄えの良さに加えて観ている側の身体感覚へ訴求する説得力が感じられる。深く沈み込むバウンス、下からせり出すようなヒットの打ち方、微細なツイストの加えられた軽やかな足さばき......一般に期待されがちなアクロバットやアイドルらしいキャッチーな振りはまったくと言っていいほど採用されていないが、王道のヒップホップダンスに従った堅実な動きの積み重ねの中にグルーヴの絶えない厚みがある。特に卓越しているのはビートアプローチであり、ポイントではなく幅をもたせた音の取り方によって、ワンフレーズ内で生じる跳ね感が重々しいステップに独特の浮遊感(軽/重のあいだで宙吊りとなるような質感)を与えている。総じて、場の音とリズムに対して自身のリズムを対置させつつコネクションしてゆくさまが見てとれる。
■Sarracenia/水宮枢
本稿ではここまで、身振りやアイドルダンスといったかたちで、体系的なダンスとは異なるかたちで、身体的に個性が演出される事例を取り上げてきた。少なくともホロライブにおいて、ストリートダンスの質感が前景化することは少ない。だが、デバイスやにじさんじのVOLTACTIONなどを鑑みるに、よりスキルフルなダンスへの展開も充分に予見されるだろう。以下では、前述のメンバーのような明示的なストリートダンスに限らない、振りの一部やノリ方にジャンルダンスの志向性が感じられたものなどを挙げたい。
■今夜はから騒ぎ/ベスティア・ゼータ
■Break It Down/ベスティア・ゼータ
■ダリア〜Upboomboom/響咲リオナ
響咲リオナは曲間のMCやボーカルパート外での煽りを含めた全体のステージングが非常に洗練されている。また、指先の一本に至るまでの細部の表現や、レイヤー感のある衣装など、トラッキング技術の発展によって可能になった3Dモデルの動きの豊かさが存分に活かされている点も興味深い。
「ダリア」では、ジャズをベースとしてアラベスクやターンなどバレエ由来の語彙がフックとなるよう配置されている。特に印象的なのが「しなり」の表現である。ジャズがストリートダンスに持ち込んだ局所的なしなやかさは、身体上で行われるさまざまなウェーブ表現からヒットストップに至るまでのワンムーブを粒立てる効果がある。たとえばロッキングにおける手振りが直線的なシルエットキープを前提として成立しているのに対し、ジャズはそこに揺らぎを生じさせるため、手振りの解釈が異なる。ロッキングは各部の筋肉のリリースから、身体全体によるヒットストップを用いることで身体の震えがシルエット全体に波及しつつ収斂してゆく痙攣的な見えがある。一方で、ジャズの場合は直線的な所作に意図的な柔らかさを演出しているため、末端部にウェイトを置いたヒットストップの際の目線誘導効果がとても強い。オールドスクールのロッキングはあくまでダンサー個人の享楽的な身体運用であるが、ジャズは観客からの見えに対する意識とそれによるアピールの美的な達成が極めて明示的である。
続く「Upboomboom」ではワッキングとガールズヒップホップを中心に構成し、とりわけジェンダー性が前に出やすい振りを積極的に採用している。上昇性・回転・演劇性に基づく振り運びがみられるジャズに対して、ワッキングはその正面性が特徴である。ジャズとは異なり上半身のポジションキープと脱力しきった素早い手振りのギャップが魅力的である。ワッキングはまたオールドスクールの中でも末端部を弾くような「しなり」を前景化したジャンルではあるが、背骨が波打つようなうねり・ひねりが常にみられる。本パフォーマンスでは下半身の表現からフロアムーブにかけての振りには観客をチャームする身体各部へフォーカスした動きが多く用いられ、総じて受動的な鑑賞が促進される。
■Next Color Planet/星街すいせい
■ビビデバ/星街すいせい
■シュガーラッシュ/星街すいせい&さくらみこ
星街すいせいはスタンドポジションを維持した状態での手振りが映える。音へのアプローチはかなり前のめりなので、振り終わりの腕から手先にかけての末端部の緩急が映えやすい(これは広くENメンバーとJPメンバーのセッションでも感じられるのだが、音を取る際にENはかなり後ろ寄りで取るのに対してJPは前寄りで取る傾向が見られる)。ヴォーギングやワッキングのような滑らかかつスピード感のあるジャンルとの相性の良さがうかがえた。自分を美しく見せることにためらないがないさまが見てとれ、野心家で自らのステージングに明確なビジョンを持つ本人の気質が感じられる。
■NIGHT DANCERS/こぼかなえる
■HELP/こぼかなえる&ハコス・ベールズ&尾丸ポルカ
■BANG/音乃瀬奏 with こぼかなえる
ホロライブの3DLIVEをいくつか見始めたときに驚かされたのは、ENとIDの海外勢のパフォーマンスの説得力の強さである。全体的にビートアプローチやグルーヴ感のある表現の練度やそこからくる自然さがきわめて高精度に思える。IDのこぼかなえるはストリートダンス経験者や他のダンスメン(大空スバル、戌神ころねなど)のように表立って言及されることは多くないが、ダンスのクオリティもきわめて高い。ハードな振付をあてられることが少ないので比較的クセが少ない印象があるが、ファンキースタイルなノリの表現がきわめて魅力だ。特に歌や日本語の発音の上手さにフォーカスされがちだが、翻ってそれは音を捉える耳の良さを示唆しており、自然な所作でありながら音を外さない彼女のステージングにも表されている。
オルタナティブラップ
本項ではラップアーティストとしても精力的に活動する森カリオペ(以降カリオペ)の楽曲について検討したい。現在ラッパーとして活動するVTuberとしては、ピーナッツくん、YACA IN DA HOUSE、KMNZ(ケモノズ)などが代表的なアーティストとしてまずは挙げられるだろう*19。またジャンルに限らず広くVTuberの楽曲では、TeddyLoid、TEMPLIME、Batsu*20、moe shop……など、インターネット上でEDMを投稿していたトラックメイカーたちが楽曲提供、リミックスを行う事例が散見される。これは特定の音楽ジャンルやスタイルによる結びつき以上に、インターネットカルチャーとしての同時代性や親和性の高さを示している*21。
別ベクトルの事例としてはラッパー・kamuiの活動が興味深い。kamuiはKMNZ「MC BATTLE」への歌詞提供やピーナツくんとの共演などでVTuberとも楽曲上の交流があるが、それだけにとどまらず、自身のオルターエゴとしてボーカロイドキャラクターのsuimeeを用いた楽曲とMVもリリースしている。ピーナッツくん(とその友人であるヤギハイ)は以前からkamuiのファンを公言しているが、プロムをテーマにした直近のアルバム『Telle倶楽部Ⅱ』について、コンセプトアルバムという点でkamuiからの影響を語っている*22。kamuiの『Yandel City』から『YC2』と続くアルバムでは、ヒップホップでありながらサイバーパンクとディストピアものを掛け合わせた物語調の世界観が示されている。特に、活動初期のソロアルバムである『Yandel City』は群像劇として複数の登場人物の視点で、「Yandel City」という架空の都市でのディストピア的なあり方が描かれる。インダストリアルな音像も含めてエッジの効いたアルバムとなっている。
ホロライブでは、直近でデビューしたデバイス所属のFLOW GLOWが「ラップ」をユニット活動の中心に据えている。オリジナル曲の多くは餓鬼レンジャーのポチョムキンが提供しており、ショート動画でも各メンバーが自作したラップを定期的に投稿している。歌ってみた動画ではラップミュージックや近接ジャンルの楽曲が選ばれることが多く、(sic)boyの「Heaven's Drive」が選曲されたことなどが印象深い。また、響咲リオナの待機画面のBGMは、いち早く日本にトラップミュージックを持ち込んだLil Yukichiが手がけている*23。
ホロライブにおいては、FLOW GLOWと後述のカリオペを除けばラップを前面に打ち出した活動はほとんど見られない。単発の事例としては、赤井はあとがタイプビートを用いてラップを自作した「神っぽいはあちゃまRAP」、沙花叉クロヱが3DLIVEでMVを再現した「Talking Box」、EN所属のAdventによる「チーム友達」の歌ってみた*24、宝鐘マリンがDragon AshのKjプロデュースの楽曲に参加した「サンバースト」、ピーナッツくんの楽曲「Clione」への轟はじめの客演などが挙げられるだろう。また、AZKi「Lazy」と儒烏風亭らでん「落噺」にはポエトリーラップや演劇的なラップのエッセンスが感じられる*25。
さて、ホロライブENの森カリオペの楽曲やそのステージについて、どのような印象を持つだろうか? メジャーデビュー以後の人気の曲として「MERA MERA」や「未来島~Future Island~」などが挙げられる。アルバム全体を通しても、近年の楽曲ではさまざまな声音を使い分け、緩急の効いた飽きさせない構成が特徴的といえる。 3DLIVEのステージでは、激しい身振りとフックパートでの情感豊かな歌い方が印象的だ。カリオペは、ENに限らずホロライブ全体を通しても数少ない、「ラップ」によって注目を集めてきた。 本項で注目したいのは、上記のようなキャッチーかつエネルギッシュな楽曲及びそのステージングとは異なるルーツが見え隠れする、 彼女の初期の楽曲群である。
■The Grim Reaper is a Live-Streamer/森カリオペ
カリオペはSEEDAが主催する日本のヒップホップ・アーティストへのインタビュー企画である「ニート東京」に出演した際や、 各種インタビューの中で、自身が日本のラップミュージックに感銘を受けていることを明かす。スタイルとしてはエミネムのようなUSシーンを代表するメジャーアーティストをルーツに挙げることもあるが、自ら作詞も手がける彼女の楽曲は日英語の交じったバイリンガルなものだ。カリオペが敬愛するアーティストとして名前をあげるのは、らっぷびと、RainyBlueBell、FAKE TYPE. 、jinmenusagiといった、 ネットラップ*26、正確に言えばニコラップと呼ばれるニコニコ動画を主としたラップ文化に根ざしたアーティストである*27。
中学・高校時代はアニソンがすごく好きで『犬夜叉』『ONE PIECE』などの曲をよく聴いていました。大学生になるとYouTubeで偶然見つけたミュージックビデオをキッカケに、東方Project同人音楽やボカロP、ネットラッパーなど日本のネット音楽にすごくハマりました。例えば、FAKE TYPE.、らっぷびと、アリレム、RainyBlueBellが好きで、よく聴いていました。
カリオペの3Dカラオケ配信では、2000年代のアニソンに加え、魂音泉(たまおんせん)による東方アレンジの楽曲「SAKURA Days」もチョイスされている(魂音泉の一員であるK'sはカリオペの1st EPにも携わっている)。黎明期のニコニコ動画は、東方Projectの二次創作の受け皿や、同人活動を拡散する場になっていたこともあり、 さまざまな有名どころの東方アレンジ*28の公式・非公式まじったMVやMAD動画が投稿された。 カリオペの敬愛するニコラップのプレイヤーたちもまた、そのような東方楽曲でビートジャックを行った。
■SAKURA Days/森カリオペ
ニコラップ出身で現在も活躍しているアーティストは少なからず存在するが、しかし、メジャーシーンの中でニコラップ自体は周縁に置かれている印象がぬぐえない。 これは、同じくニコニコ動画で盛り上がりのあったボーカロイドなどと比較すれば明白であろう。 ニコラップが時々においてコミュニティ内で人気を獲得してきたことは事実だが、 主要ジャンルの歴史の中で、独立した事象として表立って取りざたされることはほとんどない。そんな比較的マイナーともいえるニコラップであるが、カリオペがこのような日本のインターネット文化に親近感を持つことには必然性があると感じる。どういうことか?
Youtubeとspotifiを中心として、2010年代後半から存在感を見せるようになった音楽ジャンルにLo-Fi Hip Hopがある*29。アニメルックなループ映像に、サンプリングによって構成された単調なビート、低音質の演出が特徴のこのジャンルは、チルと呼ばれる安らいだ空気感とともに、どこかノスタルジックかつメランコリーなムードが漂う。Lo-Fi Hip Hopのプレイヤーたちが語るのは、彼らが共有している深夜や早朝にネット上で日本のアニメを見ているときの空気感である*30。音楽的にも多大な影響力を与えたのはNujabesが楽曲を手がけたTVアニメ『サムライチャンプルー』であり、カリオペが名前を挙げるMIDCRONICAも楽曲提供をしている*31。Lo-Fi Hip Hopのプレイヤーとカリオペには、海外の日本のサブカルチャー受容の同時代性が感じられる。
※ニューヨーク出身ビートメイカー・ninjoi.へのインタビュー
2008年頃、自分はまだ12歳くらいで、週末の夜はいつも〈Adult Swim〉で『サムライチャンプルー』を観てから寝ていました。その後、インターネットを通じて、Nujabesが『サムライチャンプルー』の多くの楽曲を手がけていることを知って。自分は父親の影響で90年代ヒップホップを聴いて育ちましたが、Nujabesの音楽を聴いたとき、それまで慣れ親しんできたヒップホップと共通したものを感じる一方で、どこか感情を揺さぶられるところがあった。それは明らかに今まで聴いてきたヒップホップとは違うものでした。当時、自分の住んでいた辺りは荒れている状況で、すごくハードな世界。でも、Nujabesの音楽を聴くことで気持ちを落ち着かせて、自分の心に向き合えるようになったんです。音楽によってそういう感情を持ったのは人生で初めての経験でした。
――サムライチャンプルーとNujabes─ 渡辺信一郎 監督が語った “無名のNujabes” を起用した理由【Think of Nujabes Vol.2】 | ARBAN
深夜に見る異国のアニメに触発されつつ、匿名的で、短いフレーズがループする楽曲を通して、安らぎの中でゆるやかな孤独を味わうようなLo-Fi Hip Hopのムードは、 海外で「オタク」と呼ばれる人々の、ある特定の世代や集団のリアリティを反映していると思える。それは市場化されつつ展開された日本のサブカルチャー受容とはまた異なるかたちであったのではないか。 あるいは、EXPO会場でコスプレするようなアグレッシブな「オタク」とは異なる、 生活空間の中で求められたアニメやネットカルチャーのリアリティが色濃く感じられる。
カリオペは、日本のラップについて、暴力的な現実を下敷きにした暴力的な表現ではなく、「day to day(日常)」が歌われていると述べる*32。たとえば彼女がスタイルを参考にしたと語るエミネムなどは、自身の過酷な生い立ちをハードなスタイルで表現したラップアーティストの一人でもある。カリオペがニコラップを通して日本のインターネットカルチャーに見ていたのは、英語圏のメジャーシーンを牽引する代表的なラッパーたちの提示する世界観とは異なるものだった。Nujabesのサウンドやニコラップが日本国外のインターネットユーザーに新鮮に受け止められたのは、ヒップホップの手法を採用しながら、楽曲のテーマや受容形態がジャンルの典型と対照的であったからだ。
ヒップホップのルーツやその定義といったトピックは、本項で扱いきれるものではない。だが、あるジャンルの越境性をはらんだオルタナティブなあり方をたどる際に、「盗用」や「パクリ」といった問題は避けては通れない。「移民ラッパー」として活動するmoment joonはK-POPがヒップホップの要素を取り入れることへ批判的に言及する中で、他ジャンルの音楽をウォーターダウンしてパフォーマンスするとして、ドレイクがやれば違和感があるが、アイドルだとむしろそちらの方が良いものに感じる気がすると述べている*33。これは、ジャンルとしてのアイデンティティを支持する「根」があるか無いかの問題と思える。系譜的な正統性か、それ個人としてのプロセスの説得力、どちらに重きを置くか*34。ジャンル横断にまつわる問題は、ヒップホップに対してオルタナティブな立ち位置でラップ表現を行うアーティストにしばしば見られる屈託でもある。
ニコラップのラッパーたちは、直近の対談の中で、インターネットによって楽曲制作が開かれたものになったということを示唆しつつ、そうした制作行為自体はライブやアーティストとしての成功を目指していたかぎりのものではなく、コミュニケーションを目的としていたと回顧している。彼らには特定のジャンルやシーンを担う存在であるという自認がみられない*35。
少し範囲を広げると、ニコラップと同世代で、楽曲のテーマにギャングスタと対照的な「ナード」や「オタク」を取り入れるR-指定にも先のマインドは当てはまるだろう。活動初期のインタビューの中でR-指定は 、ヒップホップが自分のアイデンティティに影響を与えたと語る際に自身のモラトリアムな学生生活を踏まえた上で「ゲットーから這い上がってきたような人からしたらお笑い草かもしれないですけど」と断りを入れている*36。2000年代後半~2010年代前半にかけて活動していた、インターネットカルチャーと親和性の高いミレニアル世代のラッパーたちには、いわゆる正道のヒップホップシーンに対する微妙な距離感や、ネガポジいずれかのかたちでのコンプレックスがあったと思える。 そしてまた、カリオペ自身のラップのルーツが培われているのは、かような、現実のストリートで自らを提示する表現ではなく、インターネットと結びついたミレニアル世代の孤独なリアリティと親和性の高いものであったはずだ。
私の地声は「疲れ切ったミレニアル世代(1980年から1995年の間に生まれた世代。日本のゆとり世代にあたる)」っぽいところがあるので。 この声質が、世間のミレニアル世代の人たちの共感を得ているんだと思います。
――ホロライブEn「Mori Calliope」インタビュー - 「前に進む自分の足を止められない」メジャーデビュー控えるVTuberの胸のうち(KAI-YOU Premium)
KAI-YOUのインタビューの中で、VTuberの楽曲は広い意味でアニソンに当たるのではないかという話題が出ている。カリオペは「死神」として(ドライな言い方をすれば「死神」というキャラクターを通して)ラップをするのだが、それは、ヒップホップが文化として志向する「リアル」に「被り物」をしているとみなされる状態である*37。
実を言うと……ホロライブの活動に必死だったデビュー当初が、私の楽曲が最も支持されなかった時期だと思うんですよね。視聴者からすると「芝居がかっている」ように見えてしまって、すぐに飽きられてしまっていたと思うんですよ。 でも私がネットラップを好きな理由の一つが、各ラッパーが自身のキャラクター性を自然な形で表現できていたところなんですよね。いわゆるステレオタイプというか、一種の型に当てはめすぎていないというか。どちらかと言うと、自分の人格の一部を切り取って、それを増幅させている感じだったんですよね。
〔…〕
私が配信をする時や音楽をつくる時は、他人の知らない「本当の自分」に向き合うようにしているんです。一切のフィルターをかけないで。 そんな感じで自分の言いたいことを好き放題に言ったりしているうちに、「悪ぶっているけど、そこにはギャップ萌えがあって、たまに可愛くて、不器用な死神」という存在として受け入れられていったんですよね。無理をするのをやめた方が良いということに気づいて、より素の自分を出していったら、自然と受け入れてもらえるようになっていました。――ホロライブEn「Mori Calliope」インタビュー - 死神VTuberのつくり方──カリオペ流キャラソン論(KAI-YOU Premium)
カリオペの初期の楽曲は、与えられた設定に対するリスナーの期待を先回りするような歌詞および振る舞いにも見える。しかし、ここに見られたキャラクターと自己表現の間の緊張感は、むしろそれが前景化していることによって表現としての説得力を持っているとも思える。たとえばカリオペの「end of a life」は彼女自身の経験したコミュニティとの別離を元にして作られた楽曲である。「死神」「冥府」といった自身の設定を元にした歌詞は、「バーチャル渋谷」のような多層的なリアリティとは異なる、虚構的な世界観を伝える一方で、カリオペの事を全く知らない状態の時には寓話的な響きを持って迫るものがある。キャラクターと自分のあいだの乖離は、リスナーに対する嘘ではなく、自己認識のプロセスを活性化させ扱われたテーマに普遍的なエッセンスを加えることに貢献しうる。
初期楽曲の作曲クレジットにはカリオペ自身も含まれており、自省的な歌詞も多い。1st EP『DEAD BEATS』は魂温泉のK's、2nd EP『Your Mori.』はボカロPのてにをはといったかたちで、インディーズ時代のEPは中心となる一人のトラックメーカー(両者ともにニコニコ動画と親和性がある)が明確に存在し、密なコミュニケーションがあったことがうかがえる*38。メジャーシーンに進んでからは複数のコンポーザーを迎え、フックが強化され、技巧的なフロウや楽曲展開のキャッチーさが増している。カリオペ自身も楽曲・アルバム制作は特定のスタイルを目指すのではなく新しい取り組みや実験の多いものであると明かしている*39。
メジャー以降の展開は初期のメランコリックさがなりを潜めた印象がある。一方で、興味深い事例としては、「I'm Greedy」が挙げれられる*40。JP THE WAVYを迎えたことでトラップらしい譜割りやハイハットの強調されたトラックが用いられ、かつ気怠げな調子でフレックスする歌詞にもそのプロデュースが感じられる。トラップ自体がそもそもUSから始まって日本で受容されたものであることを考えれば、カリオペのトラップは母語を起点として逆輸入しているかたちにもなる。日本でのトラップ受容は、ラップの多言語化を促した一方で、日本語を意味ではなく「音」としてピックするスタイルを生み出した。これは、マルチリンガルであり、ニコラップの叙情性に共感したカリオペが、ある意味で正しく外在的に日本語に関わるということでもあるだろう。特にリスナーとの距離を感じさせる「金を稼いでいる」というテーマは、ヒップホップのテーマとしては王道でありながら、アイドル性の強いVTuberグループの一員であるカリオペとは強烈なコンフリクトの感覚をもたらす。この歪さの中に、表現としての面白さを感じる。
その他、ヒップホップ・アーティストとの代表的なコラボレーションとしてはYENTOWNの一員であるChaki Zuluとの楽曲「SNEAKING」が挙げられる。
オタク性の現れとしても興味深いのがJ-Rapのみに焦点を当てた3DLIVEである。ポップシーンで存在感を放つラッパーから、日本の代表的なフィメールラッパーであるAwitch、ヒプノシスマイク、ペルソナのゲームサウンド、ニコラップ……。日本のヒップホップシーンに対して外在的であるからこそ、カリオペの表現する日本のラップミュージック=J-Rapはきわめてフラットな地平に置かれている。
ホロライブの3DLIVEや楽曲に触れてゆく中で、私は海外のミレニアル世代の日本文化受容のあり方を、なにか実感を持って知ることになった。そして、カリオペという、日本のヒップホップシーンに対して外在的な立ち位置から逆照射されるのは、半不可視化され、オルタナティブな位置におかれたある時期の日本の文化的潮流であった。「カリオペは日本のヒップホップとアニメ文化の交差点で新たなリアリティを創出している」など言えば、本項の結びとしては収まりが良いだろう。だが、そうではない。特に初期の活動をはじめとしたカリオペのパフォーマンスが示すのは、日本のネットカルチャーのひとつの「翻訳」「越境」のあり方であり、トランスナショナルかつオリエンタルな表現なのである*41。
以下「終わりに」へ続く。
*1:「Unison」の楽曲についての解説としては下記も参照。→宝鐘マリン“Unison”の衝撃――〈メジャーなアングラ〉の最先端としてのVTuber音楽シーンを象徴する一曲 | Mikiki by TOWER RECORDS
*2:ダンスに関わる物理身体に現れるノイズとしては、重さや摩擦の二つが3Dモデルでは特に希薄化されやすい。ジャンルを問わずあらゆるダンスにおいてステップは最も重要な要素であるが、VTuberの足と床面の接地には様々なズレが見られる。演者の足元は3Dの床を貫通したり多少の浮遊感が感じられることもある→vtuberの足元。また、下記では3Dモデルにかぎらない、より広義の「手」の表現のバリエーションに注目している→VTuberの手をどうする?ゲーム実況や雑談なら上半身だけでも成立するけど…表現してみたいよね(たまごまご) - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ
*3:たとえば、記号学者のロラン・バルトは歌を聴く際に受けとる歌手の個別の身体性を、歌唱技術や音楽の構造、発声によって届けられる意味の体系とは異なるものとして扱い、「声のきめ」と表現した。規範的な振る舞いや特定の身体所作といったコードに回収されえない「身振り」とはある意味ではこうした「声のきめ」に近いものと言える。バルトは「きめ」は理論的な基準で測れるものではなく、個人的な評価しかできないどころか、そういった主観的な好き嫌いの彼方で展開されるものとして記述している。これは言語の体系を外れた不可能性の領域であるがゆえに、個人が否定神学的に近づくことしかできないということであろう。なお、バルトは具体的な二人の歌手を分析する際に議論を展開しており、あらゆる歌に「声のきめ」を聴き取ることができるといった指摘をしているわけではなく、むしろ、「きめはめったに聞くことができない」と結論づけている。ゆえにそれはごく私的かつ身体に根ざした官能的経験である。→ロラン・バルト「声のきめ」『第三の意味―映像と音楽と演劇と』沢崎浩平/訳、1998年、みすず書房
*4:ちなみに、三人が着ているのはホロライブの共同音楽プロジェクトして展開された「Blue Journey」の共通衣装である。デザインはときのそらの公式イラストを手がけるおるだんが担当している。ロングスカートに白を基調として暖色を排した色づかいから、全体的に清楚かつ清廉なニュアンスが生み出されており、悲哀と情感といった本プロジェクトが据えた楽曲テーマの方向性も鑑みて乃木坂46のようなアイドルイメージの展開を目指していたと思われる。露出も多く装飾的で視覚的な緩急の強いアイドル衣装とは異なる共通衣装として、ブルージャーニー衣装は取り回しが良いらしく、プロジェクト終了後もメンバーたちは3DLIVEでしばしばこれを用いている。
*6:歌謡曲の歴史においては、スタンドマイクから有線のハンドマイクを経てコードレス化へと至る音響機材の技術的な進展に伴うかたちで振付が変化してきた。昨今のアイドルの主流のスタイルはヘッドセットを用いたフォーメーションダンスだが、各時代ごとにダンサブルさの解釈も異なる。オールディーズ風の本パフォーマンスではスタンドマイクが存分に活かされた振付がみられる。ハンドマイクを用いた印象的なパフォーマンスとしてはフワワ・アビスガードによる「MUGO・ん・・・色っぽい」などが挙げられる。
*7:映像作品の事例では、アニメーターやモーションデザイナーはモーションアクターの動きの中からキーポーズを切り出し、それをガイドとして一連の動きを作成する。モーションアクターは、動きの説得力を持たせ、適切な印象を生み出すために個々の動作を行ってゆく。モーションアクターの動きの演出については下記など参照→プロのモーションアクターが実演! より質の高い人の動きを表現するための5つのポイント〜CEDEC 2021(4)
*8:YOASOBI「UNDEAD」のサビの振付で前後に足を交差させる動きがチャールストンである。
*9:本稿ではアフリカ系アメリカ人の文化に根ざしたジャズ文化の発展と、そこから演芸化してゆく中で生まれたミンストレル・ショーやボードビルについては言及していないが、20世紀初頭のバレエを除いた広義の意味でのダンス・シーンにはかようなショービジネスで培われた体系があった。
*10:ヒット曲によって流行したトレンディダンスの変遷は下記なども参照。→The Evolution of Dance - 1950 to 2019 - By Ricardo Walker's Crew
*11:ストリートダンスの偉人達 Buddah Stretch(ブッダ・ストレッチ) | トウキョウダンスマガジン
*12:2010年代以降のブルーノ・マーズやK-POPなどにみられるディスコテークリバイバルの影響で、ニュージャックスウィングは昨今のポップカルチャーにも取り入れられやすい。そのため、実態としてはジャズやガールズといったニュースクール的な文脈で踊られることも多い印象を受ける。ニュージャックスウィングの音楽的な歴史については下記など参照。→#ゆっくり解説 NewJackSwingはなぜ流行り、どう廃れ、どうしてリバイバルされたのか
*13:日本で「ミドル」の区分が生じたのは、ストリートカルチャーの受容時期に起因すると考えられる。日本でヒップホップミュージックがアーティストたちに取り入れられたのは80年代に入ってからである。文化的な受容を決定づけたのは1983年の『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』の映画公開によるものと考えられ、TV番組でさまざまなストリートダンスコンテストが放映されるようになる。日本のヒップホップミュージックのメジャーシーンを形成したキングギドラは、現在ではクラシック扱いされているが1995年デビュー。一方でダンス・音楽としてニュージャックスウィングを取り入れたZOO(現LDHのHiroが所属していた)は1989〜1990年に登場している。日本ではかようにして音楽としてのヒップホップとニュージャックスウィングが同時期に流行したため、ストリートカルチャーのオーセンシティを重視する際にローカル特有の事情として「ミドル」の区分が生じたと考えられる。また、日本における近年のダンス受容を後押ししたと思われる出来事としては、2012年の体育科目でのダンスの必修化、2013年のAKB48「恋するフォーチュンクッキー」や2016年の星野源「恋」の恋ダンスなどのYouTubeやInstagramでのダンスクリップの流行、2018年のTikTokのブーム、2021年のDリーグの開幕、2024年のストリートダンスのオリンピック種目追加などが挙げられるだろう。
*14:参考までに、バレエダンサーがポップカルチャーに進出した例としては、映画『ホワイトナイツ』(1985年)にてタップダンサーのグレゴリー・ハインズとのデュオを披露したミハイル・バリシニコフや、ホージア「Take Me to Church」のMVへ出演したセルゲイ・ポルーニンなどが挙げられる(両者ともにプリンシパル )。
*15:ちなみに、日本のアイドルダンスの振付のルーツは宝塚歌劇団(1913年)、松竹歌劇団(1928年)、日劇ダンシングチーム(1936年、ディスコダンスを積極的に取り入れた土居甫なども所属していた)といった歌劇の振付にあるだろう(戦後1953年に設立された劇団四季は学生演劇を母体としている)。戦前期の歌劇の背景には、新舞踊の存在やオペラの受容が指摘できる。そして、西条満や彼の師事した山田卓、三浦亨がダンサーを志すきっかけとなった映画『ウエストサイド物語』の振付家ジェローム・ロビンスも、基本的には皆クラシック・バレエの素養があった。その意味で、日本のアイドルダンスは歌劇の系譜を引き継ぎつつ、バレエ・シアタージャズ・ディスコ・いくつかの民族舞踊(サンバなど)を参照していたと思われる。また、ストリートカルチャーがポップミュージックと本格的に合流するのは1990年代に入ってからである。いちリスナーの目線から見て、日本のアイドルダンスのジャンル体系は明示的なものではないが、①主としてポピュラー音楽を用いる、②歌と踊りの二つのパフォーマンスの共存が目指されている、③ 演者を正面に据えた構図で観客へのアピールを行うある種の媚態的な見えがある、これら三点がその特徴と言えるだろう。
*16:本題からは逸脱するが、これは振付家の特権性というモダンダンスが抱えた問題ともパラレルだろう。コンテンポラリーダンスでは20世紀中頃より、「振付」概念を空間のルールのようなものとして捉え直し、振付家からのボトムダウンの関係を批判する流れも存在する。ジャドソン協会やポストモダンダンスなどが代表的である
*18:【初配信】ゴゴゴゴ、、#水宮枢初配信 #hololiveDEV_IS #FLOWGLOW
*19:バーチャルアバターとヒップホップをかけ合わせた先駆的な事例としては、ロックバンド・ブラーのフロントマンであるデーモン・アルバーンによる音楽プロジェクトとして1998年に結成され、2Dキャラクターのメンバーで構成されるGorillazが挙げられる。ライブではアニメVJが投影される。また、VTuberとヒップホップの近接事例としては初音ミクを用いた「MIKUHOP」や、花譜の合成音声プロジェクトである音楽的同位体の可不を用いた楽曲制作の展開などが挙げられるだろう。昼想夜夢「骨までしゃぶられている!!」、Kysho Ichie「Cupid」など。
*20:Batsuはホロライブのオリジナル楽曲200曲メドレーのミックスも手掛けている。
*21:宅録による音楽制作は録音機材が民主化して以降、さまざま行われてきた。2000年代中頃に、Myspace、SoundCoud、Bandcamp、Spotifyといった音声ファイル共有サービスやストリーミングの主要プラットフォームが開始したことで、インターネット上での音楽文化の基盤ができる。中でも、少数の機材で完結できることもあり、DTMは若者を中心として活発化してゆく。
*22:Tele倶楽部Ⅱ最速リアクション〜ピーナッツくん登場回ダイジェスト
*23:前世の話題になるが、響咲リオナはフリースタイルバトルを中心に活動していた元アイドルのラッパーとも言われている。
*24:2024年、KOHHを引退してから千葉雄喜として復帰後に最初に発表された「チーム友達」は国内外で爆発的な広がりを見せたが、このフレーズ自体はJin Dogg発祥である。下記も参照。→千葉雄喜とJin Doggが語る“チーム友達”とは?
*25:ポエトリーラップの代表的なアーティストは志人など。演劇的なラップは明確なジャンル区分はないが、三浦康嗣と彼が主宰する□□□(クチロロ)の楽曲が挙げられるだろう。三浦の手がけたイヤホンズ「記憶」や□□□の一員であるいとうせいこうが作詞/編曲で参加した月ノ美兎「NOWを」なども。また、三浦は演劇作品のままごと『わが星』へ参加している。
*26:ネットラップの語は、Skypeなどネット上でのフリースタイルラップバトルを指す際にも用いられることがある。また、インターネットでのラップカルチャーを発展させたプラットフォームとしては、LEXやTohjiを輩出したSoundCloudがある。
*27:ニコラップ出身のアーティストとしては他に、野崎りこんや電波少女などが挙げられる。
*28:同人御三家の一つとされる東方Projectにはさまざまな同人サークルがあるが、例えばIOSYSやAlstroemeria Records、岸田教団&THE明星ロケッツなどが挙げられる。特にIOSYSは宝鐘マリン「Ahoy!! 我ら宝鐘海賊団☆」やしぐれうい「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」への楽曲提供など、VTuberとも関わりが深い。
*29:カリオペは2022年に2nd EP『Your Mori.』のLo-Fiバージョンもリリースしている。ミキサーはdj-Jo。
*30:Lo-fi Hip Hop(ローファイ・ヒップホップ)はどうやって拡大したか - beipana
*31:Mori Calliope : Fav Japanese Rap Artists (好きな日本のラッパー)
*32:ゆくホロくるホロ延長戦 もう1本グランプリ【#ゆくホロくるホロ2024】
*33:K-pop とヒップホップ、文化の盗用について話しましょう(※Xでのスペース)
*34:ヒップホップは特定の人種的・地域的アイデンティティと強く結びついた文化実践であるが、一方でそれはローカルな次元での水平方向への広がり否定するかぎりのものではない(ここのバランスは極めて慎重に扱うべきトピックである。下記なども参照→「距離」を引き受ける――インフラ化するHIPHOPと「ズレる」ボカロ|Shijiki)。日本語ラップ=日本のヒップホップにおいては、1970年代をルーツとしたカウンターカルチャーの思想を踏まえているアーティストが文化的に正統な存在として評価されている印象を受ける。個人的には、ヒップホップが日本で受容されてゆく過程で注目されていったのは、その遊戯的側面や日常実践としての詩的側面であると考える。カウンターカルチャーである点も踏まえるならば、ヒップホップは世俗的な生活における個人のあり方やアイデンティティの根のはり方を、商業主義や権威主義を離れて当人において肯定するような文化実践とも言えるのではないか。私が敬愛するヒップホップ・アーティストのLIBROはその好例だろう。技術的な面では、ボカロPのSagishiは「ライムスキーム」の重要性を指摘している。
*35:Jinmenusagi×トップハムハット狂×らっぷびと座談会 - ニコラップとは何だったのか? ネット生まれニコ動育ち、ラッパー3人で振り返る(KAI-YOU Premium)
*36:R-指定|INTERVIEW[インタビュー]|Amebreak[アメブレイク](※インターネットアーカイブ)
*37:インタビューの別の箇所で語られているような、ラッパーが当人としての「キャラクター性」をまとうことについての指摘は、「メディアペルソナ」や「私小説の作者像」といったモデルと近しい問題である。→新八角「月ノ美兎は水を飲む」『ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber』、2018年、青土社
*38:カリオペの前世と言われており、なかば公然の秘密として扱われているDEMONDICE時代の楽曲「ALT-er-NATIVE!!」なども彼女のスタイルの継続性が感じられる。
*39:「リスアニ!Vol.55 ホロライブ音楽大全」ソニー・ミュージックソリューションズ、2024年
*40:Mori CalliopeとJP THE WAVYが語る、異色コラボの裏側 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
*41:その他、参照記事は下記。
・森カリオペが語る、クリエイティブの源泉と活動における哲学 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
・ホロライブEnglish 森カリオペ(Mori Calliope)INTERVIEW | Febri
・Mori Calliope、新時代を切り拓くオルタナティブラップの旗手 ワールドワイドに広がる“逆境を乗り越える創造性” - Real Sound|リアルサウンド
・LUSS×Mori Calliopeインタビュー | アニメイトタイムズ
・【INTERVIEW】Joint Beauty | 豪華ゲストのコメントと共に紐解く最新EP制作背景