パーフェクトブルー

 一年という時間は、その体感があっという間であったとしても、いざ思い返してみれば気後れするほどの膨大な出来事の積み重なりである。昨年、乃木坂46(以下、乃木坂)の1期生全員がグループでの活動を終え、その直後に早川の騒動があり、私は夏に新体制のライブを見に行った。時系列は前後するが、ハロプロの25周年ライブや、中森明菜の映画にも足を運び、乃木坂に限らず、「アイドル」について縦軸と横軸に多少の広がりを持って考えることがしばしばあった。

 その意味では、2023年は特別な年という感じはなくとも、ぐるぐると頭の中にうずまくものが多かった一年のように思う。今回のブログでは、いくつかのトピックについて自分なりに書き留めておこうと思う。それらは基本的には連想程度のつながりしかないが、ざっくりと言えば、フィクションを、その距離感を自覚したうえで自分がどのように受け止めうるかという問題に関するものと思える。

目次
  1. 秋元真夏の卒業
  2. 齋藤飛鳥の言葉
  3. 5期生ことはじめ
  4. 昨日、動く砂は
  5. 終わりに

 

秋元真夏の卒業

幾瞬間か留め得るかと見えても追いつけない、
そのような視角であること、
それが写真の教えであった。
前に後ろに視線が跳んだ

──ドゥルス・グリューンバイン「写真の教え」『現代詩手帖2017年11月号』縄田雄二+中山陽介+山崎裕太+花岡里帆/訳、思潮社、2017年


■地元のこと

 今年の初めに卒業した1期生の秋元真夏は、自分にとって思い入れのあるメンバーだった。私が乃木坂にハマるようになったのは、『超能力研究部の3人』(山下敦弘、2014年)を観て、主演の3人が出演する冠番組を観るようになったことだったと思う。そこから、いわゆる「推し」のような特別な位置づけへと至ったわけではないが、最初期に関心を持ったとき、彼女の存在は大きかった。
 そんな秋元真夏の卒業曲『僕たちのサヨナラ』のMVは、私の地元で撮影された。岡山県北、広大な津山市の端に位置する奈義町の現代美術館。車体にオレンジの線がひかれた一両編成の汽車(架線がないので電車と区別して地元では汽車と呼ばれていた)が走り、田畑が広がり、無人駅も珍しくない田舎町である。そんな盆地の山沿いのありふれた土地に、荒川修作が設計した巨大な円筒形の外観を備えた建物は存在する。MVのメインヴィジュアルを支えているのは、巨大な円筒の内部にある「太陽の部屋」と題された空間である。このMVを観るまで、私は奈義のことをすっかり忘れていた。恐らくもっと思い入れのある人や、足繁く通い慣れた人の中に、今作のMVを観た人もいるだろう。だが、地元を離れて、周囲にも奈義のことを話す人などまったくいない中で、今作はふいにそのような私自身が生まれ育った土地に隣接した記憶を、脈絡を欠いて強烈に惹起し、まったく無関係のままに交差した。

 マレビトの会を主宰する松田正隆は、ある事件をきっかけとして「地元」が自分へ差し向ってきたときのことを、「圧倒的な現在時に溶け込まれてしまう」ような経験であったと書いている*1
 おそらく松田の文意とは異なるが、地元の土地の実感と乃木坂を追ってきた記憶がフィクションのかたちでふいに目の前に現れた経験を、私はどこか、郷愁でも、懐かしさでも、感動でもなく、捉えがたい戸惑いのようなものとして経験していたと思える。それは、観ている私自身でも、土地の記憶でも、秋元真夏や乃木坂の物語とも離れ、前後の文脈の過剰な現れによって、むしろそれを受け止める私自身が前にも先にも思いを巡らせることのできないような経験であり、ただMVを観ているその瞬間のみを強烈に感じさせられるものであった。それは限りなく現在時にとらわれた経験であると同時に、「観ている私」を意識せざるをえないものでもあった。

荒川修作について

 先にも少し述べたが、奈義町現代美術館は荒川修作の手がけた建築である*2。「太陽の部屋」はなだらかな傾斜の先にシーソーが設置され、円形の壁には、向かって左右に石庭が敷かれている。空間の床と天井には緑と赤がダイナミックに配色され、荒川の語るとおり、補色関係を通して場を訪れた人々に無数の色覚経験を可能とさせる*3。かつて日向坂46『JOYFUL LOVE』で撮影地となった養老天命反転地と同じく、環境と人との有機的な関係によって、たえざる変化に身を置かせる生命主義的空間。MVでは、そのように生命を循環的に表現した「太陽の部屋」の内部で、カメラはゆっくりと回転する。方向感覚を喪失させる空間に則った画づくりによって、メンバーの卒業という物語が、単なる終わりとは異なる円環的かつ希望的な方向づけをもって描かれている。

 荒川修作のドキュメンタリー『死なない子供、荒川修作』(齋藤飛鳥の個人PV『東京ラビリンスでは同作の劇伴が使用されている)の中で、荒川は感情的な身振りと口調で、言語によって支配された世界、それを構築してきた哲学や芸術の欺瞞について語る。世界の微細な変化に呼応して、我々の身体は常に変化し続けている。見えないもの、つかめないもの、それをやらなければならないのだ、と。荒川が扇動的に語る「死なない」という考えは、とにもかくにも、「死=変化がなくなること」という解釈によって下支えされている。
 一見シュルレアリスム的とも言えるような、現実の秩序の転覆を示す言葉の数々、「言葉も、文法も、ぜんぶ借り物なんだ」「あなたが不可能と思ってることはぜんぶ可能なんだ。不可能にしてるだけなんだ」「病人がいたら、もう少し生きてと言ってやれ。ほんとうなんだから」「これからは物質文明から生命文明になってく」「老人ナイトクラブを作るんだ」「カレンダーなんてものもぜんぶ変えちゃうんだ」「そういう風に言わなくちゃならない。ぜんぶほんとだから。ぼくたちは100%嘘の世界に住んでるんだ」、これらは、時空の変化に対して知覚過敏的に分け入り、言語ではなく感覚的な次元における世界との絶えざる交渉をこそ重視する態度であろう。

 美術家の岡崎乾二郎荒川修作の作品を、「“教育に抵抗する方法を教育する”装置として組み立てられている。一般的に教育がひとつの世界観(概念)を多数の人間に共有させるための手段だとするならば、これは共有されず分有され得ない普遍的なものを獲得させるための装置である。共有され得ないものとは何か。それは教育の目的ではなく、むしろ学習、修行、訓練といったそのプロセスじたいである(それは各々が行うほかない)」と指摘している*4。規範的な世界構築から抜け出すことを実践的に模索し、目の前に広がる世界を制作的な空間として捉え直すこと。

■セルフケア

 少々飛躍になってしまうが、荒川の語る有機的な世界像を、ある種のセルフケアのための概念として受け取ることはできないだろうか。美術研究者のボリス・グロイスは、『ケアの哲学』(人文書院、2023年)において、肉体的な健康に裏打ちされた欲望の充足と、セルフイメージのコントロールへと取り組むことで、システムとしての「ケア」(一人の人間を社会生活を営む生の素材として定量化するもの)に抗うことを説く。グロイスは、そのようなアナーキーな主体の振る舞いとしてセルフケアを描いた。岡崎の指摘する荒川の「教育に抵抗する方法の教育」とは、グロイスの語る「ケアのシステムに抗うセルフケア」とそう遠くないものに思える。

 ここで「セルフケア」といった話題へと言及したのは、アイドルの語りにおいて「自己啓発」といった言葉がしばしば用いられるからである。環境美学研究者にしてハロオタである青田麻未は、アイドルを自己啓発メディアという観点から紐解き、渦中におけるメンバーやオタクの「自己の体制」の形成過程について分析している*5。「自己啓発的な楽曲はアイドルのパーソナリティを強化し、それを鑑賞する鑑賞者に作用する。〔…〕自己啓発的なアイドル楽曲は、日常のなかで繰り返しMVや音源を通じて視聴されることによって、包括的な人生の向上を目指すための態度という感情的ハビトゥスを鑑賞者のうちに形成していく自己のテクノロジーとなる」。ここでは、向上的な歌詞の楽曲を通してアイドルとファンが各々の生の向上に努めるという、楽曲を双方が、ある種字義通りに受け止め実践する姿が描かれている。フィクションを担う側と享受する側が、自らの生においてそれを実践する。言い換えれば、フィクションに対して担い手も受け手も関係なく、各々が責任を持つということでもあるだろう。

 昨今のコンテンツ受容は、その実態において受け止める側があらかじめ完成形であることや練度の高さを過剰に求めてしまうという傾向が見受けられる*6。これは、単に未熟さや不完全なものを愛でよという訳ではない。そうではなく、アイドルにせよファンにせよ、フィクションというものが生に折り込まれてゆくプロセスが軽視されてしまっており、対象化されきった価値のみが求められているということである。そのため、青田の提言するような日常の中にポピュラーミュージックが介入する、見過ごされがちだが当たり前の受容形態を実直に描き出す試みは非常に価値のあるものと思える。

 青田の指摘する相互的な自己啓発のあり方は、より卑近で一般的な感覚としては、アイドルをまなざすことで、ルーチン化した日々に自分の欲望が惹起され、その欲望をコントロールする術を知ることでもあるだろう*7(エンパワメントという言葉は意味が広いのでここでは用いないが、私は「勇気づけられる」というのは、行為へ向かう意志の発露に先立つ自己の再認を含むと考える)。そして同時に、アイドルとはまさしく当のアイドル自身のセルフイメージへと取り組む存在である。
 私たちがアイドルの姿を見て何がしかの共感や強い感情を引き出されるとき、少なからず当のアイドルが取り組んでいるのはセルフイメージのコントロールであるだろう。私たちは直接に何がしかのセルフケアのパフォーマンスに触発されているわけではない。だが、セルフケアとは必ずしも一元的な行為を指すものではなく、多様なかたちで生起しうる。相互的な自己配慮。欲望を惹起する、「虚構」というフレームにおいて上演される演者自身の自己への配慮の現れを通して、それを見る私もまた自己への配慮へと向かいうるのである*8

 なんであれアイドルのMVは、不可避的に他者を巻き込みながらなされた彼女たちのセルフイメージに対する実践の結果である。そこでは複数のプラットフォームやパフォーマンスの場を横断しながら、自身の手を離れて流通するイメージに対して主体的であることが志向されている。青田のような主体形成の次元へと進むまでもなく、グロイスの拡張された「セルフケア」に従えば、そのようなセルフイメージをコントロールする実践とは充分にセルフケアであり、自己への配慮である。私が『僕たちのサヨナラ』のMVを単にグループや物語の流れに収まらない形で受け止めた事実は、あらかじめ用意された文脈に依存した(演者と鑑賞者という定量化されたコミュニケーションの)限りではない経験をもたらしていたのではないかと思う。そこにおいて、私は、一群の誰かのうちの匿名の一人としてメディアからコンテンツを受け取りながら、ほかでもないこのMVをほかでもないこの私が受け止めていると強く意識させられる。だが、この「ほかでもない」としての経験によってこそ、私は特定のパフォーマンスやなんらかの実践が、有機的に生起する=生き延びる可能性を感じる。青田の語る自己啓発も、各々の「日常」において特定のフィクションやパフォーマンスを「ほかでもない」ある特定の現実に受肉させる試みとも言えよう。

■ほかでもないこと

 私は、『僕たちのサヨナラ』という、卒業や別れをテーマにし、荒川修作の脱時間的な空間でなされるパフォーマンスを受け止める。と同時に、MVを観て複数の記憶が混線するさまを、認識と想起の渦中でほかでもない自分のものとして経験する。このとき、世界に居場所を占めるものとして、私は私自身を再認している。過言とは思うが、私はそのようにセルフケアの実践に相互的にあれたのかもしれない。フィクションという、特定の誰かの手に収まることのない、匿名的で可能的な、どこかにある準-現実が、「ほかでもない」へと推移する経験こそが、まさしく私自身がフィクションへと強く惹かれる一因であると思う。

 本項では、『僕たちのサヨナラ』のMVを手引きに、荒川修作の「規範に抗う世界との交渉」について取り上げ、その思想をグロイスのセルフケア、青田の自己啓発へと敷衍して考えた。その上で、私自身が「地元」につかまれることで、規定的なMV鑑賞から外れた経験をセルフケアの一様態として捉えた。フィクションとはかような、準-現実が「ほかでもない」へと推移するものである*9

▲目次へ戻る

 

齋藤飛鳥の言葉

わたしはどのイメージにも当てはまらない、とシャルロッテは考えた。だから、古いものを撤去したい気分なんだわ。だからこそ、自分と対になるイメージを求め、それを自ら創りたいと願っている。名前はまだ浮かばない。いまは、まだ。

──インゲボルク・バッハマン「ゴモラへの一歩」『三十歳』松永美穂訳、岩波文庫、2016年


■はじめに

 2023年5月17日、齋藤飛鳥卒業コンサート初日、ステージから向かって左手中央の1階席最前付近で、私は彼女を見ていた。齋藤飛鳥の卒コンは、彼女が直角に一礼する身振りによって始まった。当然それは、2017年の橋本奈々未の身振りをなぞっているものと思われる。また、オリジナル振付による遠藤さくらとの『他の星から』のデュエット、これもまた真夏の全国ツアー2019にて目にしていたものだった。このように、かつてライブ会場に目にしたイメージが再び演じ直されてゆくことが、齋藤飛鳥の卒コンでは何度かあった。
 私が初めてアイドルのライブに行ったのは、2017年の橋本奈々未卒業コンサートだった。当時、バースデーライブは全楽曲をリリース順に披露していたが、三日間に渡る5thバースデーライブの初日が橋本の卒コンに当てられたため、セットリストは橋本の提案で作られることになった。駅へと向かう帰りの道中で、近くのファンが「明日やる曲がもう残ってねえぞ」と、ライブの興奮冷めやらぬ中で戸惑い気味に喋っていたことを覚えている。今回の齋藤飛鳥の卒コンに関しても、彼女の意向がセットリストには強く反映されているという。中でも、ライブでも披露された『全部夢のまま』を偏愛している自分としては、卒業にあって、それを聴きたくなると語った齋藤飛鳥の言葉には感じ入るものがあった。彼女の功績をここで紐解くわけではないが、さまざまな姿や振る舞いへと変化する彼女には、見る人を飽きさせない輝きがあったし、キャラクター性が重視されるアイドル市場の中で、どこまでもノームコアなあり方を見せた彼女には秀でた魅力と、乃木坂のカラーを代表するものがあったのは確かと思う。というよりも、捉えがたさの内に留まり続けることでその魅力を発揮し、こちらの関心を喚起し続けていたように思う*10

■文章と「人となり」

 「推し」というものには、遠近があると思う。例えば生田絵梨花に対して私は圧倒的な自分の生活との遠さを感じていたが、こと齋藤飛鳥に関しては、ある種の近さを感じていた*11。それは、彼女の書く文章において特にそうであった。本稿では、齋藤飛鳥の書いた文章や話した内容を手引きとして、彼女の魅力でもあるセルフイメージとの付き合い方について書いてゆこうと思う。まず確認したいのは、初センターを務めた後に開始された、齋藤飛鳥の連載エッセイ、その第1回の冒頭の文章である

乃木坂46に加入して約5年。私は、人に見られることはすごく怖いことだと感じています。
〔…〕
私のことを書くにあたって、周りから言われる私の印象をお教えします。
捻くれている。ネガティヴ。暗い。ツンデレ。冷静。ミステリアス。
内面のことを挙げてみました。
見られることが仕事。たくさん見て頂けて光栄です!
ありがとうございます!

──「齋藤飛鳥、書く」第1回(『別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46』vol.1、KADOKAWA、2016年)

 シニカルさとユーモアを混在させつつ、不思議と淡白な読み口が彼女の文章の魅力である。上記に引用した箇所で書かれているのは、自分とずれ込んでゆく、世間に「流通するイメージ」についてのものである。このようなセルフイメージについて、齋藤飛鳥はさまざまなかたちで語っている。乃木坂の中でも、「読書」と結びつけられることの多い彼女は*12、先日映画化も発表された高山一実の連載小説『トラペジウム』が単行本化された際に、その読書感想文を書いている。先に引用した文章から2年半が経って書かれた感想文、その終わり近くには以下のとおり書かれている。

文章には人となりが表れる。というのが本当だとして、それに当たり前に恐怖を抱くのが齋藤飛鳥だ。
〔…〕
ストレートに褒めるのが照れ臭い。
そしてアイドルについても小説についても、専門的なことを何一つ知らない。だからこうして逃げるのだ。 

──乃木坂46・齋藤飛鳥の『トラペジウム』読書感想文ダ・ヴィンチWeb)

 少なくとも自分は、文章を書くことに関してこの言葉に強い共感を覚える。当然、ここに書かれているのは齋藤飛鳥のコントロールしたセルフイメージの枠内に収まるものであり、特定の彼女の真実を反映したものなどでは決してない。なんらかのかたちで、彼女自身が見られたいと思う自分を演出した結果でもあるだろう。だが、彼女がまさしく、セルフイメージについての悩みを人一倍言葉にしてきた人物でもあることを、この一文は端的に表しており、かつ、自分にも身をもって想像できるような普遍的な問題に言及されていると感じられた。

 先の文章の中で彼女は、なにかを書くにあたって「照れ」と「逃げ」があるという。これは何を意味しているのだろうか?「逃げ」について、かつて、大園桃子は出演した番組のなかで、「キャラを作れないから、叩かれると本当の自分が否定されている気持ちになる」と語っている*13。文章に「人となり」が出ることへの恐怖とはいわばそのような自己否定への恐れでもあり、だからこそ「逃げ」へと転じうるともとれる。そして、「人となり」が表れてしまう文章をコントロールするしぐさこそ、大園にとっては「キャラを作る」と地続きの行為であり、かつ齋藤飛鳥にとっては「照れ隠し」であったのではないだろうか。
 哲学者でもあり小説家の千葉雅也はかつて、韻文を照れ隠しであると指摘している。

散文を書くというのは、「照れ隠し言語」から離れた言語で書くということだと思う。

散文で自由に書くということの難しさ。フォーマットがない自分自身の散文。しかも具体的なことを書く。照れ隠しをしない。古代の人が何を書くにも韻文になってしまったのは、まず原初に照れ隠しがあったからだと思う。散文でも特定の業種の文体はほぼ韻文だと言える。ただの散文、ということ。

〔中略〕

文体がない人になる。というのがドゥルーズにあったけど、あれは照れ隠しをやめるってことだな。そうか。

昔のオタクっぽい言葉遊び(遊びだけど、やむにやまれずやってしまうもの)、「拙者、何々でござる」みたいなのが、照れ隠し言語の最たるもの。たとえばああいうものに、「文体」と言われるものの本質がある。

──千葉雅也 2019年6月13日のXでの一連のポスト

 この中で語られているのは、韻文や文体など、一定のフォーマットによる文章というものが、自由で具体的な散文を書くことへの「恥」から始まっているということであろう*14。その「恥」とは、自由に書くことによって「人となり」が表れてしまう事態への耐え難さから来るものではないだろうか。

 そもそも言語とは、特定の現実をイメージとして定着させるものである。ゆえに、言語は現実と指標関係を持つが、同時に、その現実を遠ざけてしまう。何か出来事があり、それを言葉にした瞬間に、言語化された出来事は当の出来事からずれてゆく。言語とそれが指し示すものが完全に一致することはありえない。言語とは、それによって表現する現実が失われゆくのを阻むために発話や文字としてしるしづけつつ、同時にその現実の現れそのものを遠ざける。
 すなわち、言語はそれ自身によって遠ざける現実との関係を示すものである*15。この、「言語によって遠ざけられた現実」において、発話者や筆者の「人となり」が不可避的に現れる。特定の型や典型的な言い回しを用いれば、少なくとも「私」によって遠ざけられた現実というものの固有性は不可視化されるだろう。

 言語の抱える本質的なアンビヴァレンスとパラレルな問題であるのが、まさしく先の引用の中で齋藤飛鳥が語っていることではないだろうか。私(セルフ)と他者の間で流通する私(イメージ)は、不可分でありながら全くずれたものでもあり、かつ隔てられた両者のあわいに「人となり」が現れるというのが、それである。ゆえにこそ、セルフとイメージの間にキャラという典型を挟み込むことで、自己の否定から身を守るのである。

繰り返すようですが、私は自分に自信を持っていません。
〔…〕
ここに並んだ文字を読んで、私という人間を見透かされるんじゃないか。文章を書きながらふとそう思いました。
が、読み返し、安心しています。いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。

──「齋藤飛鳥、書く」第1回(『別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46』vol.1、KADOKAWA、2016年)

私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない。
何故か。
うすっぺらい人間だからだ。
〔…〕
私のような薄っぺらい人間にやさしくされても
ありがとう。なんて言いたく無いと思う。
もう一度言うが、これは私の考えであって、私だから言う事だ。
誰かに言われるのと自分で言うのとでは全く違う。言わないで、おねがい。

──「齋藤飛鳥、書く」第3回(『別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46』vol.3、KADOKAWA、2016年)

 このように見てゆくと、例えば齋藤飛鳥が自身のイメージの流通を自覚してアウトプットした、言葉あるいは表現やパフォーマンスを受け取るということは、広くは「虚構か否か」という一般的な疑問へと関わってくるようにも思われる。なぜなら、建前/本音、見せるべきもの/見せるべきでないもの、理想/現実、そのような、細かに存在する対立項が極限まで前景化される場として、「虚構」の位相が存在するからだ。虚構は、それと対立する「現実」を前提とするため、アイドルのような生身の人間のパーソナリティが問題とされる場合には特に焦点化されるものである。

 アイドルの真実の姿に強い関心を抱くのは、アイドルファンに見られるかなり一般的なリアクションであろう。だが、特定の形式で囲い込まれた「虚/実」を媒介して、生の実相を受け取ることは充分に可能であると言いたい。不可能的なアクセスの最終目標として生の実相(あるいは実存)があるのではなく、単に、虚/実の併存する揺れ動きそのものこそが生の実相であるに過ぎない。身も蓋もなく曖昧なもの(=生の実相の現れ)は、観客において、可視/不可視にしたがって虚/実に分割され受け止められる。その上で、私たちはパフォーマンスを通して、虚/実のせわしない往還がそれ自体として「組織化された現実」へと生成される状況に立ち会うだろう*16

 複数の場を横断するアイドルのパフォーマンスは、不可視化された真実としての「人となり」によって統合されているわけではない。インタビューや番組、SNS、ライブ、MV、歌披露、ラジオ、舞台、ゲーム、握手会……これらはそれぞれに組織化された現実を生成する。現れているものの裏表の濃淡や場同士の序列もなく、皆等しく一元的な「人となり」そのものの現れであり、それを通して観客は演者の生の実相を受け取るのである。そのようなパフォーマンスという領域を稼働させるのが「虚/実」の対立であろう。もちろん、真意を測りかねたり、一致しえない解釈、歪像を生産する自己に対して屈託がないと言えば嘘になる。だが、当のアイドルやコンテンツにハマっている、渦中に身を置いている際に、パフォーマンスとそうでない不可視化された場における真偽を問うことは、パフォーマンスによる組織化された現実の生成、あるいは相互的な変容といった事態を軽視している*17

自分を知られるのは怖いですよ。
自分の意思で表舞台に立っている人間が何をと思うかも知れませんが、私はすごく怖いです。

それが仮に嘘で作ったものだとしても、出来ることなら隠して生きていたいと思う派ですね。

──2018年12月9日の齋藤飛鳥のブログ
(※アーカイブ
https://janelin612.github.io/n46-crawler/mb/asuka.saito/?no=9


■詩と「組織化された現実」

 虚構というものは、変容した現実を組織する。それが強く意識されるのは、私にとっては「詩」である。かつて、チェーホフ『三人姉妹』を読んでいた時のことである。作中で登場人物たちがプーシキン叙事詩のフレーズを引用してやり取りする場面があった。そこで登場する下記のフレーズの意味が、当時の私にはよく分からなかった。

入り江のほとり、みどりなす樫の木ありて、こがねの鎖、その幹にかかりいて……。こがねの鎖、その幹にかかりいて……。──プーシキン叙事詩『ルスランとリュドミーラ』より

──アントン・チェーホフ「三人姉妹」『桜の園・三人姉妹』神西清訳、新潮社、2011年

 このテキストを読んでから、それなりの月日が経ったある日のこと。夏の日に、私は屋外を歩いていた。夕暮れ近く、なんでもない新緑の木々に赤橙色の陽が差している光景が、ふいに目に入った。瑞々しく生気に満ちた新緑の葉の表面には陽の輝きが映り込んでおり、私はそれを見た際に、「こがねの鎖」というフレーズが突如として喚び起こされた。その瞬間において、目の前で輝く新緑の葉の連なりは「こがねの鎖」以外の何者でもなく、『三人姉妹』やプーシキンの当の文脈も離れ、単に叙事詩の一節に描かれた光景の美しさを何よりも生々しい現実として受け取っていた。その際、私と目の前の風景は「こがねの鎖」という言葉に媒介されて変容し、互いに身を置く現実以上に強度のある現実を生起させていたように思う。

 詩人の佐藤雄一は詩とは何かという問いに対して、「それを受け取った人を詩人にする言葉が詩」と答えている*18。私はこの言葉を、「読んだ人を制作行為へと誘う」といった意味ではなく、「詩とは言葉を受肉させるものである」と解釈したい。特定のフレーズや一節を繰り返し口ずさみ、作者という存在を離れて非人称化された言葉が、私という身体によって発せられる、あるいは私を介して現実に反映されるという事態。それはまさしく、先の「こがねの鎖」のように、特定の詩人の人称性を離れた、ある詩、ある言葉が、私と現実を媒介して双方を変容させるという事態である。詩とはかようにして、特定の言葉や響きを誰かの現実に受肉させる/させうるものであると私には思える。

 私が「こがねの鎖」で経験したように、虚構は変容した現実を組織する。では、アイドルにおいてはどうであろうか?稀ではあるが、詩における変容を通して「人となり」を感知する瞬間が「朗読」の次元において存在すると思える。私は齋藤飛鳥の参加楽曲と個人PVの中で、『あの教室』と『水色の花』を偏愛しているのだが(「こがねの鎖」のくだりで明らかなように、ここで重要であるのは普遍的な経験ではなく、受け手である私にとってのきわめて主観的な感覚である)、両作の歌詞と台詞は、演者の生のままを十全に反映したものでも当人の自然な感情を示すものでもない。
 だが、擦り切れるほど耳にした、「好きだった人の名を 今になって言い合った 三階の校舎の端 ガラス窓が反射する」という歌詞や、「三日前、お父さんが死んだ。 それから私は泣いていない。 なんでだろう」という台詞は、もはや秋元康なり今泉力哉といった本来の作者から離れて、単に非人称化された言葉として存在し、このテキストが演者である齋藤飛鳥から発せられるという状況を私は強烈に感じさせられる。そこでは、受肉することを待つ言葉としての、詞、すなわち詩的なものと、その宛先としての「人となり」の現れを感じさせられる。

 このような非人称化された領域を介して、「ほかでもない」彼女へと推移して響く言葉にこそ虚構というものの抗いがたさがある。単に彼女が自身の感情として発した言葉というわけではないが、特定の人物との結びつきを離れ、いったん非人称化されたテキストは声や身体による彼女との結びつきの中で当人特有の気配をまといながら、演じられた役のような特定の虚構存在を指示するのではなく、テキストを発するほかでもない彼女を直接に指示する。ダブルクォーテーションをつけられた“齋藤飛鳥”が生起しながら、演じていない彼女や演じる前の彼女、本来の彼女なるものへと回帰することなく、テキストの発せられた別の現実を巻き込みながら、演者の同一性を融解させつつそれを塗り替えてしまう。
 虚構とはそのように、なんらかのかたちで変容した新たな現実を組織するものであり、パフォーマンスの幕が下りれば終わるものでは決してない。17歳の齋藤飛鳥と、卒業から月日を経て学校を訪れた人物の視点で書かれている『あの教室』の歌詞には、そもそも距離がもうけられている。だが、その対立を前提としてパフォーマンスという次元で両者の出会いが可能となり、虚/実のないまぜとなった存在=組織化された現実が立ち現れる。

 パフォーマンスを介してないまぜとなった現実が現れたのちには、虚/実の分割は以前と同じような分割にはならない。ゆえに、ひとえに虚構と現実の対立と言っても、それは常に明確に線引きされているものではなく、可能的な・先回りした現実(虚構)と、組織化された・事後的な現実(現実)という関係であると言えよう。その意味において、インタビューのような特定のパフォーマンスの裏側に関する語りというものを、切り離されて対象化された非日常の瞬間を解釈させたり、本当の意味や隠された真実を示唆するものとして受け取ることはできない。裏側として示されるような語りそのものも込みで、設えられた場から私が何かを受け取ったり感じ入ったりすることは、虚構を介してほかでもない彼女と私の、ほかでもない現実が組織される(されつつある)という事態であろう。

 もちろん、これは一般的な「虚構」という枠組みが意識されにくい現実の友人たちとのコミュニケーションにも当てはめることは可能である。だが、そもそもアイドルが、非対称なかたちで、操作された、設られた場によってしかコミュニケーションが成立しない以上、そこで組織される現実は、感覚的であったり物理的な生々しいリアリティに支配された私が身を置く現実とは異なることも確かである。同時に、アイドルによって組織される現実は、舞台や虚構と呼称され、当の現実から切り離されて安定的に定位されるものなどでは決してない。当の現実において根拠とされる何がしかを喪失しながら、常に侵食可能性を秘めたパラ-リアルとして、私たちの生の営まれる現実にあって明滅している。

■イメージの流通

 虚構は発信者から離れて非人称化されたのちに、受け手である私を介して変容した現実を組織する。ここまで、虚構の受け手である私の問題としてそれについて書いてきたが、再度、セルフイメージの流通の問題へと立ち返りたい。ふたたび、齋藤飛鳥の言葉を下記に引用する。

若のブログでは、わたしは真っ直ぐで白いってあった。
白いって表現、久々にしてもらったなぁ

昔ね、橋本さんがブログでわたしの事を"全てが真っ白で大事にしたい"って書いてくれたの。なんかよく覚えてるんだー。

いつからか言われるようになったのは正反対。
黒い、暗い、ダーク、とか?

暗いのなんて事実だし、どっちが良い悪いとか
嬉しいとかそうじゃないとかは全くないんですよね。

乃木坂にいながら自分が変わっていく姿を皆さんに見てもらってる。特に若~い頃からいるし、我ながら変化は多いと思います。   でも変わっていない事だって沢山ある。守ってる物だってある。 だから、なるほど正反対になるんだ~ って不思議な気持ちです。

──2017年7月22日の齋藤飛鳥のブログ
(※アーカイブ
https://janelin612.github.io/n46-crawler/mb/asuka.saito/?no=15

鏡でも写真でも、本当の自分の顔はわからないのです。
じゃあ、私は皆さんからどう見られているんだろう。
〔…〕
先程述べた、周りがつけた私のイメージ。否定する気は一切ありません。見た人がそう感じたならばそれでいい。実際は全然違うとしても、自分の本性を見せる必要はそこまでないのかも。
〔…〕
でも自分自身、自分を間違ったイメージで見ていることもあります。
最近「運動神経がいいね」と言われることが多いんです。運動の専門のかたにも。
〔…〕
思い込みだったのかなあ
自分の知らない部分も、たくさんあるものです。

──「齋藤飛鳥、書く」第1回(『別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46』vol.1、KADOKAWA、2016年)

私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています。

──「日経エンタテインメント!アイドルSpecial 2017」(日経BP社、2016年)齋藤飛鳥インタビューより

 ここでは、齋藤飛鳥自身の抱えるセルフイメージと、流通するイメージとの齟齬について書かれている。それぞれの文章は同じタイミングで書かれたものではなく、揺らぎのある内容から二つのイメージに対する距離感が決して安定しえないものであることがうかがえる。だが、それでも彼女は二つのイメージをある程度フラットに扱っており、かつ、その心境を発信するという点において、きわめて自己言及的に流通するイメージへと向き合っていたのではないかと思える。私にはそのような一連の言動を前提とした彼女の振る舞いが、きわめて魅力的なものとして感じられていた。

 問題とされているのは、流通するイメージに逆照射されるような、発信する側の変容の問題である。では、逆に、流通するイメージを受け止める側にはどのようなことが起こっているのだろうか。
 好例となるのが、妄ツイと呼ばれるファンの活動である。乃木坂に限らず、広く芸能人は、夢小説と呼ばれるような二次創作の対象とされることがままある。乃木坂においても、架空の握手会レポ、小説投稿サイトでの二次創作(カオスストーリーなど)、妄想ツイート(通称 妄ツイ、Xとnoteを主とする)、妄想トークInstagramを主とする)などが挙げられる。これらは、ポルノイメージを含むものも少なからず存在し、それらは多くの場合、高いインプレッションを集めているが、そのほかのジャンルも多数存在する。私は、2017年ごろに妄ツイと呼ばれる界隈の、中でも、カオスストーリーから流入してきた物語調・小説風のものをメインで書くコミュニティにかなり深く入り込んでいたことがある。

 そこで描かれるメンバーというのは、基本的には各番組や雑誌、SNSを主とした、既存のイメージのパッチワークであることがほとんどだ。時には、おそらく筆者個人の経験が反映された人物造形であったり、特定の物語の典型を踏まえた造形が用いられることもある。また一方で、主人公としてメンバーたちとコミュニケーションを営む架空の男性キャラクターは、これは特に10代の中学〜高校生の「書き手」に顕著だったが、世界的なスポーツ選手やスター、特殊なプロフェッショナルであることもしばしば見られた。それがどのような願望を反映しているかというのはいったん置いておき、注目したいのは、彼らは単に可愛いアイドルを見ることだけではなく、彼女たちとの関係を妄想する上で、何らかのかたちで理想化された主体を立ち上げるという点である(それが十全な自己投影かはともかく、対象化された存在としては描かれてはいない。ほとんどの作品は会話をベースとした一人称であり、三人称でただ特定のメンバーの姿だけを書くといったパターンは皆無である)。
 妄ツイ界隈では、受験生、浪人生、大学生が書き手のボリュームゾーンを占めていたが、年齢としては10〜20代後半くらいまでの書き手が確認された。ややはばかられるのだが、彼らに共通していたのは、一人で自由に過ごせる時間が確保しやすい点であったように思う。受験生や浪人生の「書き手」たちは、入学を期にそのような活動をやめる。彼らは、アイドルという虚像を通して自己投影的な物語を書き、それによって特定のネットコミュニティにおいて社会化されていたとも言えよう(当然だが、すべてがその限りでは全くない。あくまで私が観測した限りでの一つの傾向である)。

 流通するイメージ、それは二次創作界隈の中で切り貼りされながら再生産されてゆく様に顕著に見出せるものである。だが、流通するイメージは、その実態において、メンバーの不埒で卑俗で自己満足な虚構を立ち上げるといったステレオタイプに収まる限りのものでは決してない。動機も様々な書き手たちによって書かれる物語には、アイドルを通して虚構の場を立ち上げ、理想化された強固な主体として視点主を再定位する働きが見られた。 それは、イメージの流通という場において見出される一つの現実の変容のあり方であろう。こうした状況は、虚像と戯れることを戒め、問題化するよりも、アイドルとセルフケアの確かな結びつきの一例として捉えてみる方が、私には有益なものと思える。

■実体的な関係へ

 当時の妄ツイにおいて齋藤飛鳥西野七瀬白石麻衣の三人は特に人気があり、彼女たちはみな、何がしかの弱さや脆さ、危うさを抱えた存在として描かれがちであった。そしてまた、齋藤飛鳥は他のメンバーと比べてもイメージの流通の主たる対象とされてきた。SNS上にとどまることなく、ライブ会場、いわゆる現場においてもそうであった。
 かつて、橋本奈々未のことを齋藤飛鳥が各所で「俺の嫁」と発言していたことが発端となり*19、ライブ会場では本番前に客席のファンたちで「俺の嫁」コールをするという定番化されたくだりがあった。このコールはネタ元である齋藤飛鳥に向けられたものが特に多かったが、彼女自身の人気の上昇に伴い、いつしか「俺の嫁」コールは発端のネタ性ではなく、字義どおりの意味によって齋藤飛鳥への推し感情を発露するものとみなされるようになっていった、と私には感じられた。だがそれでも、ライブ会場でみられた「俺の嫁」というネタは、コールが向けられる齋藤飛鳥に関する何らかの流通したイメージを前提としていることは変わらなかった。齋藤飛鳥は卒コンという、自身最後のアイドルとしてのステージのラストで、そのような「俺の嫁」に言及してみせた。

今日で卒業します。
明日からは、恋とかもするかもしれませんね。
お前らの誰かの嫁が、飛鳥になるかもしれませんね。
俺の嫁』ですね。じゃあ、さよなら!

──2023年5月18日「齋藤飛鳥 卒業コンサート」DAY2でのスピーチ

 こうした言葉は、単にガチ恋や疑似恋愛がどうとかいった話ではないことは明らかだろう。ここでは、私をはじめたとした多くのファンと、当のアイドルの間で積み重ねられてきたコミュニケーションの歴史が凝集されており、かつ、彼女自身が、ファンたちのあいだで培ってきたイメージとしての、虚構に身を置く“齋藤飛鳥”を「悪くない」と思ってくれていると感じられるものであった。

 ここまで書いてきたとおり、改めて、私は虚構/現実の区分を重視したいと考える。というのも、なんであれアイドルとはそのような区分自体を前提とし、かつ前景化する場であるからだ。むしろ、このような図式を当の現実に持ち込むことこそが「虚構」の役割でもあろう。アイドルとの関係の築き方は、ファンの目線からすれば現実での他者との関係と類比的であり、他者一般と同じくコミュニケーション上のマナーを守るべきと考えることも自然である。
 だが、それが生活現実とは異なるのも確かであり、ゆえにアイドルとは、パラ-リアル、パラ-ソーシャル、パラ-パーソナルで、逃れがたい私の現実を宿主として寄生(パラ-サイト)しながら、その主従関係の反転を迫ってくる(宿主の法をかき乱す)ものである*20。対立する虚/実の絶え間ない揺れ動きによって、私たちは演者の生の実相を受け止める。虚/実というのは、あくまで枠組みを定めるものでしかなく、ひとたびその対立が問題となる場=虚構へと関わりを持てば、演じ手も、受け手も、ともに不可避的な変容を被り、それが新たな現実として組織されることになる。そして、演じ手であれ、受け手であれ、自らのアティチュードを自覚的に変容させることで、虚構や流通するイメージとの実体的な関係を持つことができるのである*21。私自身にとってであれば、当の対象と交渉の余地を持ち、あわいに生まれたイメージの振る舞いに自覚的であることがなによりも重要である。

すべては”あしゅりん”という名から始まってるけど、それこそブログだって、今と人格違いますしね。笑

でも、なんにも無かったんだ、私に。
いっぱい装飾したり殻を作って閉じこもったり、そういう事しか思いつかなかったんだー。
そこから色んな私を見せていったから、失敗も、色んなパターンで経験しました。
最悪な時期も、ちゃんとありました。
焦ってもがいていた時間、決して短くはなかったと思います。

だけどその過去、経験できて本当によかった。 当時はまったくそう思えてなかったけど、あれが無かったらたぶん、私って私じゃないです。
〔…〕
私、昔からほんとうは思ってる事があっても言わなかったり、誤魔化したりするじゃないですか。
それによって誤解された事もたくさんあっただろうし、時には寂しい気持ちにさせてしまったかもしれないけど、
ありがとう。
それでも私を包んでくれる人たちばっかりで、嘘偽りなく、みなさんに救われています。

──2022年11月4日の齋藤飛鳥のブログ
(※アーカイブ
https://janelin612.github.io/n46-crawler/mb/asuka.saito/?no=1

私は、ずっとですね、あの、自分のことをお話ししたりするのが恥ずかしいなあって気持ちがありまして。
たぶん今こうやって、しっかり皆さんに、じゃあ飛鳥好きにしゃべっていいよっていうお時間をもらえるのって、私が、自分がセンターをやってまわった全国ツアーの時以来なのかなあって思うと、まだちょっと、気恥ずかしいような気もするんですが、
……うーん、だし、この恥の気持ちっていうのを、大事にしたいなあっていう風にも思っていたんですが、こうやって、自分の中の、大事な気持ちを皆さんに、お話ししたり、する時に、なんかもじもじしたり、恥ずかしいなあとか思ってるばっかりじゃあいけないなあと思って、そんなことも、11年で学べました。
〔…〕
せっかく作れた素敵なパフォーマンスを、皆さんに、いいかたちでお届けしたいなと思います。

──2022年11月5日『ここにはないもの』初披露生配信での挨拶

 卒業に際して齋藤飛鳥が語った言葉の数々は、いずれも彼女とファンの関係にとって大きな意味を持つものだったろう。そして私はまた、何でもない日にイヤホンをつけて家を出る。音楽アプリから『あの教室』を何気なく流す。私の歩調が時おり、曲のテンポと一致し、晴れた日の街中に、乾いたギターと透明な歌声が淡白に響く。歌詞を無言で口ずさむ。少しだけ心地の良さを感じたりする。私と楽曲に宿る現実は確かに変容しており、そこでは、彼女たちの姿や、無関係なある日の発言などが意識化されない程度に頭をよぎってゆくだろう。ことさらに何かを鼓舞されることがなくとも、変容と意識されることがなくとも、ある現実が営まれる。虚構によるささやかだが確かな現実への介入、私はそれに、構えることもなく身を委ねているだろう*22

みなさまご自愛ください! では!

──2022年12月26日の齋藤飛鳥のブログより
(※
アーカイブhttps://janelin612.github.io/n46-crawler/mb/asuka.saito/?no=0

▲目次へ戻る

 

5期生ことはじめ

あの光そいつは
古びた街の
ガス燈でもなく
月灯りでもない
スポットライトでなく
ローソクの灯じゃない
まして 太陽の光じゃないさ 

あの光 そいつは
あんたの目に
いつか 輝いていたものさ

──浅川マキ「それはスポットライトではない」1972年


■心にもないこと

 32ndシングルのカップリングとして公開された池田瑛紗センターの5期生曲のタイトルは、『心にもないこと』である。「心にもないこと」とは、内心と異なる発話によって、意図の伝達に失敗したことが一般的にイメージされるだろう。それは、本作の歌詞にも端的に表現されている。

言葉って あやふやで
真実が見えなくなる
感情に流されて
ほら 違うニュアンスで受け止められちゃうよ

 歌詞に書かれている内容は、ここまで扱ってきた話題とも無関係ではないだろう。そこで本稿では、1期生を中心とした話題から一転して、昨今のクリエイティブを刷新すると見なされる5期生において、どのようなアプローチがなされているか、『心にもないこと』のMVを起点として確認してゆこうと思う。

 『心にもないこと』のMVは、生活空間を模した舞台上でなされるパントマイムからはじまる(便宜的に、これをドラマパートとする)。カメラは自由なアングルのワンカットで舞台上を移動してゆき、サビの直前のタイミングで、カンバスと連続したかたちで設定された窓枠(特定のフレーミングあるいは構成的な配置)へと収まってゆく。歌詞では「違うニュアンスで受け止められちゃうよ」と歌われる。ここにおいてまず示されるのは、外からの見え方=切り取り方とは、実際の内実(自由なカメラワーク)の限られた一側面(特定のカット)でしかないということである。

 続いて遷移する歌衣装によるパフォーマンスパートでは寄りのショットが繰り返され、2サビ以降では舞台の外側から向けられたカメラアングルによる俯瞰のショットが交互に差し込まれる。アップショットはそもそも演者の「キメ顔」という外への志向性をしるしづけるものであり、舞台の外から内へと向けられる俯瞰のカメラアングルと、外を介して被写体に働きかける点で動機を共有している。ネオンで組み立てられた囲いは、カメラが外から斜めに映し出す際や、その内側を動く際には「家」というモチーフを立体的に捉えてみせるが、カメラが正面に据えられた際には線遠近法(=二次元に再現された三次元性)を連想させる床面の空間分割と*23、奥行きが圧縮されて線による立体感を失った家の囲いによって、総じて平面的な見えに着地する。
 ゆえに、歌唱パフォーマンスが正面から映る場面では、画面全体が構成的なものであるという印象が強まる。このように、MVには、正面性を介して平面と奥行きのコントラストを強調するカメラワーク、室外と室内、観客と舞台、パントマイムによって表現される見えるものと見えないものといった、感知できるもの/感知できないもの、可視/不可視、虚/実の対立がパラレルかつ執拗に示される。

 サビ前のドラマパートでは、窓から外へと目線が送られ、カメラはその様子を外から映し出していた。フレーミングは常に外からなされるものであったが、Cメロから落ちサビにかけて、歌衣装の彼女たちを縁取る線が明滅し、室内においてカメラで記念撮影をするパントマイムが行われる。すなわち、MVは、囲いの「外」からなされるフレーミングを「内」において実行するつくりになっている。執拗にパラフレーズされた、内/外の対立はMVの後半で、かような①室内・アップショット・フレーミング・色味の反転といった目まぐるしい演出の畳みかけと、②ラストカットの花瓶に刺された花束(パントマイムの対象とされていた際には何も存在しない花瓶だった)、これら二つの要素によってドラマチックに差異を抹消される。歌詞に即して言えば、まさしく「境界線がぼやける」のである。

 公式のリリース文によれば、MVのテーマは「日常とアートの融合」であるという*24美大生である池田瑛紗のキャラクター性から「アート」への目配せがなされていることを踏まえれば、ここでの「アート」とは、いわゆるデペイズマンや異化効果といった文脈を辿るまでもなく、「非日常」を意味していることは明らかである。今作は、MV自体が、その出発点において「日常/非日常」という対立に貫かれていると言えよう*25。ゆえに、タイトルや歌詞も相まって、隠喩的に繰り返される虚/実の対立は、アイドルそのものを見るファンの日々の目線の築かれ方にもパラフレーズされるものとなるだろう。 

 今回のMVが5期生のどのようなストーリーを描き出しているのかは分からない。また、ソリッドな画面に対して膨大な裏設定が存在するとも言われるが*26、残念ながら、私にはせいぜい美大をキャラクターとする池田を中心に据えた、図像イメージや視覚芸術に対するアプローチくらいにしか感じられなかった。だが今作は、(曲自体が好きという大前提は多分にあるが)『あの教室』や『ぜんぶ夢のまま』に通ずる、虚/実のギャップをラディカルに描き出し、ロマンチックにそれを乗り越えうる場面が示唆される点が非常に好ましく思えた*27 

■5期生のコンセプト

 2023年3月29日の猫舌SHOWROOMの中で、菅原は『心にもないこと』は「色んな自分の気持ちに合う」と語っている。それを受けて井上は、先輩期生の楽曲がグループの歴史を踏まえたものであったことへ言及した上で、「5期は大衆に向けて、この感情をいまの私たちが歌うからこそのものもある気がしていて」と指摘し、パフォーマンスの中で自分たちの解釈を深めてゆく展望についても語っている。あくまで生配信でなされたやや抽象的な二人の会話で語られているのは、『心にもないこと』が楽曲の聴き心地と歌詞の二点において、多様な見方を可能にする余地があるということだろう。

 興味深いのは、聴き手目線での菅原にとっても演じ手目線での井上にとっても、『心にもないこと』には、さまざまな場面にマッチしたり継続的な解釈をかき立てるような、ある種のニュートラルさや、明示的な意味を欠いた空虚さがあることだ。私は、こうした希薄な主体性がアウトプットされている際に、「乃木坂」というグループのなにか継続的なコンセプトの働きを感じる。初期の頃から、センターをドラマの中心から一歩ずらすなどして、その空虚さへの屈託を描いてきたわけであるが*28、個人的な感覚として、昨今のクリエイティブでは内省的に自身の空虚さが深掘りされることはあまりない。むしろ、表層的なレベルにとどめるかたちで発露されているように感じられる。

 先のSHOWROOMでの井上の発言に戻れば、5期生が『心にもないこと』に現れる「感情」を「いまの私たち」として「大衆に向けて」歌うことに意味があるとすれば、まずもってそれは、先輩期生や、成熟した彼女たちによってパフォーマンスされた場合では意味が変わるということであろう。
 思えば『絶望の一秒前』の「紛れ込んでしまった僕の見つけた夢」や『バンドエイド剥がすような別れ方』の「消える幻のような夏の恋」といった、実体の無さを示すモチーフが初期の5期生曲の歌詞の中には現れている。この実体の無さは、新期生であるがゆえに見方の定まっていない彼女たちへと向けられるファンの視線のありようともパラレルであった。実体を掴めないという自己言及性は、ファンにとっての自己言及性でもある。このような複層的な「実体の無さ」は、『17分間』の「君を見ていられる夢の17分」を経て、明確な好意として描かれてゆくようになる。『心にもないこと』では「好き」という言葉が口にできず、『考えないようにする』では「好き」になってはいけない人を好きになる。『いつの日か、あの歌を…』では、直接的に後輩期生としての心境が歌われ、落ちサビの直前には「近づけない」といったフレーズも登場する。

  かようにして、5期生曲では、夢や恋といった広くは「憧れ」に対する掴めなさが歌われている。「憧れの掴めなさ」は当初は実体の無いモチーフであったが、徐々に、具体的であっても十全に発露できない恋として、内面的には具体化されるようになってきている。最新曲では隠喩的な次元は取り払われてしまっているが、扱うモチーフ自体は変わっていないように思える。5期生のコンセプトは明示されていないと思われるが、1・2期生を中心とした「屈託のある自己」の上演を、グループが刷新された現在において何らかのかたちで再演しているのが5期生であるのかもしれない。彼女たちは、実体の無さを重層的な演じ直しとして歌うが、それはノスタルジーでない、ある種のゲーム性のあるリエナクトとして現れているように思う。

 話は逸れるが、個人的に、4期生をコンセプチュアルなものとして語ることは難しい。『I see…』がグループの垣根を越えて受け入れられたことからも、まずもって期生のイメージを象徴するのはこの曲である。初期体制においては、グループのリバイバルも企図されていたと思えるが、同曲の大ヒット(YoutubeのMVを再生数順でソートすると、表題曲に交じって唯一カップリングとして上位に位置している)によって4期は、少なくとも現時点では、グループの歴史にとらわれたきりではない軽やかな立ち位置を確立している。最新の期生曲である『ジャンピングジョーカーフラッシュ』も、『I see…』の「wow wow」と同じく、サビに「GO GO」というフェイク(無言歌)に近いフレーズが用意されている。4期は、そのような表層的な表現に秀でた期生ではないだろうか。ここで「表層的」と形容していることは、決してネガティブな意味ではない。アイドルがパーソナリティや個々人・グループの物語といった楽曲の外側から演出される奥行きによってそのパフォーマンスが楽しまれることを思えば、4期生の楽曲が表層的な次元で完結して魅力を発揮していることは、翻ってそのパフォーマンスの強度を示しているといえよう*29

 ここまで、『心にもないこと』における虚/実に対するアプローチを確認した上で、SHOWROOMでの発言を手引きとして、5期生のコンセプトを「憧れの掴めなさ」として捉えた。そのようなモチーフは、自己の上演における「実体の無さ」とも不可分なものであっただろう。続いて以下では、5期生がグループのセンターを務めた表題曲『Actually…』と『おひとりさま天国』を見てゆきたい。「実体の無さ」あるいは「憧れの掴め無さ」について、これら二つのMVの取り組みは好対照をなしている。

■Actually…①

 30thシングル『Actually…』は、センターを務めた中西アルノに関して出回ったゴシップに端を発する、ファンの苛烈な反応を顕在化させた騒動の渦中においてリリースされた。当初は国際的な映画監督である黒沢清による長尺のMVが予定されていたが、事態の深刻化に伴って活動自粛へと追い込まれた中西の現状を踏まえ*30齋藤飛鳥山下美月をセンターに据えたダンスパフォーマンス主軸のMV公開へと至った。本稿では、特典映像としてのみ公開されることとなった黒沢版のMVについて言及してゆく。

 黒沢版のMVのストーリーには、グループ内における新旧メンバーの対立として読み取ることが容易であるため、先の騒動に関連したファン目線の投影も含む緊張感が(特にリリース当時は)存在した。だが、野暮な憶測を呼んだMVの内容は、あくまで乃木坂のクリエイティブにこれまで関わったことのない黒沢が、手元にあった情報で客観的な立場から構築可能な程度のものに過ぎない。状況の変化や新しさに対して双方が異なる不安を感じるのはごくごく一般的な感情である。  

 MVは、ショートドラマと楽曲パフォーマンスによって構成され、全体で約20分程度の尺となっている。ストーリーは、山下美月が不安に駆られて中西アルノを古いスタジオに閉じ込めてしまい、それを聞きつけた齋藤飛鳥が中西のもとへ向かうといったものだ。終始、抑揚を抑えた演技によって進行する会話劇の中で注目したいのは、前半の山下美月によるグループの変化に対する不安の吐露ではなく、中盤以降の、齋藤飛鳥と中西の掛け合いの場面である。その中で、グループの異物として扱われているという中西は、齋藤飛鳥に対して、二人が「同じ」であること繰り返し口にしている。

中西:私はどちらかと言うと、大勢の中にいる時ほどひとりぼっちを感じるタイプです。齋藤さんもそうでしょう?
齋藤:私はひとりぼっちなんかじゃありません。
中西:意外でした。
〔…〕
中西:齋藤さんはやっぱり私にとって特別な人です。私と齋藤さんの中には、きっと同じものが流れてるんです。
齋藤:同じじゃない。同じなわけないでしょう、あなたと私は。
中西:そうですか、残念です。

 山下は中西のことを「手なずけ」「こちら側に取り込まなければならない」と語っていたが、齋藤飛鳥は、その当人である中西から、同じ存在であると語りかけられるのである。齋藤飛鳥は当初それを否定していたのだが、二人の掛け合いの最後、中西が下記の台詞を口にしてその場を立ち去ってゆく際に変化が起こる。

齋藤:中西さん、本当のことを言うと、あなたは仲間たちから少し遊離しているように見える。そのことに不安を感じている人もいるんじゃないかな。
〔…〕
齋藤:やっぱりあなたは仲間たちのところに戻らない方がいいのかもしれない。
中西:戻りますよ、私。もちろん。
齋藤:戻って何をするの?
中西:歌ったり、踊ったり、ワクワクします。全部新鮮です。どんな孤独にも増して、この楽しさこそが私がここにいる理由なんだって、いま、はっきり理解できました。

 少なくとも中西の最後の言葉は、ファンが求めるアイドル自身のモチベーションとして理想的かつ模範的なものであるだろう。このように語る中西と、齋藤飛鳥が同型であったとすれば、そこにネガティブな意味が生まれるとは思えない。この台詞を聴いた齋藤飛鳥は、明確な返答をせず、同時に、立ち去った中西の後ろを追うこともできなくなる。それはなぜだろうか?理由は様々あってよいと思うが、シンプルに、中西の語る「ここにいる理由」とその心情は、齋藤飛鳥や、グループで共有されている心性と変わらないものであった、あるいは、かつての自分たちが見ていた夢や憧れの破片を示しうるものだったのではないだろうか。ゆえにこそ、中西と山下の一方を否定することもできず、二人のあちらとこちらの「側」で揺らぎ、身振りを喪失してしまったと私には思えた*31

 続いて、中西との会話を終えた齋藤飛鳥は、山下のもとへ結果の報告に向かう。無事の確認が取れても、なお不安をのぞかせる山下に対して、齋藤飛鳥は寄り添うようにして語りかける。

齋藤:これから辛い時もあるでしょう。苦しい時もあるでしょう。眠れない夜もきっと来る。これはね、美月がどんなに嘆いても仕方のないことなの。私たちが絶対に避けては通れないことだったの。だから引き受けよう。この変化を、ありのままに。私たちには仲間がいるじゃない。何十年もたって、みんなすっかりおばあさんになったとき、たくさん思い出話をしましょう。あんなこともあったね、こんなこともあったね、でも楽しかったねって。まだまだ先のことだけど、想像するとちょっとウキウキするでしょう。だからこれでいいの。いいことにするの。

齋藤飛鳥の台詞では、未来における想起のうちに、現在の生の根拠が見出されてゆく*32。この「想起」に置かれた重点を確認するにあたって、その含意するところを強調する意味でも、当該の台詞の着想元でもあろうチェーホフの戯曲をエクスキューズしておこう(当時公開された濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を意識していると思われる*33)。

でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね。ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱つよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ、嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合わせな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち、ほっと息をつけるんだわ。

──アントン・チェーホフ「ワーニャ伯父さん」『かもめ・ワーニャ伯父さん』神西清、新潮社、2004年

楽隊は、あんなに楽しそうに、力づよく鳴っている。あれを聞いていると、生きて行きたいと思うわ!まぁ、どうだろう!やがて時がたつと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹だったかということも、みんな忘れられてしまう。でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変って、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。そして、現在こうして生きている人たちを、なつかしく思い出して、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだまだおしまいじゃないわ。生きて行きましょうよ!楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!

──アントン・チェーホフ「三人姉妹」『桜の園・三人姉妹』神西清訳、新潮社、2011年

 

■Actually…②

 黒沢版のMVにおいて、なぜ、最後に示される希望は「想起」であったのだろうか?私はこの問いを「幽霊」という観点から考えたい。作中で、グループにとっての異物として存在する中西は、乃木坂という時間の外側に置かれている。かつての古いスタジオ、忘れられた場所に閉じ込められ、みんなから遊離して見えるという。中西は、古参メンバーである齋藤飛鳥に対して、「同じ」であると語りかける。乃木坂を「こちら側」と語る山下が、乃木坂の「現在」の隠喩であるとすれば、齋藤飛鳥は「過去」、中西は「未来」を示すものとまずは言えよう。であればこそ、「現在」から距離のある二人は、まさしく中西の語るとおり、同じ存在、現在とは異なる時間的位相に位置づけられうる「幽霊」にほかならない。

 そして、揺らぎの中にある齋藤飛鳥は二人の間で、越境的でもないけれど、それでも、二つの世界の触媒として振る舞う。パンタグラフのように、二つの世界の交信を可能にする点において、彼女は対象化された限りでの「過去」ではない。実在的質があり、触れることのできる「過去」。ここにおいて示されるのは、動的な「過去」の働きかけによって、「現在」とは異なる「未来」が持ち込まれる様であろう。瓦礫のように堆積した過去の痕跡や断片が、単にこの現在から解釈されるのではなく、そこにおいてありえた別の歴史の可能性や、進歩とは異なるかたちで現在に対する批判性をもたらす、そのような過去の側から現在への「逆撫で」が起こる。過去の想起によって未来の一瞬一瞬が転じうる*34
 中西が過去の集積した「古いスタジオ」から、未来を示すとしたら、それはまさしくかような、単に進歩的な価値観による新しさを提示するという意味ではなく、根本的に別の時間から現在時を逆撫でするという事態であろう。古いスタジオに漠然とした不安を閉じ込める山下はせわしなく進み続ける「現在」を示し、古いスタジオへの自由な行き来が可能な齋藤飛鳥は「過去」を、古いスタジオに入ると出られなくなる中西は、かつて夢見られていたが復活を待つばかりとなってしまったものとしての「未来」を示す。今作は、顕在化した過去としての幽霊(齋藤飛鳥)と、到来しえぬ時間として別の位相に存在する幽霊(中西アルノ)、二人の幽霊が対話することで、「現在」という時制(山下美月)になんらかの紐帯を結ぶものであったと思える。

 そもそも、監督である黒沢は数々の映像作品の中で、メディア上に現れる落ち着きどころのない身体を描いてきた。『叫び』『回路』『リアル』『CURE』『散歩する侵略者』をはじめ、幽霊、写真、夢、狂気、非人間、宇宙人といった、現在時における正常な人物の現われと対立する存在を、ほかならぬ「映画」という表現(過去を映し出すことしかできないメディア)の中で扱ってきている。
 『Actually…』を振り返ってみれば、少なくとも、MVのドラマという枠内での生と、職業としてショーアップされた生、二つの虚構的生に身を置く彼女たちは、厳密な意味では「生きていない」=「幽霊」であると言えるだろう。映画が「作りもの」であり「過去(幽霊)」を映すものであることへの強い自覚がなされている黒沢の映像作品において、そこに存在する幽霊たちが何らかの強度や身振りの説得力を抱えるとしたら、それは幽霊としての自己言及性に基づきながら、定位された時間から逸脱することによってだろう。ゆえにこそ、MVの中で、「希望」として示されるのは、未来において「想起」「語られうる」ことであり、過去が現在において再帰しうること(=救済・復活)であると私は考える。今作で示されるとおり、「過去」が「現在」へ向けて振り返るのだとすれば、そこに立ち現れ、生きられる「現在」とは、刹那的な時間のスライスの連なりの一葉ではない、過去との結びつきや実質を伴った「現在」、すなわち「actual」に他ならないだろう。

 余談ではあるが、NHK俳句でレギュラーを務める中西アルノは、同番組内で詠んだ自身の句について、下記のように語っている*35

「噴水に人を待つ白ワンピース」

私はいま、この句を人が待っていると説明したんですけど、もう一つ実は意味があるというか。白ワンピースを着た人は、人とは限らないんじゃないかなと私は思っていて。例えばそれは「幽霊」かもしれないんです。

 

■おひとりさま天国

 『Actually…』では、「憧れ」がかつて夢見られたものでありながら、現在を脅かすほどの実効性を持ちえるものとして描かれた。なおかつ、出演した三人は、いずれもなんらかの理由で幽霊的な存在として現れており、ある種「空虚な存在」でもあった。では、もう一つの5期生センターの表題曲においてはどうであろうか?

 井上和がセンターを務める33rdシングル『おひとりさま天国』では、MVにおいて様々な「個性」に結びつくイメージが採用されている*36。このイメージは、与田祐希であればTVドラマ『量産型リコ』を踏まえてプラモ部屋が用いられるといった具合に、必ずしも継続的に示されてきたパーソナリティが反映されたものではない。MV内ではすでに流通したイメージによる、いわばレディメイドなメンバーの姿が画面を占めている。MVの中で無個性な存在として描かれる井上和が巡り歩くのは、アウトソーシングされたカッコ付きの「個性」であった。ゆえに、歌詞において語られるような典型的なエンターテイメントを生きる姿が、ある種の軽さをもって描かれてもいる。ここには、「個性」に対する屈託や重さがいい意味でほとんど感じられない。典型的な生を謳歌することはできないが、MVでそれは過剰に相対化され、典型的な自己充足の源泉とされる「個性」が脱神話化されている。換言すれば、『おひとりさま天国』では、過去のイメージのパッチワークとして個性を描き、そのような先立つものとしての外在化された「憧れ」に至りえない「空虚な主体」をこそ充実したものとして描き出しているといえる。

 『Actually…』において、そもそも黒沢清起用の意図として「黒沢的なもの」への期待があったことは明らかである。乃木坂と接点の全くなかった黒沢は、あくまでイメージとしての新陳代謝にまつわる葛藤をドラマに仕立てた。繰り返しになるが、中西アルノを取り巻く当時の騒動をして、当作は予言的な一致をしているとも見なされているが、事態はむしろ逆で、門外漢が想像できる程度のありふれた新旧の対立の範疇で現実の騒動が起こったのである。少なくとも、黒沢の描いた物語において、乃木坂で無ければ成立しない独自性というのはテキストレベルでは存在しない。また、抑え気味の抑揚や、ラストの台詞には、公開直後かつ映画祭でも大々的に受賞した濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』への目配せが明確に存在する(二人は『スパイの妻』でも共同している)*37。乃木坂のクリエイティブにおいて黒沢的なイメージに基づくオーダー(観客の期待も含まれる)がなされ、作話の際には新旧の対立に関する典型的なイメージが用いられる、演出においては他映画のイメージが採用される。当作は、その生産過程において多分に外在的なイメージが織り込まれていると言えよう。

 一見すると全く異なるのが『おひとりさま天国』である。監督の伊藤衆人は、そもそもイメージを過剰化させることで、2期生のポストアポカリプスの世界観や『のような存在』、各種個人PVのキャラクターなど、新たなイメージを積極的に生み出してきた。今作でも、衣装には監督の好きなK-POPを踏まえたであろう Y2Kへの目配せがうかがえる。このような、イメージの接合によって新たなイメージの創出を図ってきた伊藤が、今作ではむしろメンバーに関する既成のイメージの転用を行なっていることも無視できないだろう。

 MVの物語やパフォーマンスでは対照的な二つのMVには、「空虚な現れ」と「憧れ」といったテーマが共通して存在する。加えて言えば、そこでは共にクリエイティブの中に外在的なイメージが持ち込まれ、そこへの屈託こそが焦点化されているのである。

■真夏の全国ツアー

 本稿では、『心にもないこと』を起点として、5期生のコンセプトを「憧れの掴めなさ」として仮設し、二つの表題曲にそれを敷衍しうることを示した。今回、ほとんど活動を追っていない5期生について扱ったのは、実態がどうあれ、私自身にとって4期生以降の世代継承というドラマにほとんど実感と興味がわかないため、むしろ、その軽やかな距離のままに乃木坂の現在について書いておきたかったからである。

 余談になるが、私は2023年の真夏の全国ツアーではじめて、1期生のいない乃木坂のライブを目にした。少なくともツアーライブに関しては、現在のグループの世代継承に関する屈託はほとんど感じられず、それが何よりも好ましく思えた。私は、グループの歴史によって相対化され続けてきた遠藤さくらに対して、パフォーマンスの受け取りづらさを常々感じていたのだが、昨年のライブでは彼女のセンター曲がいずれも遠藤さくら自身のものとなったことが感じられ、非常に印象深いものとなった。また、『Actually…』のフェイクの際の盛り上がりを現地で経験できたことも大きい。思えば乃木坂にはあおりなどで会場全体が高揚させられることはあっても、再現性のあるかたちで楽曲に身体的な訴えが組み込まれるということはほとんど無かったかと思う。中西アルノの歌声、あるいは身体性は、グループを文字通り刷新しうるほどの力があるだろう。

 最後に紹介したいのは、5期生の個人PVである*38。いずれも魅力的な作品ではあるのだが、本稿で注目したいのは、五百城茉央の個人PV『IOKI1000%』である。今作は同監督が手がけた五百城の最初の個人PVの続編という設定で作られている。前作において様々なことに挑戦した先に、新しい一面を見せるためにロックボーカルに挑戦するといった内容である。シンプルな歌モノかと思いきや、五百城の歌う曲の歌詞は、過去の彼女自身のブログの言葉を繋ぎ合わせて作られていることが映像で明かされてゆく。画面上で提示される新しい一面とは、五百城自身がかつてアウトプットしたイメージに基づいている。未来は、過去へ送られたまなざしを現在へと向けて再構成することによって生み出されているのである。

▲目次へ戻る

 

昨日、動く砂は

ズルしちゃだめ。ていねいに、ていねいにステップを踏むこと、ていねいに踊れば本当に楽しくなるし、楽しくなるとていねいに踊ることが自然にできるようになる。

──村上龍『KYOKO』幻冬舎、2000年


■語りえぬもの

 アイドルの基本的なパフォーマンスは歌とダンスである。昨今のMVではジャンルを問わず、「ダンス」表現があることは当たり前となっている。だが、「ダンス」について語ることは困難を極める。もちろん、特定のスキルムーブや、振りの忠実さ、特定のポージングやフォーメンションの構図といった客観的な基準を参照しうる点は評価することが可能だろう。だが、当人の身体に根差した何かは、限りなく言語化できないものである。それはもはや好悪によってしか語りえず、かつ、具体的に言語化することを強烈に拒む。これは例えば、「声の肌理」や「クオリア」といったものと近しい「質」の問題である。

  『SingOut!』を一つのピークとして注目されるようになったある時期からの齋藤飛鳥のダンスは、「うつくしい」「しなやか」など、流麗なイメージによって語られがちである。特定のイメージを形容する言葉を離れて次に圧倒的に多いのが「ようだ」という直喩表現である。コンテンポラリーダンスは、その実践の意図やメソッド、システムによって作品単位で動きの意味や質を評することがある程度まで可能であるが(例えば、第一線で活躍するウィリアム・フォーサイスのような理論的な作品においては顕著である)、それらを離れたときには無限のレトリックの源泉としてしか、ダンサー個人の動きというものは言語化されない。
 恐らく真にダンサーの固有性を客観的に捉えようとするのであれば、例えばゴダール研究者の平倉圭が、セザンヌの絵画表面に現れるドローイングをストロークひとつひとつに分けて分析したような*39、映像を介して全てのカットを分析するまでやらなければ不可能ではないかとすら思える*40齋藤飛鳥のダンスを、Seishiroをはじめとした振付家のレベルで規定された(例えばバレエ的といった)抽象化されたジャンルイメージを抜け出て捉えることは恐らくかなり困難だろう。ゆえに、この文章も当の対象の周縁をめぐることしかできない。

 本稿では、上記のような、いわく言い難いものとしての「ダンス」について、それがダンサー本人と結びつくという事態について考えてゆく。最終的に、「ダンス」と「身振り」のあいだに、ダンサー固有のアプローチとして「踊り」というレベルを位置づけたい。「ダンス」とは、ダンスという意図の伝達を前提とする。「身振り」とは、逆に意識化されえない日常の身体動作や無数の振れ幅を示す(今回は前者)。「踊り」とは、身振りよりも能動性が働かされつつ、しかしダンスというほどショーアップを前提としていない、そのような身体動作を指す語として捉える。以下ではまず、「ダンス」と「身振り」に関する二つの語りを通して、身体動作そのものがきわめて政治的なものとみなされていることを確認したい*41

■政治性と自己変容

 映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインは、カートゥーン・アニメーションにおけるキャラクターのフォルムが自由に変わるさまを「原形質」という言葉で説明した。その際、エイゼンシュテインは現実における同様の事例として、大道芸のパフォーマンスや、ナイトクラブのダンサーの動きを挙げている。

ニューヨークの黒人ナイトクラブの「スネーク・ダンサー」たちもまた、抽象的な模様の絹のローブを着てのたうち回る、同じ種類の生き物である……
〔….〕
人を引きつけること、その唯一にして共通の必要条件は、これらすべての実例から姿をあらわす──かつて-そして-永久に割り当てられた形式の拒絶、硬直化からの自由、いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力である。

──セルゲイ・エイゼンシュテイン「ディズニー(抄訳)」『表象07 特集:アニメーションのマルチ・ユニヴァース』今井隆介訳、表象文化論学会、2013年

 エイゼンシュテインはここで、身体の自由な使用によるフォルムの変容に対して、特定の規範から逸脱してゆく、ある種の「アナーキーさ」を見出している。
 これとは全く異なる観点から身体動作へと言及するのが、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンである。アガンベンは、19世紀末においては症例に過ぎなかったような身体動作が、20世紀に入ると「歩行」という身体動作として自明のものとなったことを挙げながら、近代社会における「身振り」の喪失と、それを何らかのかたちでもう一度取り戻そうとする人々の心性を指摘している。

自らの身振りを失った時代は、同時にまた、その身振りに取り憑かれてもいる。あらゆる自然さを奪われた人間にとっては、それぞれの身振りが運命となる。〔…〕時代がこのことに気づいた時(もう遅い!)、その喪失した身振りを死に際になって取り戻そうとする性急な試みが始まった。イザドラ・ダンカンやディアギレフの舞踏、プルーストの小説、パスコリからリルケにいたるユーゲント様式の偉大な詩、そして最後に、最も典型的なのが無声映画である。これらはある魔法円を描き出しており、その中心で人間は、永遠に完全に自分から失われてしまったものを最後になって呼び寄せようと試みた。

──ジョルジョ・アガンベン「身振りについての覚え書き」『人権の彼方に──政治哲学ノート』高桑和巳訳、以文社、2000年

 エイゼンシュテインアガンベンは、身体動作を見る経験を介して、それらがきわめて社会的に規定されたコードであるという前提を見出し、かつ「ダンス」や「身振り」に政治性を持ち込んでいる。恣意的なまとめではあるが、「日常における身振りすらも社会的に規定された状況下で、規範からの解放を示すような自由な身体の変容を示すのがダンスである」と、ひとまず言えるだろう。
 そして、まさしくこのような問題に向き合ったのが1960年代に土方巽らによって創始された「暗黒舞踏」(以下、舞踏)である。西洋式のダンスの否定、すなわちアンチバレエというモダンダンスにも通ずる問題意識によってなされた舞踏においては、「立つ」という動作一つとっても、ゼロ地点から模索されることになる。一見するとグロテスクでもある舞台上でのダンサーの蠢きは、ゼロ地点から身体の使い方を手繰る営み、文字通り、「生まれ直す」ことであり、自らの身体がきわめて内省的に問われてゆく。これは、戦後日本という社会状況とも無縁ではない。

 舞踏家のカルロッタ池田との公演テクストを母胎としたパスカルキニャールによる哲学的エッセイ『ダンスの起源』(桑田光平+堀切克洋+パトリック・ドゥヴォス訳、水声社、2021年)では、かような舞踏の思想に倣うかたちで「ダンス」について語られている。

ダンスは〈先立つ身体から抜け出した身体〉が外に在ることである。
〔…〕
ダンスとは、立ち去らずに外に出ることである。
〔…〕
ダンスは、みずからに先立つもうひとつの身体に──もう存在しないもうひとつの身体に──一生にわたって棲まう。もの言わぬ身体に訴える。言語以前の身体に。起源にある身体に。卵の中の身体に。わたし以前の身体に。主体となる以前の身体に。顔以前の身体に。鏡以前の身体に。肌以前の身体に。光以前の身体に。

自己を忘却するのだ。この世界にはもはやどこにも源泉をもたない自己自身について、自らの手で作りあげたイメージを抹消することである。それは現実への扉だ。〔…〕線から離れること。譜面から離れること。すると時を外れた〔=準備の時間のない〕状態になる。

 キニャールは、ダンスを、自らの身体という離れがたいものの内にあって外へと向かいうる実践として捉えているように思われる。ここでは、政治的なレベルを超えた自己変容であるという点が重要である。というのも、ダンスにせよ舞踏にせよ、オーディエンスに規定的な身体動作からの解放を示したとしても、あくまでそれは舞台上の出来事であるからだ。彼らが日常に帰った瞬間に、ふつうの生活上の動作は必ず実行されてしまうだろう。ゆえに、ハレとケに分割された政治的な観点からダンスを捉えることは、そのポテンシャルを矮小化しかねない。だが、自己変容としてのダンスは、日常動作や舞台上のパフォーマンスにおける、ある種の身体動作がその後も続いてゆく際の「演じ直し」の視点を示しうるのではないかと考える。コードに対する順応と逸脱という両極のはざまで、ダンサー当人の肉体的なレベルに回帰されるものがある。

 なにがしかのダンスを見ているときに、身体の過度な緊張やこれみよがしなヒットとリリースの緩急を目にすると、振りを追っているだけに見える、あるいは、どこか未熟な印象を受けることがある。逆に、肩の力の抜けた軽やか動きや、職人のように習熟した動きは、そこで披露されているダンスというものが当のダンサー自身の身体と深く結びついたものであるという印象がもたらされる(こともある)。何気ない所作にフェティッシュが掻き立てられるのは、そのようなダンサー個人の身体性が経験されるからではないか。日常の中にある「身振り」と、それらや記号化された身体語彙からの解放へと向かう「ダンス」のあわいには、無意識化されたコード的身体動作でも振り付けでもない「踊り」というレベルが存在すると思える。そして、この「踊り」こそが、規範化・秩序化された身体を変容させる過程で示されるダンサー個人の身体性を示すものと考える。「踊り」は、冒頭で語った言語化のできない領域に深くかかわるものだろう。

■乃木坂と振り付け

 ここまでで一度話を区切り、以下では乃木坂の二つの楽曲のダンスを見てゆく。とはいえ、私は「踊り」というかたちでダンサー個々人の身体的訴えについて具体的に語ることがやはりできないので、どちらも基本的には「振り付け」の問題として言及する。先に断っておくが、ここで挙げる二つの楽曲は、単に自分の振り付けに対する好みで選んだものにすぎず、政治性を念頭に置いて解放性を仮託するようなものではない。

 3期生結成当初よりシンメとしての立ち位置を確立してきた山下美月と久保史緒里がセンターを務めた32ndシングル『人は夢を二度見る』は、yurinasiaが振り付けを手掛けた。楽曲の歌詞では、幼少期の夢とそれに対する現在の距離感が描かれ、MVもその世界観に従っている。興味深いのは、フックとして配置された振り付けである。メンバーは前傾姿勢をとって丈の長いスカートをわずかに手繰り上げ、前後左右にごくシンプルなステップを踏む。この場面では、くるぶしから靴にかけての身体的な見えが振り付けと映像のレベルで強調されている。MVでは、現実から遊離して夢の世界を示すかのように抽象化してゆくシークエンスを「足元」にフォーカスしたダンスとそれに追従するカットが刺し貫く画づくりがなされているのである。
 夢想的な世界を描いたロマンチックバレエにおいては、チュチュの裾丈が伸ばされ、ヴィジュアル面で身体と地面との連続性を希薄化することがグラインドするようなダンサーの軽やかさの演出へ繋がったことを思えば、テーマとしての夢とモチーフとしての足元には、明確なコントラストが存在すると思われる。ゆえにMVでは、夢としての現れを反転させる役割が「足元」によって担われていると思える。また、私自身がダンスの語彙に明るくないので具体的には言及できないが、『人は夢を二度見る』のステップの振り付けは、初学者が基礎的な動作の練習に取り組む姿も想起させられる。幼少期への憧憬という楽曲のテーマに従った見えでもあるが、同時に、この振り付けの練習と本番の境目というのは、どこか他の楽曲のダンスパフォーマンスよりも曖昧な印象を受けた。
 上半身を固定して足元自体をここまで前景化してフックに配置した振り付けは、おそらく乃木坂には今まで存在しなかっただろう。乃木坂がダンスのイメージを発信し始めたのは17thシングル『インフルエンサー』によってであり、同曲はヴォーギングのような手振りがメインの表現である。1970年代の初期のアイドルダンスがそもそもスタンドマイクの持ち手ではない方の片手による手振りから始まったことを思えば、正面からの構図に取り組むために上半身を主とした表現に訴えることには正統性があった。ゆえにこそ、『人は夢を二度見る』は齋藤飛鳥に代表されるSeishiroのクリエイティブをはじめとした、さまざまな既知のグループカラーからの脱却を試みた、野心的な振り付けであったと私には思える。

 続いて挙げたいのは、16thシングル『サヨナラの意味』のカップリング曲『あの教室』である。今作は、その振り付けをコンテンポラリーダンスカンパニーのイデビアン・クルーを主宰する井出茂太が振り付けを手掛けた。おそらくグループでもコンテンポラリーを主とするダンサーが振り付けを行ったのは同曲のみではないかと思う*42。『あの教室』のMVは、日常世界を抽象化するかたちで進行し、舞台空間に場面が移った際にダンスが現れる。ライブでの披露の際には、MVの最後半部のスタンドマイクを前にしたオールディーズ風の振り付けのみが採用されているが、作中ではその他にもさまざまな振りが用意されている。MVのテイストに合わせるかたちで、齋藤飛鳥堀未央奈の二人は、どこか見慣れた動作をコケティッシュに反復し、過剰化させてゆく。井出の振り付けは、踊ることそのものはダンサーの身体のなりゆきにまかせつつも、過剰性をもたらすキャラを挟み込むことで、どこかユーモラスかつシニカルな身体動作に仕上げている。
 MVの振り付けは、明確な空間構成に対して、見栄えの良いダンス、かっこいいダンスを明らかに志向していない。しかし、ダンサー二人は、意図の不鮮明な動きを明瞭のかたちで示しており、個々の動きがワークショップ的に作り上げられ、ダンサー当人たちへ落とし込まれていったものと感じられる。そこで過剰化されているのは、ほかならぬ齋藤飛鳥堀未央奈の身体や、日常的な動作であり、特定の振り付けをなぞるのではなく、むしろ、二人が自身の身体語彙と振り付けのあいだを往還しているさまが見て取れる。



■踊りのこと

 本稿では、曰く言い難いものとしてのダンスを、まず規範からの解放として、続いて自己変容の実践として示した。そのうえで、規範的な身体動作のあわいに現れる「踊り」の位相を、ダンサー個人の身体性の現われと捉えた。
 ここまで、二つの楽曲の「振り付け」に言及したが、最後に「踊り」として、二つのMVを挙げたい。両者は全く異なる表現であるが(一方は演劇的であり、他方は即興的である)、ダンサー個人に根付いた身体語彙が、当人たちから立ち現れているということを強く感じさせる。その動作選択は、必ずしも独自性のあるものではないし、当人たちが関わってきたクリエイティブからの抜け出せなさもどこかで感じさせる。しかし、それゆえに、自己変容の渦中のプロセスに身を置くものであると思われるのである。先に引用したキニャールは、ダンスを「自己忘却」とも言い表していた。そこで忘却されるものは、決して当人の内的なもののみを意味しない。ダンス、ひいては、身体とは、そもそも他者によってしか見いだされえないものであり、当人が生を置く唯一の場でありながら、最も不可視化された領域である。自己忘却という名の変容には、不可避的に、まなざしを送る誰かが巻き込まれるのである。内省的でありながら、外への志向性が持たれ続ける。


※振り付けはCRE8BOY。また、平手友梨奈は初期の頃から振り付けに対して能動的に携わってきたメンバーでもある*43

星野源齋藤飛鳥へのリクエストが「自分自身の為に踊る」であったことを明かしている*44

踊るものは、踊りながら、自分の顔を破壊するのだ──その顔はすでに舞台という黒い水のなかに飲み込まれ、可能性の限界で動きはじめるのだ。踊るものを見る人間もまた、少しずつ、自分たちの顔を客席の闇の中で失うことになる。闇の中、踊り、身体を曲げたり伸ばしたりする人の顔、表情、胸、尻、性器を観客らはなんとか垣間見ようとするのだ。

──パスカルキニャール『ダンスの起源』桑田光平+堀切克洋+パトリック・ドゥヴォス訳、水声社、2021年

私の顔は私の外である。私のあらゆる固有性が差異を失い、固有なものと共通なもの、内部と外部とが差異を失う点である。顔にあっては、私は私のあらゆる固有性(褐色の髪の、背の高い、蒼白な、傲慢な、感情的な.......)とともにあるが、そのうちのどれも、私を同定しないし、私に本質的に属してもいない。顔は、あらゆる様態、あらゆる質が脱固有化、脱同一化される境界線であり、その境界線でのみ、あらゆる様態、あらゆる質が交流可能なものになる。そして、私が顔を見出すところでのみ、ある外が私に到来し、私はある外部性と出逢う。

きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かって行け。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを超えて、行くのだ。境界線に向かって、我を失って。

──ジョルジョ・アガンベン「顔」『人権の彼方に──政治哲学ノート』高桑和巳訳、以文社、2000年

▲目次へ戻る

 

終わりに

 今回のブログは、全体としてはちぐはぐなものとなったが、「流通するイメージ」について、昨今のエコノミカルな状況を踏まえてアイドルとファン双方の目線から書く、というのがいちおうのテーマとして挙げられるだろう。昨年一年を振り返りながら、私は漠然と、乃木坂を「物語」として無垢に楽しんでいた頃のことを懐かしいものとして思い出していた。自分の推したちは皆卒業した。少なくとも現在、アイドルについて何がしか観ている側が自分の欲望を投影する、あるいは実存を賭けるといったことは危うい行為とみなされている。そして、コンテンツが好きであることを誰かに話したり、それを自認するために倫理的な正当化を図ることがひとつの良識的な態度とされている。

 それでも私は、少なくとも虚構・フィクションを、アイドルというフォーマットのもとで楽しむ際に、虚/実の二項対立に拘泥すること以外はできないし、かつ、それは決してネガティブであったり稚拙な楽しみを意味しないと考える。本稿で扱った四つのトピックを通して、私は「虚構によって演者の人となりを受け取ること」「虚構によって現実になんらかの相互的な変容が起こること」といったごく当たり前のことを自分なりに考えてみた。斬新な結論など何もない。だが、倫理的な議論は演者を擁護する一方で、少なからず、オタクやファンといったまなざしを送る側の存在を定量化してしまっているように感じられる。私は演者に対する現実的/構造的暴力への配慮と並行して、そのような個人的な感覚の定量化に抗うべきであると考える。パフォーマンスを前にして起こる相互的な変容により、ある現実の営みを各々が「ほかでもない」ものとして経験することにこそ、虚構の力がある。

 留意したいのは、虚構やイメージによって現実は変容すれど、何によって変容するか、変容をどのように受け止めるかは各人の問題であるということだ。不可避的に変容する現実を全て受け入れろと言いたいのではない。自分が強烈な執着(快、怒り、疑問など)を持つ対象との間に築かれたものに気を払うべき、ということである。

■ある告白

 「流通するイメージ」は、演者そのものを不可視化するため、時に倫理的な問題を発生させる、というのは、昨今の議論ではかなりポピュラーな認識になった。しかし、その逆に、「流通するイメージ」そのものが不可視化される事態については、より多くの注意が向けられるべきであると考える。私がそう思うようになったのは、早川聖良が演出家のSEIGOから受けたハラスメントを告発した時のことである*45

 齋藤飛鳥の卒コンの直後に起こった早川聖良のラジオでの発言に端を発する一連の騒動の中で、「被害者」である当人への擁護やケアを求める声の熱狂的な高まりの裏側で、井上小百合がバッシングされ続けていたことにほとんどのファンは目を向けず、黙認していた。それどころか、SEIGOを擁護し後輩期生を腐しているとされる発言から、グルーミング加害者への社会的批判はある種仕方のないものとして、その状況を自業自得とみなす風潮すら感じられた。また、告発直後に多くの関心を集めたSNS上での署名運動は、署名期間終了後の経過報告に対して当初のような関心が払われることはなかった*46SNS上で可視化されるレベルでの、センシティブな出来事やゴシップによって出力されるリアルで実像的とされる世界は、心理的投影として劣位に置かれるフィクションの世界よりも、よっぽど虚飾にまみれていると感じられる。

 15分で消された井上のInstagramのストーリーや齋藤飛鳥の「みんないい人」というハッシュタグの投稿に対する批判、メンバーの過去のブログに対する憶測、早川当人の否定した文春の記事へのリアクション、これら不可視的な内情に対するファンの自己投影を正当化しているものは、まさしく政治的現実に紐づいた「倫理」であり、フィクションではない公的な場であれば、その現実を受け入れる責任を罷免されたという、一群の誰かの立場に甘えた錯覚に他ならない。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』(香月孝史+上岡磨奈+中村香住編、青弓社、2022年)の中でも、アイドルへの配慮が常に虚像や歪像へと向けられたものであることへの留保は示されているが、具体的な記述は欠けていると言わざるをえない。

 一つの告発によって被害者と加害者は明示的にカテゴライズされ、実態の解明もされない中で、特定のメンバーに対する暴力的表現が正当化されてしまう。少なくとも私は、井上小百合の投稿が配慮を欠くものでないとまでは言わないが、彼女がその後数ヶ月にわたってSNSで心ないリプライを送り続けられるリンチ的状況に追い込まれる程の道義的誤りを犯したとはとても思えない。フィクションという囲いがあるうちは、演者とイメージのずれ込みは良くも悪くも広く共有されたセンシティブな問題となるが、フィクションというエクスキューズがなくなった途端、稚拙な自己投影に過ぎないイメージによる語りがただちに事実化されてしまう。早川聖良は告発者であり被害者であるというカテゴリーによってしか認識されず、井上小百合はグルーミングの加害者というカテゴリーによってしか認識されない*47。当人たちの手を離れ、彼女たちの内面の多様を無視して矮小化されたイメージはなんの「葛藤」もなく流通される。

 インターネット以後のメディア環境が日常化した現在においては、イメージの生産を積極的に促す場が形成されたことで、現実とイメージの間にあった虚構の領域に対するニヒリズム的態度が演者にも観客にもデフォルトなものとなった。しかし、一方でそれと対になる現実もまた、イメージに跨がれた場であることは、どこかで軽視されてしまっている。メディア環境とアイドルといった議論は、本ブログでは扱い切れるものではない*48。けれど、00年代以降に指摘されるようなメディアによって馴致される「関係」「親密さ」といった感覚に基づくファンの経験は、より「日常」という次元をも再考せねばならないものとなっていることは確かであろう。

■美しくありたい

 つい先日、梅澤美波の単著『美しくありたい』(日経BP、2024年)が刊行された。月刊誌での5年分の連載をまとめた本書は、1ヶ月という単位で細かくなされるライブや舞台に関する活動記録あるいは活動報告として興味深いものとなっている。特定の物語化や歴史化が図られた過去のエピソードというのは、位置づけも明確でありドラマチックなものとして受け取られるが、本書ではむしろ、そのような性急で情動的なリアクションを退ける、ある種のドライさが光る。
 発売を記念したSHOWROOMの中で梅澤は、連載の良さは「リアルタイムで感情を出せる」ことであり、後から振り返るものとでは全く異なると語っていたが、個々の文章は感情的な緩急よりも、5年という月日の均質的な積み重なりを何よりも読者に実感させるものだ。そこで語られるメモリアルな特定の瞬間だったりというものは、渦中にあるため個人史の中での意味づけも定まりきっておらず、良い意味でほとんど美化されていない。加えて、繰り返し言及される自身のパフォーマンスや振る舞いについての「足りなさ」や身長にまつわるコンプレックスの記述は、悩み自体が焦点化された文章ではないこともあり、深刻なものではなく、活動記録のあわいに揺れる日常の心の機微として現れている。
 ゆえに、本書はドキュメンタリーテイストで「あの時の裏側」として真実や実体を提示するものではなく、機械的に積み重なった時々の記憶によって、グループひいては、そのような過去の思い起こしに同伴する私自身の実感を呼び起こすものであった。梅澤の連載は、5年間の記録でありながら、それは自分史でもなければ、グループの歴史を示すものでもない。そこでは、「ある日常」が示されている。この日常性とは、物語化されていないからこそ、イメージに媒介された限りではないからこそ立ち現れるものであろう。

 改めて思うのは「推し」と呼ばれるような演者へと向かう強い感情は、単なる容姿の好みや物語への共感といったかたちのみでは生起しえないということだ。特定の条件や、自分好みの私室化されたイメージが現実化するような、事前の期待や、情報の並びによってそのような感情的な揺さぶりは起こらない。特定のコード、規範、倫理の範疇において何かを好ましいと思うのではない。演者当人との関係の中で、それ受け取る新たな自分が立ち上がることが可能か、新たな日常は可能か、それこそが問題であり続ける。

なすべきことはただ 道を引き返すこと 厳密には堂々巡り それで私はジグザグに進む まさに自分の気質に忠実に いま書いていること 私がそこで失くしたものをさがして 私はそこにいたことがないのに

──サミュエル・ベケット『どんなふう』宇野邦一訳、河田書房新社、2022年

▲目次へ戻る

 

 

*1:松田正隆「出来事につかまれる」|http://www.marebito.org/study3.html

*2:奈義町現代美術館については、下記のテキストの記述が充実している。→浅田彰奈義町現代美術館を再訪する」|https://realkyoto.jp/blog/nagimoca/

*3:「ぼくはほとんど色のない世界を作ってるんですと言ったら、あなたはちょっとびっくりするでしょう。あなたが言ってる色の世界じゃないんですよ、それが嘘だと思うのなら奈義へ行ってみなさい。二つの色がある。下は赤、天井は緑ですけど、補色がいっぱい生まれてくるんです。ないもの、色が。あなたが作るんですよ、この有機体は」。『死なない子供、荒川修作』より、荒川自身の言葉。

*4:「穴つるしの刑に耐えよ──荒川修作的転向」『日経イメージ気象観測』19号、日本経済新聞社、1991年。山本浩貴の下記ポストからの孫引き。→https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1281083756330119168?s=46&t=2h68fpwQqaU4iuaX79mfmA

*5:青田麻未「アイドル楽曲の鑑賞と日常美学──自己啓発という観点から」『アイドル・スタディーズアイドルスタディーズ 研究のための視点、問い、方法』明石書店、2022年

*6:土井善晴は、家庭料理において母親が「美味しいもの」を作ることを過剰に強いられていると指摘した上で、失敗しない定量化された分量どおりの味付けではなく、食卓を囲む各々が感覚的に好みの味に調整するあり方を重視する。規定的な完成形の料理を吟味するのではなく、各々が料理の味について責任を持つこと。素材のポテンシャルに対して、自分の手で味に取り組むことこそが「味わう」ことである。これは感覚的な次元と不可分であるあらゆる鑑賞経験に対しても当てはまる提言であろう。→「おいしくなくてもいい」 土井善晴さんの料理への思い|https://www.asahi.com/relife/article/14377744

*7:森貴史は『〈現場〉のアイドル文化論』(関西大学出版部、2020年)の中で、ルーチン化した「日常」と、アイドルに逢いにゆく経験の「一期一会」性を対比的に書いている。

*8:武田宙也は『フーコーの美学──生と芸術のあいだで』(人文書院、2014年)において後期フーコーの思想を前期からの一貫した「美学」として論じる中で、「自己への配慮」や「自己の体制」を、自身の日常行動と普遍性・他者といった「外」との緊張感によって立ち現れる「生きざま」のようなものとして描き出している。“「自己への配慮」は、自己の真理へと到達するために自己の変容を必要とする実践、いわば「霊性」の実践の総体に他ならない”。“ヒュポムネーマタ(筆者注: 古代ギリシャにおける読書メモのようなもの)において重要なのは、選び取られた断片的な「すでに語られたこと」を自分のものとし、統合し、主体化することによって、自己を理性的な行為の主体として形成することであり、こうして真理は行動の原理と化すことになる”。“経験というものは、基本的に一人だけでなすものであるが、その十全な実現は、経験が純粋な主観性を逃れ、他者が、その経験を完全にやり直すとは言わないまでも、少なくともそれと交わり、横断し直すことができる限りにおいて可能である。〔…〕フーコーの語る「生存の美学」とは、この権力と不可分の真理からなるアーカイブ(筆者注: 普遍性)に、ひとつの「行動」を通じてアクセスすることで、身体のレベルで権力の配置を組み換えることを意味していた。われわれの生は、この断片的な真理の寄せ集めに他ならず、それはまた、日々の行為を通じて、不断に更新されていくものでもある”。

*9:哲学者のダヴィッド・ラプジャードは『ちいさな生存の美学』(堀千晶訳、月曜社、2022年)において美学者エチエンヌ・スーリオの思想を紐解く中で、「私」をも包含する世界の現前を、存在の強度の問題として捉える。そして、私たちの情動や信によって支えられる(現実に特定の場を占めることのない)フィクションの存在を、準-世界を形成するミクロコスモスに帰属しており、社会的な実存があると指摘している。

*10:インタビューベースの齋藤飛鳥の変遷をリアルタイムに記述した文章としては、黒夜行名義の長江貴士のブログを参照。齋藤飛鳥の活動の概観については 私はこーへ による連載「齋藤飛鳥論」を参照されたい。後者は、2017年より顕在化した自己変革に取り組む時期以降の記述がファン目線ものとして充実している。当の連載では、齋藤飛鳥に「逃走=闘争」といったキーワードがあてがわれているが、これは浅田彰の『逃走論』(筑摩書房1984年)が念頭に置かれていると思われる。同書の冒頭で浅田は、「主体としての自己の歴史的一貫性」にしがみついてる人は、「疾走する非主体性」には耐えられないだろうと述べているが、絶え間ないセルフイメージの変奏に取り組んだ齋藤飛鳥は、その後者に該当するというのが先の連載の意図するところでもあるだろう。

*11:生田絵梨花齋藤飛鳥、当人同士の関係については以前のブログを参照。→ 雲のゆくえ(「卒業」の項)|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2021/12/23/174922

*12:齋藤飛鳥の読書歴について下記のページなども参照→齋藤飛鳥さんのおすすめ本・小説|https://senublog.com/asuka-saito-recommended-book/

*13:2019年4月15日放送の「しくじり先生 俺みたいになるな!!」終了後ネット配信番組での地上波未公開映像より。

*14:これが極めて簡略化された理解であることには注意したい。千葉がここで語る「文体」に関する議論は、『零度のエクリチュール』をはじめとしたロラン・バルトの文学論などが念頭に置かれていると思われる。

*15:ミシェル・フーコー「距たり・アスペクト・起源」(『ミシェル・フーコー文学論集1 作者とは何か?』清水徹豊崎光一訳、哲学書房、1990年)の下記の記述などが参考になる。“言語が事物から距たっているがゆえにフィクションがあるのではない、そうではなくて、言語はそれら事物の距たりなのであり、それらがその中にある光でありかつそれらの到達不能性、それらの現前だけがその中で与えられる模像なのである。そしてこの距たりを忘れてしまう代わりにその中に身を保ち、かつみずからの中にそれを保つようなあらゆる言語、この距たりの中を進みつつこの距たりを語るような言語は、フィクションの言語なのである。”

*16:リアル/フェイクが焦点化されつつ、パフォーマンスの次元でそれを乗り越える直近の例として、舐達麻の新曲『FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD』 を挙げたい。2023年12月1日に公開され、二週間近くYouTubeの急上昇中音楽一位であった同曲は、BADHOPへと向けたビーフ曲である。両者は表だった交流のほとんどなかったヒップホップクルー同士であったが、今回の流れに至るまでには複雑な経緯がある(舐達麻が楽曲リリースに至る直前までの時系列はナタリーの記事などにまとめられている)。HIPHOPはそのルーツにおいて、当事者を死に至らしめるような暴力を文化的実践によって退けるという思想があり、舐達麻の楽曲も、敵意を楽曲として昇華することで暴力=リアルとみなす価値観を言語的なリアルへ塗り替える実践のように思える。一方で、音楽ライターの万能初歩は、MVというリリース形態に着目し、同曲を取り巻く現状を劇場型のラップゲームと指摘している(舐達麻「FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD」MVレビュー:表現としての闘争、その希望とリスク|KAI-YOU)。また、昨今のフリースタイルブームの最盛期において、ラッパーのハハノシキュウはかつて、「フリースタイルブームの先にいた本当の敵が、コードボール(筆者注: 甲乙のつけがたい非常に拮抗した試合)を操作しているお客さんだってことが、この大会でわかってしまったのだ。 本当に言い得て妙だけど、「この大観衆に操作されてたまるか!」と、知らず知らずに僕ら出場者は見えない徒党を組んでいたのかもしれない」と書いている(ハハノシキュウが観た「戦極MCバトル15章」の群像劇 ブームの先にいた本当の敵|KAI-YOU)。HIPHOPにおけるオーディエンスによって操作されるカッコ付きの「リアル」の問題は年々深刻になっている。だが、建前や愛想、不満を抱えて過ごす一生活者として、ビーフというかたちで苛烈な物言いをはばからない舐達麻の姿勢には憧れのような救いを感じた。少なくとも、彼らの実践的な怒りのアウトプットには、自分の感情とどのように向き合うかという点で感化されるものがあった。SNSを中心として他者への害意やシニカルな言葉、歯止めの効かないリンチ的言説が全面化した世相にあって、怒りやフラストレーション、不満すらも芸術的な実践として、言語化し、歌うことができる。手抜かりのないMVは、そこでなされる身振りとも強く共振し、明け透けのない嘘のなさが心地よく、感動的ですらあった。

*17:例えば千葉雅也は『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年)の中で、生成変化は身体というモノではなく、演技というコトあるいは出来事の実在性として捉えられがちだが、モノの変質にも対応している点は注意すべきであると指摘している。また、日本の現代演劇を牽引する劇作家の岡田利規は、即興劇のワークショップが徐々に幻覚的でカルト的な生へと向かうさまを描いたグラフィックノベル『アクティング・クラス』(ニック・ドルナソ著、藤井光訳、早川書房、2022年)の書評「〈演技〉というヤバさ」の中で、「演技」を、「現実のオルタナティヴを求めて」「現実とフィクションの混同を自らに生じさせる危険に身を投じ」る行いであると指摘している。

*18:類似した発言はSNSをはじめ様々な場所で発信している。例えば以下など参照。→ 現代詩/ラップ/サイファー その可能性|https://togetter.com/li/24608

*19:橋本奈々未の卒コンでは、最後のゴンドラのタイミングで舞台上のモニターにメンバー全員から橋本への直筆のメッセージがサプライズで映し出された。映像には残っていないので正確性は欠くが、齋藤飛鳥から橋本へと向けたメッセージは、「奈々未は永遠に俺の嫁だ!……だよな?」といったものであったと記憶している。

*20:星野太『食客論』2023年、講談社

*21:下記のブログでは、はじめての社会人経験でつまずきを抱えてしまったタイミングで、山下美月へとガチ恋してしまった経験談が語られている。ガチ恋ゆえに自分磨きと自己肯定感の獲得というサイクルへと至り、コンプレックスや不安の自己投影から、むしろ投影的イメージからのフィードバックへと向かうさまがうかがえる。→「高校生クイズにアイドルなど要らん!」とか言ってたヤツが国民的アイドルにガチ恋した結果。|https://note.com/yasusheed/n/n6eee86f8193f

*22:本稿では、自分にとって齋藤飛鳥を「齋藤」や「飛鳥」、そのほかの愛称で呼ぶことがしっくりこなかったため、他のメンバーとは異なり彼女のみ「齋藤飛鳥」とフルネームで表記している。また、彼女の言い回しに則り、ファンのことは「オタク」ではなく「ファン」と表記している。引用文は、日経エンタテイメントのインタビューを例外として、彼女自身が直接に書いた、発言したとされるもののみを参照している。

*23:透視図法が用いられた初期の絵画では、奥行きを表現するための空間分割の線が明示的・暗示的に描かれているものが少なからず存在する。ペルジーノ『ペテロへの鍵の授与』、ウッチェロ『サン・ロマーノの戦い』に描かれた地面などが好例である。

*24:32ndシングル収録の5期生楽曲「心にもないこと」Music Video公開!|https://www.nogizaka46.com/s/n46/news/detail/66276

*25:さらに言えば、「日常/非日常」は32ndシングル『人は夢を二度見る』のクリエイティブに一貫して貫かれたテーマでもある。ジャケット写真のコンセプトには「ポップでアート」が掲げられ、クリストを意識させる造形物が背景に設置されている。以下も参照→乃木坂46 32ndシングル「人は夢を二度見る」ジャケット写真を公開!|https://www.nogizaka46.com/s/n46/news/detail/66261

*26:池田瑛紗は2023年3月17日のブログで、自身に「アンドロイド」の役の指示があったことを明かしており、2023年3月29日の猫舌SHOWROOMで井上和と菅原咲月は、「地球最後の日に何をする?」というストーリーがあったと語っている。そのほか、メンバーたちは同曲について語る際にパントマイムで何を演じていたかを説明している。

*27:以前のブログではこれら二つの楽曲を「夢と現在の相互浸透」を描くものとして捉えた。以下も参照→あの教室でつかまえて|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2019/05/28/150817、雲のゆくえ(「夢」の項)|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2021/12/23/174922

*28:例えば、『何度目の青空か?』『あの日僕は咄嗟に嘘をついた』といった楽曲のMVにおいて顕著である。

*29:1~3期生までのコンセプトについては以前のブログも参照。→1期生:雲のゆくえ(「恋」の項)|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2021/12/23/174922、2期生:せかい の おわり と にきせい と|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2019/07/12/222556、3期生:とめどない青(「3期生のこと」の項)|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2020/05/24/231207。4期生に当初企図されていたリバイバルについては下記を参照→未だ見ぬ夜明けに|https://calpasngz.hatenablog.com/entry/2019/08/09/013121

*30:中西アルノ 活動自粛について|https://www.nogizaka46.com/s/n46/news/detail/65320?ima=1026

*31:下記のブログでは、齋藤飛鳥の「揺らぎ」にとどまる態度と、テクストに重なる嘘のレイヤーが指摘されている。→黒沢清監督の「Actually...」MVをみた。(加藤)|https://note.com/katou_sei_/n/nc55ea450e29c

*32:余談だが、この台詞は生駒里奈卒業コンサートにおける齋藤飛鳥のスピーチも彷彿とさせる(乃木坂46メンバーから卒業の生駒里奈へ 涙のスピーチ)。→齋藤飛鳥:卒業した後もここにいる皆で…こんなに誇らしいメンバーがいるんだから、ちゃんと生駒ちゃんが前に皆に言ってくれた「紅白出てるところが見たいよ」とかそういう夢を叶えていけたら良いな、ってすごく思っています。個人的には、生駒ちゃんはすごく可愛らしいおばあちゃんになると思うから、さっき、かずみんも言ってたけど、本当に長生きして欲しい。それを楽しみにしています。/生駒:うん。おばあちゃんになったら、また飛鳥のところに行くわ。/齋藤:また会おう、おばあちゃんになったら。

*33:『ドライブ・マイ・カー』とチェーホフの戯曲については下記を参照→事の終わり、朝に帰る|https://note.com/tsuimi3/n/nec39b173e102

*34:過去から現在への「逆撫で」に関する記述は、以下の著作を参考にした。細見和之フランクフルト学派──ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(中央公論新社、2014年)、竹峰義和『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミンアドルノ、クルーゲ』(東京大学出版、2016年)、田中純『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店、2016年)、スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論──〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』(小田透訳、白水社、2018年)

*35:2023年4月より、中西アルノは「NHK俳句」にレギュラー出演している。「0(ゼロ)から俳句」という俳人の家藤正人とのロケ企画がメインで、毎月3週目に作句する。初出演の際に決まった俳号は「青山ネモフィラ」。毎月4週目はスタジオに登壇して、句合わせのディベートや、句会の合評に参加している。メインのロケ企画では、一年近い放送の中で、中西というキャラクターに基づいた句から、徐々に目の前の風景や実感を伴う記憶や情景をスケッチするような句へと変化してゆく様子がうかがえ、その実直な俳句との向き合い方が素晴らしい。スタジオ企画は、互いの句を鑑賞し、各々の解釈や疑問を語り合い、出演者自身の好みが見えたり、互いの句を別の視点から広げていったりする。単純に詠まれた句だけではなく、出演者自身の句の味わい方も見えてくるので面白い。本文で引用した句は、2023年7月23日に放送された句合わせの中で詠まれたもの。兼題の「噴水」に対して、人や動物を(が)待ち合わせるという情景がありきたりなこともあり、作品としての句の評価は、中西の詠んだ句の中でも高い方ではない。だが、噴水のしぶきの中にぼんやりと立ち現れる白いワンピースの人を待ち合わせ相手の目線から描く、そういったシンプルな読みにとどまらない、待ち合わせの相手は人である必要はなく幽霊でもよかった(兼題の季語を踏まえて、夏だからとも付言される)という中西の説明はスタジオでも高い評価を受け、鑑賞点は満点を獲得している。

*36:「おひとりさま天国」MVお部屋紹介!|https://youtube.com/playlist?list=PL-tVKL3zVywYiKH8-8VLW6pt4Cs-9Ud75&si=uCFujRyjwWv6T4lR

*37:2022年の「爆音映画祭 IN 高崎」のトークイベントに登壇した黒沢は、会話劇というフォーマットが濱口竜介を意識したものであったと発言したという。以下は、現地レポート。→https://x.com/kimu_ra10/status/1581544169809801216?s=46&t=2h68fpwQqaU4iuaX79mfmA

*38:個人PVは下記が私的に気に入ったものである。→池田瑛紗『ほっとけない』、岡田姫奈『僕は今を、』、川崎桜『SAKURA ONE CUT』、菅原咲月『#激甘な菅原咲月 見てやるぞ』、中西アルノ『Future Days』『アルノーマリティー』。

*39:平倉圭『かたちは思考する:芸術制作の分析』東京大学出版会、2019年

*40:パフォーマンス研究の第一人者である、エリカ・フィッシャー=リヒテは、『演劇学へのいざない──研究の基礎』(山下純照+石田雄一+高橋慎也+新沼智之訳、国書刊行会、2013年)の中で、パフォーマンス研究の手法として、「初見時の生の公演の印象」と「映像で確認できる公演記録」のあいだに発生する「ずれ」をこそ言語化すべきと述べている。

*41:「舞踊(ぶよう)」という語は、ここでは「ダンス」と対応させて捉える。この語自体はそもそも坪内逍遥が1904年に提唱した「舞」(他律的・上演型)と「踊り」(自律的・参加型)を組み合わせた造語とされる。本項では、語の一般性を踏まえて、「踊り」を身体動作の区分に採用した。なお「舞踏(ぶとう)」については、本項では1960年代に土方巽によって創始された暗黒舞踏を指すものとして用いる。また、ダンス(=舞踊)の定義については、ジョアン・ケアリノホモクの「An Anthropologist Looks at Ballet as a Form of Ethnic Dance」(1970年)の記述に従う。“ダンスとは、空間を移動する人間の身体によって与えられた形態やスタイルで行われる、一過性の表現方法である。ダンスは、意図的に選択され制御されたリズミカルな動きによって行われ、その結果として生じる現象は、演者と観察する集団のメンバーの両方からダンスとして認識される”。ケアリノホモクの定義では、ダンスは演者と観者の双方によって「ダンス」とみなされることを条件とするため、動物のダンスといったものはあくまで擬人表現にとどめられている。

*42:伊藤万理華の個人PVや、日向坂46『いちばん好きだとみんなに言っていた小説のタイトルを思い出せない』の振り付けを手がけた菅野なぎさはイデビアン・クルーの作品にも数多く出演している。→bio△nagisa sugao works: movie etc.|https://sugaonagisa.com/biosugao_works_movieetc.

*43:最も注目を集めるアイドル欅坂46 平手友梨奈「エースの運命」|https://news.livedoor.com/lite/article_detail/11475262/

*44:星野源Instagramの投稿|https://www.instagram.com/reel/CxxRxlzPGRf/?igsh=MTMydHFndGNsaDdtcA=

*45:概略と運営組織の対応に関する問題点については以下を参照。→ "演者"を育み、個々人の適性を探る場としての乃木坂46https://minpo.online/article/46.html

*46:運営に正しいマネジメントを求める会による最初の署名呼びかけのインプレッションは5.3万を記録しているが、署名提出の報告ポストのインプレッションは1000程度である(いずれも2024年1月時点)。両投稿は二週間程度しか期間が空いていない。

*47:松原香織『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年

*48:昨今のメディア状況におけるアイドルをめぐる議論としては下記を参照→西兼志『アイドル/メディア論講義』東京大学出版会、2017年。また、TVと視聴者の関係については下記も参照→ 西兼志「<パレオ/ネオTV>の理論展開 : メディア行為論の問題圏」2006年|https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/69/0/69_KJ00004363787/_article/-char/ja/、トーマス・ラマール『アニメ・エコロジー ──テレビ、アニメーション、ゲームの系譜学』上野俊哉/監訳、2023年