宛てのない

 先日、久保史緖里主演の舞台『桜文』を観た。2020年にリニュアールオープンしたPARCO劇場プロデュースで、脚本は秋之桜子の書き下ろし、演出は寺十吾がつとめる。久保の出演する舞台は『三人姉妹』と『夜は短し歩けよ乙女』しか観たことがなかったのだが、いずれも映像のみであり、今回がはじめての現地での観劇となった。今回のブログはそれについて雑多に書いてゆこうと思う。

 本作の物語は比較的シンプルである。明治40年代の吉原で起きた駆け出しの物書き霧野一郎(ゆうたろう)と笑わない花魁・桜雅(おうが/久保史緒里)の悲恋が、昭和初期に芽吹いた追憶として幻想的に描かれてゆく。第一幕では、二人が文学と手紙を介して深く結びついてゆき、第二幕では、桜雅の過去を起点として、両者の関係が、彼らを取り巻くさまざまなしがらみによって悲劇的な結末へと向かってゆく。舞台の終わりには、エピグラフのように示されていた昭和という時間に、明治を生きた二人の関係が終着する。

 全体の詳細は他に譲るとして、まずは、何はともあれ久しぶりに生の舞台を観られたことに感動した。物語は複雑に見えながらもシンプルであるが、そのぶん会話表現に重きが置かれ、演技の微妙なニュアンスや、役者同士の掛け合いを大いに楽しめた。個々のディテールへの作りこみは要所要所に感じられ、メインの二人以外の過去はほとんど開示されることのない本作において、遊女見習いや遊郭の主人たち、客、それぞれのバックボーンはスムーズに想像され、かつ身分や社会的な立場の違いも明確に描かれていた。これはひとえに人物造形が優れていたがゆえのことと思う。また、回想の終わりの場面で、無数のカラスが螺旋を描くように舞台を包み込む演出や、文字が背景を埋め尽くしながら現れは零れ落ちるといった、明滅して埋めつくすようなヴィジュアル面での演出も素晴らしかった。それに限らず本作は、全体を通して一枚絵のようにバシッと決まった構図が何度も現れ、視覚的な訴えが終始強かった。

 ただ、大筋の部分で不満が残る場面がなかったわけではない。若者であった時分の二人の関係のひずみや、その決裂の場面において、役が狂気に取りつかれてゆく展開がやや唐突に感じられた。それは、舞台全体を通して説得力を欠いていたというわけではないが、すくなくとも自分は二人の感情の緩急に置いてけぼりにされた感があった。同様に、桜雅の身請け人であり、物語上、横恋慕することになる紙問屋の西条が徐々に嫉妬心をあらわにしてゆくのも、観劇中には多少の違和感があった。この点については、パンフレットの中で、西条は二人の関係を疑うようになったことで、徐々に桜雅への思いを募らせっていったと語られており、ある程度は納得できた。

 このように、決して好き一辺倒ではなかった『桜文』だが、自分には特に印象に残っている場面・要素が二つある。以下では、それらを順にみてゆきたい。また、最後には、改めて乃木坂46の出演する舞台を観たことについても考えをめぐらせてゆく。
 
 

 
一、色街の光

 第二幕の冒頭は、桜雅が遊女となる以前の明治30年代、雅沙子(まさこ)という一人の少女であった頃の記憶が、霧野に宛てた手紙というかたちで語られる。借金のかたに預けられた雅沙子は、植木職人見習の仙太(せんた)に出会い、二人はまた、のちの桜雅と霧野のように心を通わせてゆく(雅沙子は久保史緒里、仙太はゆうたろうが演じている)。そんな折、雅沙子は完全に身を売られ、遊女として初見世が決まってしまう。「桜雅」と新たに名を与えられ、初めての客を取ることが決まった夜、仙太はその状況に抗うべくして遊郭へと駆け込み、そこで店の男たちになぶり殺しにされてしまう。時を同じくして、遊郭の一室では、事を終えた雅沙子がぐったりと顔をうずめて床に伏していた。

 舞台装置は、遊郭の内と外が上下に隔てられた作りになっており、遊郭の一室を示す舞台の上部からは、布団から雅沙子の足がだらりと垂れ下がり、横手から下へとのびる階段には、帰りの客に足蹴にされる仙太の亡骸が横たわっていた。別様の姿となった少年少女、その一方である雅沙子の足には、窓から差し込む一筋の光があたっている。絵画的に造形されたこの場面は、舞台全体の中でも、数少ない直接的なものとして死が持ち込まれていた場面のように思う。初モノとして売られた雅沙子に差す月光は、ひやりとした夜の耽美的な空気を醸しながら、一方で、彼女を欲する男たち、ひいてはこの舞台にまなざしを向ける観客たちによる、幾重にも重なった残酷な可視性をあらわにしているようでもあった。雅沙子と仙太には、精神的・物質的な死が降りかかり、舞台上には二重の喪失がしるしづけられていた。

 パンフレットには、遊郭専門の出版社の代表・渡辺豪による解説が掲載されているのだが、その中で渡辺は、「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」というなぞかけの句を引いている。これは、「夜であっても、吉原だけは明るく華やか」という意味と「陰惨な現実に沈む吉原と、その戸外にある月夜」という二つの意味がかけられている。江戸時代にあっては明暗の対照を抱え持っていた、このような両義的まなざしは、さらに明治という時代へ進むことでいびつなかたちで顕現してゆくことになる。渡辺によれば、開国に伴う文明開化政策の一環として、名目上、遊女の強制売春は禁じられることになる。しかし、遊郭という一大産業を手放したくない政治的思惑によって、遊女は自由意志によってそこにいるという建前が用意されることになる。これにより、明治以降の大衆の間では、遊女とは、「自ら売春を営むふしだらな女」でありながら「貧乏な家族を支える孝行娘」という認識が一般化していったという。

 2019年に開催された「あいちトリエンナーレ」、そのサテライト展であった「表現の不自由展」において、《平和の少女像》いわゆる慰安婦像が展示された際、行政の長をも巻き込んだ大きな問題となった。その検証委員会の報告会議の様子は当時YouTubeで公開されていたのだが、第二回では、市民からの抗議の問い合わせ電話の録音が公開された(公開自体の是非については直後に問題となった)*1。そのうちの一人の女性が、「赤線」「からゆきさん」というものがかつてはあった、そのような当時の現実を知ったうえで今回の展示を行っているのか、といった旨のことを、ややヒートアップした様子で話していた。私はここではじめてこれらの言葉を知ったのだが、戦間期に前後して現れた娼婦たちが、少なからぬ人々にとって本人の選択の結果として認知されていることを、何か実感を持って知らされた。

 対して、『桜文』にしろ、 『さくらん』『鬼滅の刃*2といった、サブカルチャーの中で扱われる遊郭や花魁といったモチーフは、その悲哀と優美さの危うい緊張感、不条理に対して毅然としてふるまうさまが魅力的な要素として扱われているように思う。ここでは苦海や刹那的な明暗のありようも含み込まれながらも、あくまで美的なものの範疇に留まっているように思う。二度の大戦を経験してから現在に至るまで、性風俗産業に対する偏見的なまなざしは変わることなく存在しているけれども、例えば、SNS等で話題となった舞妓*3*4、沖縄のスナック*5、貧困と性風俗産業、その当事者たちといった戦後から現代にかけての色街に対するイメージと、遊郭にまつわる表象の間には何か埋めがたい断絶があると思えてならない。

 それは、明治に変転した両義的なまなざしの社会的な文脈が、現代へ向かう中で複雑な変化を被りながら、また別のかたちへと至った、あるいは両義性自体の分離や二極化が進んだとも言えるのかもしれない。ともあれ、『桜文』の舞台の生々しい二幕の一場面は、アクチュアルな歴史的過程において醸成されていった、我々のまなざしに潜むねじれに思いをめぐらす一つの契機となった。

 


二、誰でもよいあなたへ

 『桜文』はタイトルや設定からもうかがえるように、文章、手紙、小説といった書き文字が大きな役割を与えられている。第一幕では、桜雅と霧野の間では、エミール・ゾラ『ナナ』(永井荷風明治36年に翻訳している)をはじめとして、田山花袋『布団』や森鴎外『青年』といった文学作品を取り上げ、自然主義私小説のせめぎ合いについてなど議論される。こうした、若者特有の知的な背伸びを満たすいくつかの固有名詞と、それに応える孤独な女性のモチーフは、ボーイミーツガールとしてかなり期待させられた。ゆえに、作中でもっとそのやり取りが示されてもよかったのではないかとも思う。閑話休題。さて、偶然の出会いによってもたらされた文学談義から秘密裏の交流が始まった霧野と桜雅であったが、終盤へと向かう転換点として、桜雅の語る仙太との過去を、霧野が自らの新作小説として物語に書き起こしてしまうという事件が起きる。

 その執筆に際して、霧野は徐々に自家薬籠中の狂気へと陥ってゆくのだが、そんな状況へと彼を導いたのは、編集者の片岡という人物と、歪んだ愛憎にとらわれた西条である。なかでも、新作の連載のために何を書けばよいのか迷う霧野に対し、片岡は、「大切なものに向けて書け」「落ちるところまで落ちろ」「死ね」と過激な言葉を放ちながら、霧野に自らの「欲望」の充足を説く。この場面において、片岡は決して単純なヒールなどではなく、メンターとして確かに霧野の精神を導いているようにも見え、畳みかけるようなセリフ回しも含めてすばらしい場面であった。

 物語は一気に展開し、二人だけが分かち合った大切な部分が小説にされたことを知った桜雅は気を違えてしまう。さらに桜雅は、かつて仙太から贈られた桜のかんざしで霧野を刺してしまい、正気に戻ったところで、いびつな光景をもたらした自らの目を「腐ってる」と疑い、オイディプスよろしくそれも貫いてしまうのだった*6。さて、こうした悲恋から時代が移って、昭和、桜雅は吉原の一角で遊女たちが客に渡す手紙(天紅の文)を代筆する代書屋の老婆としてひっそりと暮らしていた。ここから、時を経て再会した霧野と桜雅の物語を紡ぐ姿が描かれて幕が下りるのだが、桜雅が代書屋を営んでいることには少なからぬ切実さがあるように感じられた。というのも、今作において桜雅は仙太と霧野という二人の人物との関係の破綻によって当の現実が揺らぎ、感情の起伏や言葉をも失うほどの精神的な死を経験している。しかし、そのたびに彼女を生へと向かわせているのは、文学であり、ひいては自らが誰かへとむけて手紙を「書く」ことだった。現実との紐帯を失った彼女が、なおも現実へと介入するのは、文字を他者へと差し向ける事によってである。全体として、本作は桜雅が自らの言葉の宛てを探す物語であったのではないだろうか。

 思えば霧野という男は、名前もさることながら、冒頭では突如として闇の中で若返り、最終盤では桜雅とともに消え去ってゆく。霧散するかのように現れては消えてゆく霧野という人物は、記憶というおぼろを担う存在であると同時に、桜雅の言葉の宛てのなさを示していたのではないか。あるいは、自らの物語をまさに舞台に書き起こす作者として、舞台という場そのもののアナロジーでもあったのではないかと思う。ともあれ、不在へと宛てられた言葉こそが桜雅にとって、自らの生を確かなものとするための術であったのだ。であればこそ、一見エゴイスティックにもみえる片岡が霧野に向けた「大切なものに向けて書け」という言葉は、桜雅というキャラクターにとっても重いものであったと思える。

 
 さて、ここで舞台上で何度か起こる「狂気」について、なかでも桜雅と結びついた「狂女」というモチーフにも注目してみたい。ごく個人的なイメージではあるが、狂女のモチーフと色街の文化はどこか親和性があるものとして語られているように思う。現在においても、歌舞伎町でのホスト刺殺事件などは、一般的な事件とは異なる、特定の、ある普遍的なイメージと結びついている印象を受ける。それは当然ながら社会的な偏見によるものでもあるわけだが、一方で、『桜文』の舞台が示した「狂女」と「書く」ということの不可分な結びつきには、また別の可能性も眠っているのではないだろうか

 幽霊にまつわるアメリカ各地の民間伝承を集めた『ゴーストランド』では、19世紀後半のアメリカで死者と交信する「心霊主義」が流行した際、女性が中心だったという話があった*7。いわく、心霊主義は、ヒステリーや痙攣といった女性特有とみなされた精神疾患にむしろ、死者との語りといった点から重きを置き、彼女たちに公的な場で発信する機会を与えた。ゆえに心霊主義は、婦人参政権の歴史でも評価されているという。死者への応答責任を持ち、現在へと再帰するような喪=成熟モデル(宗教儀礼的な権威性とも結びつく)が男の司祭に担われたのに対し、世紀末の心霊主義に見出される非宗教的な死者との語らい、あるいは共在というオルタナティブなコミュニティモデルが、狂女(狂気と女性という二重の疎外を生きる存在)を中心に広まったのである

 『桜文』でも、仮死的な体験による狂気から、語りによって共在的なあり方へと向かうさまが示されているように思う。パンフレットの中で寺十吾は、霧野と桜雅の関係は魂をぶつ合うようなものであって、それは互いの性差をも超えた結びつきであったのではないかといったことを語っていた。「狂気」について、心霊主義に見出されたようなラディカルさがあったわけではないけれども、二度の喪失によって自らをも失いかけた桜雅が、「書く」ことを通して他者との、身分や立場に抑圧されるのではないオルタナティブな生を紡いでゆくことは確かである。宛てのない呼びかけ、誰でもよいあなたへと発せられた言葉が、他でもないあなたへと推移すること*8。少なくとも、自分にとって本作の最も切実な部分は、このような「書く」ことによる生にあった。そして、片岡の「大切なものに向けて書け」という言葉は、舞台全体の方向づけを明確に示していたと思える。

 

 

三、花の名

 『桜文』の舞台の内容についてはここまでである。ボーイミーツガールからのハッピーエンドが好きで、時代劇への理解も不十分な自分としては、舞台との距離を感じる瞬間もあったが、先の二幕における雅沙子と片岡の二つの場面は強く印象に残った。そしてここからは、また別のこと、公演が終わった直後に客席で感じたことについて書いてゆこうと思う。

 今回の舞台を私は長野公演で観た。比較的軽い気持ちで観に行ったのだが、それが大千秋楽であったらしく、終幕の際、観客席は総立ちのスタンディングオベーションという、かなりの高揚感に包まれていた。その後、アフタートークが行われたのだが、司会がキャストに長野を訪れたことはありますかと尋ねた際、久保が「このあいだ軽井沢に……」と話し始めた瞬間、会場内にそれなりの数の笑い声が上がった。どうやらこれはオールナイトニッポンで以前に話していたエピソードだったようで、その場にいた熱心なオタクたちには共通の了解があったらしい*9。この時、私はふと、「そういえば、乃木坂の舞台を観に来たのだった」と思った。『桜文』の観劇中、良くも悪くも、久保というアイドルを意識しつつも、『じょしらく』の舞台のようにそれ自体に享楽があったわけでは全くなかった。

 以前には自然と眼差されていた「アイドルの舞台」という部分が『桜文』にはほとんど感じられなかった。こうした変化は何を意味しているのだろうか。それはまずは、久保史緒里の演技と、舞台全体の完成度を指し示しているといえよう。他方で、「アイドルの舞台」が後退しているのは、彼女たちの活動に基づく「アイドル」という枠組み自体の変化や、以前までの彼女たちの「らしさ」の形骸化を意味しており、それはファンとグループの関係の変化を特に反映しているのではないだろうか。いま、何気なく「らしさ」という言葉を使ったが、この語は、最近SNSを中心とした乃木坂46のファンコミュニティで何かと話題に上りがちである。きっかけとなったのは、新メンバーである中西アルノがグループの表題曲『Actually...』でセンターを務め、かつそれに並走して公開されたスキャンダラスな情報によって、彼女に対する一部のファンの拒否反応が表面化した事件である。これらの一連の騒動におけるファンの言動は、「乃木坂らしさ」に起因するのではないかという話題が上がった。「中西アルノは乃木坂らしさにふさわしくない」、というのが、当時、一部のファンの苛烈さの根底にあると考えられたのである*10

 秋元康はそもそも乃木坂46というグループに対する固定されたイメージを否定しているが*11、活動が10年を越えたグループになんらかの一貫性が見出されるのはごく自然なことだろう。とはいえ、それは明文化されたものではないし、コンセプトや世界観ではなく、「らしさ」という漠然とした、主観的な印象の総体を指す言葉によって示されるのが、時々のファンとグループの距離感を示しているというのも事実ではある。中西アルノの騒動以来、「乃木坂らしさ」とはファンとメンバーの距離感の流動性やクリエイティブの上澄みの事後性、懐古性*12などを示す、漠然としたカテゴリーの既存性の含意が強くなったように思う。これまでにはどちらかといえば、世界観やコンセプトの読解可能性に満ちて、仮固定を繰り返すような場として、「乃木坂らしさ」や同様の語はあった気がするが、それらは、グループ自体の成熟に伴い徐々に有象無象性を(良くも悪くも)失い、ファンの態度の硬直化を招いているのではないだろうか。

 結成当初から、グループあるいは個人単位での自己実現を、そのかたちから模索していた時期は終わりを迎えている。グループが暗中模索であれば、ファンもまた同様に自分達の見方や応援の仕方、メンバーとの距離をその都度暫定的に構築しなければならないだろう。だが少なくとも、現時点での乃木坂46というグループをもっと広めたい、大きくしたいというのは、名実ともに国民的アイドルとなったグループに対して、やはりどこか実態とかけ離れている目標に感じるし、五期生などを見ていても、外仕事ではなくグループ内での序列にモチベーションがあると今まで以上に強く感じさせられる。

 そういったグループの成熟はファンがクリエイティブに共犯的に関わる余長を狭めつつも、『桜文』のような、かつては切り離されていた「外」仕事において、メンバーの魅力や演技の現れを支えていると思える。ポピュラー文化について精力的に文筆活動を行っている香月孝史は、2015年の舞台『すべての犬は天国へ行く』を取り上げて、アイドルが出演する必然のない舞台であったという指摘をしている*13。それは、アイドルというフレームを舞台という「外」とのコントラストによって捉えるのではなく、むしろ、アイドルというフレームの充実のうちに舞台という回路が開かれるといった、アイドルと舞台の調和的関係を意味している。こうした傾向は、こと乃木坂46に関しては年々強まっているという印象があったが、『桜文』においてはそれがよりリアルなものに感じられた。事実、『桜文』を観劇したファンの感想にも、「アイドルと花魁はともに“見られる”職業である」といった語りはほとんど見受けられなかった*14。不明瞭であるがゆえに、「外」仕事との差異化や同一化の実践の内に「らしさ」が見出される(=舞台に立つ必然性が見出される)といった見方は後退しており、彼女たちが何者であるかというのは、第一の問いではなくなっている。

 さて最後に一点だけ、別の観点による「らしさ」についても言及しておく。近年、乃木坂46新自由主義的な社会における避難所として捉える見方がある*15。私はこーへによれば、そういった文脈における乃木坂46の躍進はZ世代の予兆を示しているという*16。Z世代のリアリティを私は有していないけれど、少なくともネットネイティヴであり、「白け」やネットワークに接続されたままのシャットダウンを基本姿勢とするような彼らにとって、常時接続が前提となった世界における安全な・私秘的な場の確保というのは大きなテーマであると思える。飛躍した議論が許されるのであれば、乃木坂46の逃避的と目される特徴と、Z世代の私秘性には、とり結ばれる自他関係の軟性が共通するのではないだろうか。

 第三波フェミニズムの主要な論客の一人とされるジュディス・バトラーは、集会(アセンブリ)について論じる中で、「ソリダリティ(連携=団結)」とは社会的形式ではなく潜在的なものであると述べている*17乃木坂46に見出された「痛みの共有や優しさによる連帯」*18は、なんらかのコミュニティを既存のそれへと提案・対置するものではなく、見出されたもの、結果的に生起したものに過ぎない。ゆえにそれは共同性ではあっても共同体ではない。共同体が、誰が構成員であるかの取捨選択や合意に基づいて運営されるのに対し、自分が「到着したとき、他に誰が到着しているのかを知らない」まま結ばれる自他の共同性とは、バトラーの言葉を借りれば「一種の選択されざる次元を受け容れている」のである。

 中西アルノの騒動で示されたのは、現状の「乃木坂らしさ」とは、傷つきやすさへの共感や偶然性と異質性を受け入れたことによる共同性などではまったくないということだった。そこには、誰が構成員としてふさわしいかを選択する実体なき根拠として「らしさ」が存在している。柔らかな共同性から硬質な共同体への移行こそが、昨今の乃木坂の「らしさ」がたどった変遷であったのではないだろうか。一方でそれはファンの苛烈な反応の源泉となりながら、他方でメンバーが「外」仕事へと取り組む際に、それとの差異化を実践するのではなく内側へと還元しうるような立脚点を構築した。

 

 

 

*1:あいちトリエンナーレのあり方検討(検証)委員会|https://www.pref.aichi.jp/soshiki/bunka/aititoriennale-kennsyou.html

*2:鬼滅の刃 遊郭編』を巡る論争についての雑感/渡辺豪|https://note.com/yuukaku/n/ncfa04022bc4a

*3:《元舞妓告発から1カ月》桐貴さんの訴えを封殺する“花街の体質”から見えてきた“お座敷セクハラ”が横行するワケ「舞妓は“子ども”なので『わからしまへん』と返すしかない」|https://bunshun.jp/articles/-/56163?page=1

*4:上記脚注に関連して話題となったのが、実際に舞妓と愛人契約を結んでいたという以下の人物のブログ(アーカイブ)。非常に生々しくショッキングな内容を含むので注意。→https://archive.ph/HZwUw

*5:【VICE】南の島のダークサイド|https://youtu.be/tUv3j5PHNPI

*6:本稿ではほとんど言及していないが、「目」のモチーフは、桜雅が他者と関わる時に最も重視している部分であり、物語のうえでも鍵となる要素である

*7:コリン・ディッキー『ゴーストランド: 幽霊のいるアメリカ史』熊井ひろ美訳、国書刊行会、2021年

*8:伊藤潤一郎『ジャン=リュック・ナンシー不定の二人称』人文書院、2022年

*9:乃木坂46 久保史緒里「自分でもびっくりするくらい大泣き……」『きつねダンス』披露の「FNSラフ&ミュージック」涙の舞台裏を語る|https://news.1242.com/article/388093

*10:乃木坂46 Actually...』 "乃木坂らしさ"による分断/キムラ|https://note.com/kimu_ra10/n/nbe604306e3d2

*11:秋元康乃木坂46を語る「乃木坂らしさとか、決めてない」 メンバーの卒業による変化とは|https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/14/kiji/20220614s00041000432000c.html?amp=1

*12:乃木坂らしさ とは/アイドル批評ブログ|https://neuchi.me/special-feature/post-31473/

*13:香月孝史『乃木坂46ドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』青弓社、2020年

*14:とはいえ、当然ながら皆無というわけでもない。例えば以下のブログ→舞台「桜文」遊女とアイドル/いせんけさわいの頭ん中|https://note.com/kbwas1929/n/n852a509d452a

*15:2010年代、ネオリベアイドルの誕生―AKB48・乃木坂・欅坂・日向坂はなぜ流行したか?/三宅香帆|https://note.com/nyake/n/n02e920075649

*16:私はこーへTwitterより|https://twitter.com/minicoolkohe/status/1586261770628263936?s=46&t=5sGZKj837W5v0JLQXCKjgg

*17:ジュディス・バトラーアセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、2018年

*18:私はこーへ「乃木坂46、終末のユートピア──この地獄を生き抜くためのアイドル批評」『クイック・ジャパン vol.163』太田出版、2022年