乃木坂46とドキュメンタリー

 2019年7月5日、乃木坂46の映画『いつのまにか、ここいいる』が公開されます。この映画は2015年に公開された『悲しみの忘れ方』に続く「Documentary of 乃木坂46」シリーズの二作という位置づけの、いわゆる「ドキュメンタリー映画」となっています。前作の監督が乃木坂のMVや個人PVでグループのイメージに深くかかわってきた丸山建志であったのに対し、今作ではCMやメイキングといった、あくまでフィクショナルな映像とは異なる距離感で関わってきた岩下力が監督を務めたことが発表されています。

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  今回のブログでは、あまり『いつのまにか、ここにいる』に触れるつもりはありませんが、岩下監督のHPを拝見すると2012年に短編ドキュメンタリーを撮影しているようで、そういった点でも観察者としての彼のメンバーへの距離感が期待されるものと思われます。さて、つい先日、試写会を終えてSNSなどでは映画に対する様々な意見が現れました。特にあるのが、前作と同じく、一部の、いわゆる人気メンをクローズアップすることで、本来期待していた「普段見れない姿」や「裏側」に迫り切れていないのではないかという批判でした。さらに、この批判にはグループ結成当初から付きまとうメンバーの序列化に対するファンサイドからの不満が重ねられていることも指摘できるでしょう。さて、そういったSNSでの様々なおしゃべりを通して、私は一つの疑問が湧いてきました。それは「乃木坂46にとってのドキュメンタリーってどんなものが正解なのだろう?」というものです。今回のブログでは、これについて考えていきたいと思います。

  
1. ドキュメンタリーって何なのか?

Wikipediaによると、ドキュメンタリーの定義は以下の通りとなります。

ドキュメンタリー(英語: documentary film)は、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品を指す。記録映像、記録映画とも言われ、テレビ番組として放送する場合もある。文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。

ドキュメンタリー - Wikipedia

この定義は、ひとまず一般的な我々の感覚から大きく外れたものではないでしょう。加えて言えば、この定義を通して、ドキュメンタリー映画に一般に期待されているものが劇映画の反対のものであるということもうかがえます。では、それを踏まえた上で、さっそく乃木坂46の映画を一つみてゆきたいと思います。

超能力研究部の3人(山下敦弘/2014)

  『超能力研究部の3人』という映画があります。2014年12月に公開されたこの映画は、『シティライツ』という漫画の短編の一つを山下敦弘監督が映画化したものです。生田、秋元、橋本、超能力研究部という変わった部活に身を置く3人のそれぞれの過ごす夏、という青春物語になっています。この映画には一つ大きな仕掛けが用意されています。それは、普通であれば本編を占めるであろうドラマストーリーに加えて、劇映画の撮影に臨む乃木坂の3人の姿もまた同時進行で映画の中に収める、というものです。どういうことか?この映画は、フェイクドキュメンタリー、あるいはモックドキュメンタリー(モック、モキュメンタリー)と呼ばれる手法で撮影されており、そもそも単純な意味での劇映画ではありません。ドラマパートと、映画撮影に臨むメンバーのメイキングという設定の劇(フェイクドキュメンタリー)パートに分けられた映画なのです。インタビューに答えた出演メンバーの言葉を借りれば「カットが二回かかる」映画なのです。一応、補足をしておくとこの映画は前日譚として『君の名は希望』のMVが存在します。こちらも山下監督が同様の手法で撮影されたもので、『超研』のオーディション映像にもなっています。

 ここで複雑なのは、劇映画としてのドラマパートの撮影とは別に存在している、休憩所やオフの日の映像、トラブル、喧嘩、演技指導、インタビューなどのフェイクドキュメンタリーパートの映像は、必ずしも「演技をしている」「嘘をついている」とは言い切れないということです。というのも、例えばインタビューの中でメンバーの語る苦悩や思わずこぼれ出た些細な言葉、なんなら撮影現場で演技している姿などは、あくまで観ている側にリアルな振る舞いとして受け取られるだけの幅を残しています。一方で、フェイクドキュメンタリーパートに登場する助監督などにはエンドロールで役名が当てられていることが判明したり、そもそもキスシーンの撮影をきっかけにして起こったトラブルの現場にキャラクタライズされたこてこてのオタクやマネージャーが登場したりと、そこに撮影されたものがフィクションであることも常に示されています。逆に言えば、この映画はぜんぶほんと、ぜんぶうそ、などといった指摘からいくらでも逃げ続けることが出来るのです。

 はじめてこれを観たときの自分は、どんなに突き詰めても監督やカメラマン、編集の意図から些細な身振りがリアルな生の時間を感じさせるものとして零れ落ち続けるという構造に言いようのない苛立ちを感じました。その当時、うまく言語化も出来ませんでしたが、褒めちぎる友人に向かってなんとか噛みついて言ったのは、やっぱりこれは卑怯なんじゃないかということでした。リアルってものが行き詰まってるようにも感じるし、フィクションってもっと信頼してもいいんじゃないか。当時の自分はそんなことを言っていたように思います。一方で、映像を前にして無意識のうちにこれはリアルか、これはフィクションか、という虚実の答え探しをしてしまう自分と向き合うのが怖かった、認めたくなかったのかもしれません。虚実がないまぜな、曖昧なものを、曖昧なまま楽しめるだけの知性も忍耐も、当時の自分にはありませんでした。

 さて、とにもかくにも、この映画を通して分かるのは、劇映画とドキュメンタリー映画、それらの間には一般的に期待されるような虚実の明確な境目はないのかもしれない、ということです。

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FAKE(森達也/2016)

 みなさんはドキュメンタリーと聞いて、どんな作品、どんな監督を頭に思い浮かべますか?サバンナの動物でしょうか?AKBのドキュメンタリーでしょうか?はたまたマイケル・ムーア?恐らくこういう時に、みんなが「それだ!」と納得するようなものって案外自分たちの周りに見当たらないのではないでしょうか?つまり、日本のアニメといえばナウシカ、とか、日本映画といえば黒澤明、みたいなものがない。まあ、それはひとまず余談として置いておいて、日本のドキュメンタリー映画と言われた時に、確実に名前が挙がる監督の内の一人に森達也がいます。彼は、もともとNHKなどの報道の場に身を置いていたこともあり、メディアによって被写体がどのように歪められるのか、ということについてかなりセンシティブな目線を向けます。作品としてはオウム真理教の内部にまで入っていった映画『A』*1、売れっ子超能力者に密着した『職業欄はエスパー』、先の山下監督と同じくフェイクドキュメンタリーのテレビ番組『ドキュメンタリーは嘘をつく』などが挙げられます。そして、近年に発表したドキュメンタリー映画『FAKE』。

 この映画は、佐村河内守氏のドキュメンタリーです。ご存知の通り、彼はいわゆるメディアスクラムに曝され、連日大きな批判を浴び、テレビでも大々的に扱われました。ここで特に問題になったのは、佐村河内氏が本当に聴覚障害があるのか?作曲ができるのか?という二つの「嘘」でした。テレビを通して構築された世論としては、いずれの言動も「嘘」とみなして彼を「ペテン師」として嘲笑するものでした。森監督は過熱する報道によって、佐村河内という一人の人間の姿がイメージの中に沈んで失われつつあった状況にカメラを持って静かに介入したのです。騒動の直後、彼は佐村河内氏のアパートの同じ部屋に長期にわたって滞在や出入りをしながら、世間の目に対してどのようなことを考えているのかを、ただ淡々とした生活の場面や、監督との親密なやり取りを通してカメラに収めてゆきました。

 ここで一つ気付いてほしいのは、このドキュメンタリー映画は、恐らく一般に思われているような第三者視点での観察記録などではなく、カメラをもった監督の明確なやり取りによって支えられているということです。この『FAKE』という映画は、それなりにセンセーショナルな話題を呼んだ*2*3のですが、タイトルにもある通り、観た人たちの間で、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかという議論が交わされました。それは、映画の中の演出の有無と、佐村河内氏の話すことについてなどです。一応言っておくと、この映画には多分にそういったフィクションの文法が匂わされており、単にこれが佐村河内氏の真実だとかいう類の結論は否定されています。

 ただ、正直に言って、この映画を観終えた直後の自分はまた苛立っていました。それは、この映画の中に描かれている、メディアを通して忘れられがちな対人関係の誠実な距離の取り方というのは、自分にとってはひどく当たり前のものに感じられたからです。ごく普通にみんな持っていると思ったメディアリテラシーがこんなにも共有されていないものかと愕然としました。その意味では、映画の内容ではなく、この映画が撮影され、受容されている状況そのものへのショックでした。

 さて、そういった自分の知見の狭さはともかくして、『FAKE』に対する苛立ちを通して、私は一つのことに気がつきました。それは、『超研』の時とは異なり、この映画において示される虚実の0/100ゲームの不毛さというのはごく自然なものとして受け入れられたということです。目の前の人が言っていることは真実か否かということは、生身のコミュニケーションでは信頼関係を築きながらお互いの認識を擦り合わせてゆくなかで立ち上がってくるのが普通です。映画の中でも森監督は佐村河内氏に自分のことをゆだねる、相手のことを信頼するというプロセスを丁寧に踏んでゆきます。であればこそ、虚実の0/100ではなく、間にある1~99の曖昧なものの一つ一つに向き合うことが重要であると言えるでしょう。

 森達也のドキュメンタリーは、そういった人間同士のコミュニケーションの前提になる信頼関係の問題を安易に見過ごしてしまうメディアと、それに馴致された観客たちへの痛烈な批判なのです。翻って、映像や、例えばアイドルのステージの振る舞いに対しても、そういった、まずは相手を信頼するというプロセスに重きが置かれるべきなのではないでしょうか。まずは、対人であるという事実から出発しなければならない。この映画から分かるのは、映像によって我々が受け取る虚実の問題は、そのまま現実世界での対人関係に適用できるということです。彼のドキュメンタリー映画には、そういった「他者を見る」という行為に潜む対話と信頼の問題が扱われているのです。

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SELF AND OTHERS(佐藤真/2001)

 牛腸茂雄(ごちょうしげお)という写真家をご存知でしょうか?存命中に高い評価を受けることもなく、若くして亡くなられた彼の存在は没後に徐々に世間の知る所となります。彼の写真作品は日常的な光景をじーっと眺めるうちに切り取ったかのような奥深さがあります。1977年の写真集のタイトルをあててドキュメンタリー映画を撮影した佐藤真は、牛腸が写真を通して追求した「他者が自己に触れてくるギリギリの地点に立つ表現行為」を映画に取り込みたいと考えました。

 そこで彼の選んだ方法は、牛腸の遺した様々な草稿や手紙、写真、出会った人々への取材などをコラージュすることでした。この映画の中には、牛腸のゆかりのあった土地の映像や彼の写真などの映像のバックで、姉に向けて書いた手紙がナレーションで読み上げられます。もちろん本人は亡くなられているので、他人である役者が読み上げたものです。また、この映画では中盤、わずかに残る牛腸の肉声が現れます。録音機材に初めて触れたであろう彼が、そこに吹き込んだ言葉は、「あ、い、う、え、お。あいうえお」「もしもし、きこえますか。これらの声はどのようにきこえているんだろうか」といった、自分の声の感触を確認する、少々不気味な音声です。この声は、単なる役者の声の演技として現れていた牛腸の書いた文章と、強烈に反発します。と同時に、声と文字それぞれから立ち上がる一人の人物のイメージにはズレがあるということにも気づかされ、牛腸の記録に対して常にフラットな距離感で接しようとする監督の意図がうかがえます。

 さて、この映画はドキュメンタリーとは言っても、先のwikiに書かれていたような「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」などでは決してないということが分かります。むしろ、撮影者であり編集者である佐藤真が、牛腸茂雄という一人の人物がどのように自己と他者に向き合い、世界を見つめていたのかということを積極的に模索した作品になっています。と同時に、牛腸自身が自らの肉声が他者にどのように受け取られるかに関心を持っていたように、他者に自分が受け取られることもまた同時に何らかの変質が不可避であるということを静かに突き付けてくるのです。世界最古のドキュメンタリーと言われる『極北のナヌーク』(ロバート・フラハティ/1922)にも、カメラを向けられたイヌイットが自らの振る舞いを演出してみせたという逸話があります。私たちは、そういった監督もしくは被写体によって企図された行為の痕跡を「真実ではない、嘘である」と断罪すべきなのでしょうか?しかし、少なくとも現代の我々は、映画黎明期とは異なり、イヌイットと撮影者の共犯関係や親密に築かれた関係を十分に映像の中から読み取ることが可能でしょう。であればこそ、ドキュメンタリーというものが、ドローンによってある種盗撮された野生動物の生態を映す類いのものではなく、カメラを向けられたということに被写体が自覚的であるときにどのように振る舞うか?という、他者へと自己を開くプロセスを映し出したものと考えることもできるのではないでしょうか?

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まとめ

 ここまで紹介してきたいくつかの映画作品を通して、ドキュメンタリーというのがフィクションを内包しているという強い自覚を持っている*4ことは伝わったでしょうか?山下監督や森監督はそれを映画の構造そのものにまで取り込み、佐藤監督はまた別のアプローチ、つまりある写真家の見た世界に対して他人の距離のまま近づくということを選択しました。こうしたことを踏まえて、改めて「演技」ということについて考えてみると、それがとても大きな幅を持っていることが分かります。単なる「虚構の世界を表現する」ことを意味するのではなく、二人の人間がいればごく自然に発生するものと考えることもできるでしょう。程度の差こそあれ、『超研』に端的に現れているような「本人を演じる」という行為は日常的な場面の中にも多く見受けられます。やや堂々巡りをしてしまっていますが、重要なのは、映像を通して私たちは常に距離の開きを自覚したうえで、そこに映る被写体の人物が自己を他者に向けてどのように開いているのかを誠実に見つめる必要があるということです。少なくとも、自分にとってのドキュメンタリーとはそういった監督と被写体の親密な共犯関係のプロセスが織り込まれたものであるべきで、単に「劇映画を目的に撮られていないもの」「演技でないもの」「真実をうつすもの」などでは決してないということです。あくまで、虚実の0/100ゲームから離れて、ある個別性に向き合う取り組みなのです。ゆえに、そのアプローチも被写体や取り結ばれた関係の個別性と同じく千差万別なのです。

 では、ここでもう一度『超能力研究部の3人』について触れておきたいと思います。『超研』は先の二人の監督作品に比べて、ドキュメンタリーの純度はやや低いのかもしれません。そもそも劇映画として扱われていますし。けれど、重要なのは、『あさひなぐ』のような純粋な劇映画でもないことです。山下監督は「フィクションとドキュメンタリーが混ざったり近づいたりする今回のやり方は、今後も演出する上で何か生かせるかもしれないと思うし、でも行き着いた部分もあるかなとも思う。とにかくこの3人だからこの形になったというのはあって、同じことはできないなと思っています」*5と語っており、映画の手法自体がまぎれもなく被写体である彼女たちの個別性から立ち上がったものであることが分かります。また、特に二つのパートのバランスに関しては、「ほんとはもう少しドラマ部分がしっかりあったんですけど、いかんせんフェイク・ドキュメンタリー部分が魅力的すぎたのでドラマ部分は少なくなっていってしまったというか」*6とも語っています。出演メンバーの一人である橋本奈々未は、フェイクドキュメンタリーパートについて尋ねられた際、「アイドルという職業をしていると、朝から晩までメイキングカメラで撮影され、それが人の目に触れるということに慣れているので、カメラの前で自分自身を演じることに関してはなんの苦労もしなかったです」*7と答えており、ドラマパートの演技よりもすんなりと受け入れられものであったことを明かしています。これは、ごく一般的な役者とは逆の現象が起きているとも言えるでしょう。二人の発言から分かるのは、フェイクドキュメンタリー部分の強度というのが、山下監督が「アイドルにどのように眼差しを向けるべきか?」という問いへと向き合う過程で導き出した一つの解であるということです。その意味で、『超研』もまぎれもなく一つのドキュメンタリーとして、彼女たちの生の時間が個別のかたちで十分に閉じ込められているように思います。

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2. 乃木坂46のドキュメンタリーって何なのか?

さて、ひとまず先述の前半部を1として、ここから続く2では乃木坂の映像コンテンツにおいてドキュメンタリーの視点が実際にどのように扱われているのかを具体的に検討していきたいと思います。とはいっても、冒頭の「乃木坂46にとってのドキュメンタリーってどんなものが正解なのだろう?」という問いに対しては1を踏まえて「被写体の人物が自己を他者に向けて開くプロセスが、ある個別な関係のもとに撮影されたもの」と半分くらい結論付けることが出来るでしょう。以後、私が乃木坂の映像コンテンツの質を自分で判断する際には、これが一つの基準になっていると考えていただいて結構です。ただし、それもあくまで一つの視点にすぎず、個々の作品ごとに見方も触れ方も全く異なるという当たり前の事実も付け加えておきます。一応。
 

乃木坂の4人(熊坂出/2014)

8thシングル『気づいたら片想い』の特典映像は、クリエイターと各チームに分かれたメンバーがエチュードを行うというものでした。しかし、それらとは全く別に収録されたのが『乃木坂の4人』です。この特典映像は、同シングルで初センターとなった西野七瀬、福神落ちした松村沙友里、選抜入りした樋口日奈、選抜落ちした伊藤万理華という、ポジションの変化した4人にスポット当てています。彼女たちが選抜発表を受けた1月から2月のバスラまでの期間に撮影されています。映像の流れとしては、それまであまり深くグループと関わったことのなかった熊坂出監督が密着兼インタビューを行いながら彼女たちの姿をカメラに収めてゆくというものです。

 最初のインタビューの直後に、監督からメンバーに向けて「乃木坂46が大きくなるための、今日の反省と明日の目標を、毎日自撮りしてください」という課題が出されます。この課題の自撮りが、この映像の一つの特徴にもなっています。最近の工事中の回*8で、メンバーたちがマネージャーに練習として自撮りを送るというエピソードが明かされていました。乃木どこ時代にも、自撮りについて扱う回*9*10があったりと、彼女たちが自己をアウトプットする際には馴染みのものであることがうかがえます。しかしここでの自撮りは映像ということもあり、どのような反省や目標を口にするのか、そもそもやってくるのかなど、向き合い方にメンバー個々人の人となりが強く現れます。熊坂監督が彼女たちにすごく素朴な質問をぶつけてゆくこともあって、映像を通して、メンバーたちが自分と世界の対象関係に向き合う姿が非常に複雑で繊細に立ち現れています。と同時に、監督の目を通して彼女たちが「何を見ているか」への最も素朴で強い関心もかき立てられます。重要なのは、その欲望を向けているのは誰か?ということを全く隠していないことでしょうか。彼女たちが「掴みきれない」ということが露わになりながら、近づこうとしている意志を感じます。

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 さて、そんな自己認識と他己認識が互いにフィードバックしあう状況が十分に示されたうえで、演技のワークショップが行われることになります。彼女たち自身が「演技」に興味を持ったからという一応の経緯があるのですが、ごく普通のリハ室で、プロの演技のレッスンを受けながら、また自撮りとは異なる自己のアウトプットに取り組むわけです。映像の終盤、プロの女優を交えて5人で即興劇、エチュードに取り組んだ際、西野は歌と演技、二つの道のどちらに進むか選択を迫られます。正直に言って、ここで声を震わせながら『失いたくないから』をアカペラで歌う西野の姿はとても悲痛です。演技とはいえ、向けられた言葉や演じる役の立ち位置が自分の深い部分とつながっている分、精神的にもすり減っている様子も伝わってきます。また、このエチュードの中での彼女の振る舞いは堂々としている訳でもないですし、決断に至る過程も恐る恐ると言った様子です。もしもこれが何らかの劇であったり、物語であった場合、西野のそういった身振りはメインキャラクターとしての魅力を欠いたものかもしれません。けれど、この映像を通して、自己を他者へと向けるプロセスに丁寧に取り組んできた彼女たちの演技は、なにか虚実の境を越えた強い訴求力と説得力を獲得しているように感じられました。初めて見た時、この場面を私はとても美しいと思いました。ただここで強く言っておきたいのが、必ずしも追い詰められた姿の中からリアリティや生々しパーソナリティが立ち現れるわけではないということです。それなら、この映像ではなくてAKB的な「マジ」でいいわけです。あくまで、監督とメンバーたちのコミュニケーションの所産として、一人一人が自己と他者の境界でさまざまな幅を持った表情や身振りを見せてくれていることに感動できたのだと思います。

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ごめんね ずっと…(山戸結希/2015)

 11thシングル『命は美しい』に収録されたカップリング曲のMVは少々変わった作りなっているのですが、楽天のコラムで簡潔にまとめられているので、以下に引用させていただきます。

このMVを手掛けたのは、映画監督の山戸結希さん。〔…〕画面が2分割されたこのMVでは右画面に「アイドルの西野七瀬」、左画面には「もしも西野七瀬がアイドルになっていなかったら」をテーマにした映像が映し出されます。「アイドルの西野七瀬」ではライブや握手会でのスナップ写真、過去のライブ映像やMV撮影のオフショットなど、アイドルとして成長し輝き続ける西野七瀬の姿を目にすることができ、もう一方の「もしも西野七瀬がアイドルになっていなかったら」では、アイドルの道を選択しなかった西野が以前「将来の夢」として挙げていた看護師として過ごす日常が展開。実際の幼少時代が垣間見られる写真も使用されており、現実と虚像が矢継ぎ早に映し出されていきます。

楽天ブックス: 西野七瀬ソロ曲「ごめんね ずっと…」解説 - 乃木坂46公認コラム『のぼり坂』vol.12

  この記事の中には「リアルと虚像の融合」という見出しも存在しますが、ここで言われているリアルとは過去の記録の中に残る、このMVに映ることを意図して撮られたわけではない映像たちを指します。私は、山戸監督は同時代的な問題を取り扱っていると思うのですが、この映像の中でも過去の西野の夢と、今の西野のタイムラインを並走させることで、フィクションとリアルの世界の優劣を一旦抹消するかのような演出になっています。最初と最後のモノローグというか傍白では、決断という行為の中で、今の自身の身振りが一つの夢の中にあるといったような、そんな見え方をさせてくれます。

 作為というものが、パーソナリティをどのように引き出しているのか、もしくは逆照射しているのか、そういったことが劇映画の演技を楽しむ一つのチャンネルだとは思うのですが、山戸監督の映像には、誰しも虚構を抱えて生きているといった、そんな世界認識が感じられます。過剰な「演技」の裏側の演者の役への向き合う姿が色濃く映像に収められています。本日公開の堀未央奈主演の映画『ホットギミック』も撮影された山戸監督は、同映画についてTwitterで「映画でも、たとえそれがどんな映像媒体だとしても、作品が完成した時、映された人自身のこれからが、すこしでも生きやすく、呼吸をしやすくなりますように、と願いを込めて撮っています」*11とコメントしています。ここにも、監督が映像を通してどのように被写体と向き合っているかがよく現れていると思います。さらに、日本映画専門チャンネルで公開された『映画の女の子、の依拠する三角関係に差し当たって』という短編映像では、映画を通して夢や憧れを持つ女の子の姿が描かれます。

 これらのことから分かるのは、山戸監督は、一人の女の子がどのように自分の理想をもって、それと付き合ってゆくのかということを、映像、つまりは基本的には過去を記録するメディアにおいて表現しようとしているということです。『ごめんね ずっと…』も、まさしくそういった西野七瀬の憧れとその答え合わせを通して、様々な時間が交差する場として彼女自身の姿を描こうとしているように感じられます。それは、結果的には物語や強い意味での「演技」を通した「虚構」へと自覚的に向かってはいますが、西野のパーソナリティの深い部分に分け入り、現在の彼女の認識に新たな視点を投げかけようとしているのではないでしょうか。

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Weekend(頃安祐良/2018)

 先の山戸監督の試みを通して、ドキュメンタリーと銘打たなくとも、ドキュメンタリーに期待される時間、つまりパーソナリティが前に出る時間というのは、劇映画やフィクションの中に織り込まれていることが分かっていただけたと思います。さて、ここでは少し毛色の異なる作品を一つ取り上げたいと思います。それは、22ndシングル『帰り道は遠回りしたくなる』収録の井上小百合の個人PVです。この映像は、彼氏の家に来た井上小百合が家事をするという一見すると妄想リクエスト的なタッチの作品なのですが、実はそこにはやや不穏な秘密があったことが最後明かされる、ちょっとした叙述トリックが仕組まれています。

 さて、プロットはともかく、この映像は全編本人による自撮りで構成されています。そのため、ある種のモキュメンタリー的な要素もあるのです。あくまで物語作品である今作を取り上げたのは、自撮りによって語られる物語に特異性があるからです。というのも、自撮りというのは例えば『ロマンスのスタート』のMVに採用されているようなPOV的な意味合いとは異なるかたちの一人称だからです。撮影者と被写体とが同一であるため、それがどんなに作為のもとにあったとしても、「彼女が見ている世界」という事実が行為のレベルで残り続けます。その意味では、自撮りというのが「本人を演じること」のごく身近な例とも言えるでしょう。また、私の見ている私、の中に演技が存在しているため、その幅自体がとても複雑になっています。インプットとアウトプットの過程に他者が入り込んでいないので、私秘的な時間、手紙をしたためているような閉じた開き方をしているようにも感じられます。井上小百合自体が個人PVや舞台などを通して「演技」に様々に向き合ってきたこともあり、やはり、単なる物語作品以上の、一人称の時間に触れられるのではないでしょうか。

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悲しみの忘れ方(丸山建志/2015) 

 最後に、乃木坂46初のドキュメンタリー映画について。この映画は、2015年7月、ちょうど4年前に公開されたものです。監督は、MVでもグループとの関わりの深い丸山建志*12です。この映画では、数人のメンバーにフォーカスをしながら、彼女たち一人一人に様々なインタビューをしながら、過去の映像を参照したり、母親に書いてもらった手紙をナレーションで当てたりと、かなりパーソナルな領域を掘り下げてゆきます。その意味で、この映画はメイキングのような舞台裏映像集とは異なり、個々のプライベートな時間に踏み込んでいっていると言えるかもしれません。丸山監督のインタビュー*13 によると、裏側に迫ることと同時に、メンバーのパーソナリティと、彼女たちの表現しようとしているグループや楽曲の世界観との接点を探ることも試みられているようです。

 乃木坂メンバーが最初にやる恒例の舞台作品としてプリンシパル公演がありますが、そのオーディションでは自己PRと自己紹介を何度も何度も行います。彼女たち自身はエンタメとして仕上げるために必死だったと語ってもいますが、やはりメイキングであれ「見られるための私」を自然な姿として差し出すことは困難でしょう。その点で言えば、今回は母の言葉という他己紹介であり、さらに言えばそれすらも母親本人から一歩遠ざけています。実家で撮影されたインタビューも、本人たちが「見られるため」に自覚的に用意したものではありません。実家を訪れたり、母親のような他人の時間を通して見えてくる彼女たちの時間というのは、様々な人たちとの親密な時間を想起させて、普段自分たちがメディアを通してマンツーマンのように錯覚しながら何がしかを受け取る時とは異なります。もっと、生活や仕事などの、日常的な環境の層が垣間見えてくるように感じました。

 ただ一方で、この映画に関しては正直自分は素直に乗り切れるわけではないんですよね。少なくとも自分が初めて観た時、監督自身が吐露していたように、語りすぎなのでは?という印象がありましたし、過去への眼差しが、かならずしも現行の彼女たちのイメージに豊かなものとして再帰しているようには感じられなかったからです。どこか、物語として選択されたものという印象が拭いきれませんでした。それが、乃木坂のやってきた世界観だと言われればそれまでかもしれませんが、自分には感傷的過ぎたのかもしれません。ただ、パフォーマンスとして彼女たちが体現するものは、やっぱり彼女たちの生きた時間そのもとは一定のズレがあると思うのです。新録のインタビューと過去の現場での困難を映したメイキングには、ステージに上るまでに、メンバーと表現する世界観が近づいてゆく姿が現れているように思います。それは、119分という限られた時間の中で、緻密なやり取りがなされたことを十分に知らせてくれます。けれど、自分には言語化しづらい引っかかりが残っています。もしかすると、最後の堀ちゃんの「髪を切った」が感動的なのは、あの映画で唯一、今とその先に至る時間に目線を向けていたからこそ、何か感傷的なムードとは異なる希望的な見え方をしていたのかもしれません。

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終わりに

 さて、この後半部でいくつかの映像について言及しましたが、いずれも前半部で述べたようなドキュメンタリーの視点をもってメンバーのパーソナリティに向き合ったものだと思っています。しかしいずれも『超研』のフェイクドキュメンタリーの時と同じく「見られている私」に対して積極的にコミットせざるを得ない彼女たちだからこその生の時間を立ち上げているように思います。やや話がそれるのですが、香月孝史というライターの方がこの辺りの点について興味深いことをおっしゃっていました。

パーソナリティが享受の対象になるのって別に、すりへっている姿だから、ではないんですよね。芸能が「見られる」対象である以上、受け手から無数の物語を投影されることは不可避ではあります。だけど、その依代は明快に劇的な何かである必要はなくていいのだよな、こういうごく自然なふるまいの中にいくらでもパーソナリティを享受する喜びはあるのだよな、と卒業コンサートを見ながらぼんやり考えていました

乃木坂46と、静かに“成熟”を体現すること|香月孝史|note

  個人的にはこの問題って結構根深くて、実際問題様々なレベルの場面でちょっとしたものを見るだけで感動は起きます。一方で、映画や舞台、ライブといった場がある程度の過酷さの中から立ち現れているのも事実で。そつのないパフォーマンスって必ずしも魅力的に映るかどうかって自分の中ではとても微妙なところなんですよね。もちろん、これもパフォーマンスか否かという話でもなく、個々のコンテンツの中で判断をすべきなのでしょうが。一方で、自分が無意識の内に嗜虐的な姿を望んでいないかは常に自覚的にありたいものです。

 では改めて。我々は、アイドルのドキュメンタリーに何を期待するのか?正直に言って、ジャンルとして曖昧なものに定量化された何がしかを期待しないほうが良いでしょう。ここまで読んでくれた人ならなんとなく察してくれると思うのですが、そもそも常にカメラに曝されている彼女たちのプロダクトには、より細分化された形でドキュメンタリーの時間が存在するように思います。なので、個人的には飛鳥ちゃんが虚像という言葉で語ったように*14、観客である自分自身の持つどういった欲望が投影され体現されているのか、それを受け止めるメンバーそれぞれが虚像の先の可能性としてどのような理想を能動的な形で提示しているのか、両者の距離を常に測ってゆくことがまずは重要なのではないかと思います。その上で、ドキュメンタリー映像として優れていると個人的に思えるのは、メンバーたちそれぞれが行う様々なボリュームでの自己のアウトプットに撮影者の作為や意図が介入できているものでしょう。ドキュメンタリーの出来を分かりやすく評価する軸は、存在しません。なぜなら、プロットの快不快では言い表せないからです。それはつまり、コミュニケーションの記録であるということを意味しています。

 『はじまりか』とか『ガクたび』とか『情熱大陸』『セブンスルール』……他にも語るべき点の多いコンテンツがあるのですが、今回はここまで。さて、それでは最後に近日公開される『いつのまにか、ここにいる』について一点だけ。今回の映画の主題歌のタイトルが「僕のこと、しってる?」であることが先日発表されました。個人的には自閉的、内省的でない形で「僕」がタイトルに据えられてるのはなんか新鮮だなと思いました*15。君にとっての「僕」が開かれた存在のように響いて、ぐっとくるものがあります。さて、今回の映画では公開前から様々な意見や憶測が飛び交っていますが、我々はどんなメンバーの一面に期待し、何に触れられるのでしょうか。今回のブログが、映画を観る際に少しだけその経験を豊かなものにできれば幸いです。

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*1:この映画の続続編『A3』は映像ではなく書籍なのですが、そちらは全文無料公開されているので興味のある方はぜひ|https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac

*2:「残酷なるかな、森達也」神山典士|https://blogos.com/article/178313/

*3:映画「FAKE」【神山典士氏の発言に対する反論】|https://www.facebook.com/fakemovie2016/posts/295234160808888

*4:佐藤真は、映画美学校のドキュメンタリコース開設にあたって以下のようにコメントしている。「事実はそもそもフィクションを内包している。たとえ、無垢の事実がそっくり映像に収まったとしても、それを再構築したとたんにフィクションになる。これが、ドキュメンタリー・コースの基本的立場である」|http://eigabigakkou.com/course/documentary/message/

*5:【映画と生きる】乃木坂46主演で驚きの映像表現 「超能力研究部の3人」で大胆な演出に挑んだ山下敦弘監督|https://www.sankei.com/smp/premium/news/141129/prm1411290018-s.html

*6:『超能力研究部の3人』山下敦弘監督インタビュー|http://www.fjmovie.com/main/interview/2014/11_chonoryoku3.html

*7:乃木坂46橋本奈々未 、“ファン心理”に興味「個人面談をして探ってみたい」|https://www.crank-in.net/interview/34157/1

*8:乃木坂工事中#211「改めて知って欲しい! 2期生のいいところ」

*9:乃木どこ#76「深川、川後の生誕祭&自撮り選手権の2本立て!」

*10:乃木どこ#85「乃木坂メンバーのブログを徹底チェック!」

*11:山戸結希Twitterhttps://twitter.com/KURAYAMI_TOWN/status/1141695304728629253

*12:丸山建志監督作品プレイリスト|https://www.youtube.com/playlist?list=PLRJ9pIwsF80vE-WKtRK8ugbjpb1Z51-TQ

*13:舞台裏のプロフェッショナル 「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46丸山健志監督 | HUSTLE PRESS OFFICIAL WEB SITE|https://hustlepress.co.jp/maruyama_interview/

*14:B.L.T. 2019年7月号

*15:これまでに「僕」が入ったタイトルは、『僕が行かなきゃ誰が行くんだ』『あの日僕は咄嗟に嘘をついた』『僕がいる場所』『行くあてのない僕たち』『僕だけの光』『僕の衝動』『僕だけの君(アンダーアルバム)』