メイド・イン・アメリカ

 先日、乃木坂46の27thシングル『ごめんねFingers crossed』のMVが公開されました*1*2。監督は『君に贈る花がない』『誰のことを一番 愛してる?』『Wilderness world』を手掛けた東市篤憲であり、前作と同様のきらびやかな演出とシネマティックな展開が光る作品となっています。今回書くのは、『ごめんねFingers crossed』についての雑多な感想です。ここでは、MVに感じた「B面性」の印象を元に、「車」というモチーフに対する連想をまとめ、仮組してゆきたいと思います。



乃木坂46の「B面」

 まず、今回の『ごめんねFingers crossed』のMVの感想は、個人的なフェチは要所要所にあれど、ぶっささりはしないといった感じです。とはいえおおむね好印象で、スルメ作になりそうな予感があります。MV公開前に告知された特設サイトで緻密な設定が示されつつも、映像としてはメンバーのヴィジュアルに重点が置かれ、何がしかの「読み」ではなく、画面内のドライブ感に身をゆだねるような楽しみを誘います。
 遠藤さくらが初めてセンターを務めた『夜明けまでは強がらなくていい』では、ジャケット写真やそのほかの展開の中でぼんやりと「原点回帰」が示されていました。これはまた、四期生が期生としてあてがわれていた役割でもあった訳ですが、それらを踏まえつつも、最近の四期での展開はむしろ独立性の高いものとなっています。26thシングルにおいて山下美月と三期生がグループの繊細な作話の手つきを引き受けていたこと思えば、今作は四期の培ってきたイメージを踏襲したうえで、グループとしての継続性もべつのかたちで示しているように思いました。それは『夜明けまでは強がらなくていい』と異なる「原点回帰」への目配せでもあるでしょう。
 今作は映像的には、まばゆいライティングのある空間でのパフォーマンスが印象的です。それは東市監督の前作『Wilderness world』も同様です。あくまで印象レベルで言えば、『意外BREAK』や、『against』なども想起させられます。乃木坂46の「王道」は恐らくシンプルかつやや禁欲的な演出、そしてメンバーのパーソナリティの延長線に置かれた文学性といったものが挙げられるでしょう。上記の作品は、そういった伝統からは少し距離を置いています。とはいえ、今作は『意外BREAK』のようなガジェッタブルな遊戯性も、『against』のようなコンセプチュアルさとも異なります。
 また類似した印象としては、他グループになりますが、同時期にリリースされた日向坂46『君しか勝たん』なども挙げられそうです。こちらの監督は大々的なメディアミックス展開として乃木坂も関わりのある『映像研には手を出すな!』、そのアニメ版のchelmicoによる主題歌のMVを手掛けた田向潤です。『君しか勝たん』では、スタジオ撮影というミニマルな空間の中で(余談ですが、こういった空間設定はコロナ禍を意識したものではないでしょうか)、画面のフレーミングが連鎖的に外され、脱し、逃れ去ってゆきます。『Easy Breezy』のトリップ感とは異なり、観ている側の身体性に訴えかけて巻き込んでゆくような、祝祭的なつくりの作品となっています。

 さて、私はこのようないくつかの継続性の兆しと、きらびやかなパフォーマンスの共存する『ごめんねFingers crossed』のMVに対して「B面」性を感じました。ここで(かなり)恣意的にB面と言っているものは、単に各シングルEPごとの表題以外の楽曲を指すものではありません。アンダー曲、ユニット曲、期生曲を除いた、おおむね選抜メンバーと同じ構成の楽曲、文字通り表題曲にとってのB面シングルの楽曲群を指しています。
 個人的にそれに該当するとざっくり考えているのは、1stシングルから順に、「会いたかったかもしれない」「心の薬」「ハウス!」「人はなぜ走るのか?」「音が出ないギター」「指望遠鏡」「シャキイズム」「ロマンティックいか焼き」「世界で一番孤独なLover」「月の大きさ」「そんなバカな…」「ロマンスのスタート」「吐息のメソッド」「何もできずにそばにいる」「転がった鐘を鳴らせ!」「ポピパッパパー」「悲しみの忘れ方」「僕だけの光」「孤独な青空」「女は一人じゃ眠れない」「ひと夏の長さより…」「泣いたっていいじゃないか?」「不眠症」「空扉」「あんなに好きだったのに…」「僕のこと、知ってる?」「僕の思い込み」「明日がある理由」「Wilderness world」がそうです*3。このように並べてみると、タイアップ曲すなわち外仕事も多いですね。

 では、こういった文字通りの「B面」に配置された楽曲群の、「B面性」とはどのようなものでしょうか?印象レベルで言えば、乃木坂の王道の物語にあった「奥手なコミュニケーション」の詩情、あるいは内向的な文学性(のようなもの)から距離のあるクリエイションが「B面」なるものとして受け取られるでしょう。すなわち、「王道」にとっての「振れ幅」や「拡張性」を担う役割。あえてネガティヴに言えば、あるいはそれは本人たちのパーソナリティに強く立脚することのない、お仕着せられコスプレといった感じとも言い換えられることもあるでしょう。MVに対するファンのリアクションの中には、「乃木坂でなくても可能ではないか」「乃木坂である必要を感じない」といったネガティブな意見もみられました。東市監督の余剰であり過剰な演出からは、そういった装飾性やコスプレ性と近いものも感じます。コアなものを純なまま見せるわけでもなく、構築的な手つきを前景化するわけでもなく、振れ幅、すなわち私から私でないものへの距離を一足飛びに横断する軽やかさを感じさせるということです。では、ここからはより広く一般論として、俗っぽさやジャンクさ、エンタメさと結びつく「B面」という語を、いくつかのカームービーを元に考えてゆきたいと思います。

カームービーあるいはアメリカの街路

 今回のMVを手がけた東市篤憲は、Twitterでアナウンスした際、今作が『ワイルド・スピード』へのオマージュが込められていることを明かしました*4。一見して明らかなように、街路でのイリーガルなドラッグレースというモチーフは、随所にあるアメリカ風の光景やモチーフとも相まって同作を連想させるものです。ここからは、『ごめんねFingers crossed』における「車」と「アメリカ」というイメージを、最近観たいくつかの映画作品の中から取り上げてみたいと思います。その上で──やや飛躍した物言いにはなってしまうけれど──、上記のイメージをMVの「B面性」のアナロジーとして捉えてみます。

ワイルド・スピード

 まずは、オマージュ元ともなっている『ワイルド・スピード』ですが、同作は非合法な路上のカーレース(ドラッグレース)をテーマとした映画シリーズです。長大なシリーズでもあるが故に、ナイーブな内面性が描かれることもあれば、時にはサイバーパンク風の湿度の高いアジアの世界観が据えられたり、あるいは刑事ものであったり、スパイものやギャングものの要素もあります。レースだけでなく、車がどのようなアクションが可能であるかということが回を重ねるごとに大掛かりになってゆく演出によって探求されており、アクション映画としても成功しています。このようなジャンルレスな多趣味さは、まさしくエンタメの極地といえるでしょう。
 この映画シリーズがどのようなものであるかを簡潔に説明するのは以上のような理由からやや難しい。規範的な倫理観に照合すれば露悪的なモチーフの取り扱いもありますが、それはあくまで一面的なものでしかない。しかし、今作は何にもおいてスーパーカーがくず紙のようにぽんぽんと破壊されてゆくことに、その一貫した魅力があると個人的には思っています。スーパーカーは観客にとって唯一無二の相棒あるいは理想や憧れの対象として経験されつつも、同時にある面では壊れて新車に買い換えるマーケットの新陳代謝に身を置く商品の一つでしかありません。そういった意味では、「愛車」という考えが強い日本の「走り屋」的な世界観とはやや異なる印象を受けます。

 さて、『ごめんねFingers crossed』では、監督がオマージュを明言する通り、レースのフラッグガールや、車中での目線のやり取り、ニトロのメカニックなど、さまざまなモチーフが採用されています。しかしながら、トロフィー美女やレースクイーンのような典型的なモチーフは、そういった身振り自体が存在しないわけではありませんが、直接には避けられています。では、「車」というモチーフが何かのシンボルとなっているのでしょうか?私はそうは思いません。今作MVがドラッグレースといったモチーフから引き出しているのは「路上」であると私は考えます。
 モータースポーツにおいて代表的なものとしては、F1と耐久レースが挙げられるでしょう。それぞれについては、近年の映画で『RUSH』と『フォードvsフェラーリ』といった突出した成果があります。これら二作はレーサーたちの実話をベースに、彼らの生に肉薄してゆく映画です。個人的な連想にあったこれらの映画は、『ワイルド・スピード』やこれから言及する映画も含め、一見すると無関係なものでしかありません。しかし、アメリカ製作の映画であること、そして主人公たちはなんらかのたちでスピードに魅せられ、取り憑かれたようにスリリングな走行をする、彼らは路面で恍惚を得る、こういった点ではみな共通するものです。逆に言えば、カームービーの王道とはそういった身体とスピードの関係のカタルシスを、さまざまな生に当てはめてゆくものであるとも言えるでしょう。


 しかし、カームービーにおける「路上」すなわち「街路」に焦点を当てるとどうでしょうか。加えて、アメリカという土地の。まず言えるのは、アメリカというのは街路に歴史的経験のない土地であることでしょう(反対にヨーロッパの街路は往々にしてさまざまなストーリーや歴史的英雄とともに語られる)*5。ゆえに街路は、ただ各々のために走り抜けられる場所であるのです。

クラッシュ

 カルト映画として知られるクローネンバーグの『クラッシュ』は、近代都市の終末的世界観を描くJ.G.バラードの同名小説を映画化したものです。バラードは、「速度」を政治的かつ哲学的テーマとして扱ったポール・ヴィリリオから少なくない影響を受けた作家でもあります。『クラッシュ』は、ある偶然の交通事故をきっかけに、主人公が交通事故とセックスを結び付けてゆく狂気的なフェティッシュの世界を描いた作品です。それは、ジェームズ・ディーンの事故死といった歴史的場面の再演から、カーセックス、事故で出来た傷への性的愛好など、作中で多岐にわたって展開されます。今作では、交通事故というものが、有象無象の無意味さたちが偶然に解放的なエネルギーを発することであると考えられています。自動化された現代的な都市において、そのひずみである交通事故(クラッシュ)は人間的な欠陥や有限性を示す、まさしく、生=性のエネルギーが現れる瞬間というわけです。

 重要であるのは、登場人物たちにとって車というものへの直接的な美意識などはあまり感じられず、ただ、都市の内を移動するメディアとしての「車」が重要であるということでしょう。危険走行を繰り返しながら、そこへ性的なカタルシスを結び付けてゆく彼らには、シンボル以上のものとしての車の固有性へのこだわりは感じられません。
 アメリカ社会というのは、そもそもかなりフリーダムな運転がなされる土地であり、さらには、その街路というのは西欧のそれと比べたときに歴史経験の薄い場所です。そこには、ただ過剰な移動のエネルギーが自動化されながら充満しています。すなわち、アメリカの街路とは、「移動」が人間的な営為であることを離れ自動化されてゆく場所なのです。

ノマドランド

 『クラッシュ』において示された街路は、今年度アカデミー賞受賞作である『ノマドランド』とは対照的なものです。『ノマドランド』は、季節労働を求めて様々な土地を渡り歩く車上生活者の姿を、ドキュメンタリーをまじえて描いた秀作です。今作においては、現代アメリカの貧困問題以上に、ノマドとなった主人公が足を運ぶ、人生のゼロ地点──例えばそれは記憶の中で理想化されることで非現実的なものとして想起されるコンフォートフードのようなもの*6──である砂漠あるいは荒野というものが重要です。『ノマドランド』を観ながら、アメリカという土地は、心象風景や原風景といった幻想でしかない場所が、「荒野」として物理的に実在しているのだなと思いました。それらは、自分へと立ち返るきっかけとなるスタート地点でもあり、無垢なままの土地としてのゼロ度も示しています*7
 この映画は、先述のアメリカと車のイメージの、むしろ基底をなしているものにも思えました。荒野というのは、さまざまな秩序に支配された自分の生の依代を担保している共通な場のようなものかもしれません。アメリカという土地が過剰な記号の取り扱い、そこへの軽やかなジャンプという極点を示せるのは、一方にかような土地の過剰なゼロ地点の現れがあることも無関係ではないでしょう。アメリカ的な形象、あるいはアメリカ的な想像力の根源としての「荒野」。それは、時に私小説のようですらある数多くのロードムービーたちによって実践的に示され続けてきたことではないでしょうか。

 『クラッシュ』と『ノマドランド』、二つの映画は「アメリカの街路」の表裏を示しています。前者は、「加速」の果てに過剰なエネルギーへと溶けてゆく(=自動化する)ような場として、後者はそもそも「加速」を可能にする街路自体が終着する「ゼロ」地点へ導かれる場として、「アメリカの街路」を描きました。重要であるのは、「アメリカの街路」とは無あるいは破壊としてのゼロへと至る場であり、それを覆うようにして移動の過剰さだけが現れているということでしょう。

まとめにかえて

 『ごめんねFingers crossed』において、乃木坂46がたまたま扱ったアメリカ的ドラッグレースといったモチーフは、車以上に(アメリカ的)街路での軽やかな身のこなしを示しています。言ってしまえば、それは両極端を橋渡しする無内容なある過剰さの濁流を乗りこなすことです。表題曲にとっての振れ幅を担う「B面性」が、パーソナリティの表現ではなくコスプレ的であるというのは、こうした軽やかな転身や移動、身のこなしを指すものでしょう。当然ながら、この「B面性」とは楽曲の位置づけにのみ意味を持つのではなく、グループの様々なクリエイティブにも当てはめることのできるものでしょう。「アメリカ」といった概念にこだわるのであれば、橋本奈々未梅澤美波の個人PVが*8。あるいはコスプレといった点を、ジャンルものへの振りきりと捉えるならば、『初森ベマーズ』のような内輪を前景化したわちゃわちゃドラマではなく『ザンビ』をこそ評価するような視点が。


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 それらは時に内省的でもあれば、トリップすることも、王道を行くこともあるでしょう。しかし「B面性」の無差別なジャンクさは、繊細さを欠いてもいるといえます。であれば、今作のMVの統一感のない衣装や、パッチワークの歌衣装*9などは、いずれも同様の、空疎さを内にもった表面を表しているとも言えるのかもしれません。

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 いくつかの連想を仮組した今回のブログはここまでです。言及したカームービーのイメージ(と、そこから引き出されうる「アメリカの街路」)は、今回の乃木坂のMVとモチーフが共通することを除いて、直接的に強く結びつくわけではありません。しかしながら、今回のMVのB面性、さらにいえばその俗っぽさやエンタメさというものは、まさしくこれらのアメリカ的な形象に見出されてきたものとも思えるのです。それは文学的でも祝祭的でも叙情的でもありません。
 今回のシングルのヴィジュアルな表現は、当初は原点回帰を謳いながらも徐々に自立していった四期生*10のグループ内での立ち位置の変遷を示すものです。しかし一方で、それは乃木坂46の王道のクリエイションの水面下にあったB面の系譜を照らし出すものでもあったのではないでしょうか。この時、今回たまたま選ばれた車をテーマとしたアメリカ映画のモチーフは、その「B面性」への理解を深めてくれる好例となるはずです。B面、すなわちそれは、ある過剰さの濁流のなかをサーフすること。アメリカの街路を走り抜けるように。速度調節はなく、文字通り0か100かの世界。実在するゼロへと軽やかに立ち戻りながら軽やかに別の場所へと身をこなすこと。『ごめんねFingers crossed』MVの身の軽さは、「成長」という、時間のかかること、スローな文法を謳うアイドルに対して、まったく対照的な速度の文法として機能しているでしょう。

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*1:【遂に公開!!】27thシングル「ごめんねFingers crossed」Music Video!!|https://www.nogizaka46.com/smph/news/2021/05/27thfingers-crossedmusic-video.php

*2:振付はLICO|https://twitter.com/chelicopy/status/1393218883293573128?s=21

*3:乃木坂46カップリング曲一覧:センターや歌唱メンバーまとめ|https://noborizaka.site/nogizaka46coupling-matome/

*4:東市篤憲監督のTwitterコメント|https://twitter.com/___blank/status/1392843365138395138?s=21

*5:バートン・パイク『近代文学と都市』

*6:三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』、チャールズ・バーンズ『Black Hole』

*7:ジャン・ボードリヤールアメリカ──砂漠よ永遠に』

*8:橋本奈々未の個人PV『ヤングアメリカン』については、あくまでタイトルに含まれるというだけですが。ちなみにこの個人PVはそのタイトルと内容からして、おそらくデヴィッド・ボウイの『Young Americans』が元ネタでしょう。|https://youtu.be/wubHNvJXQgY

*9:スタイリングは市野沢祐大|https://twitter.com/ichinosawa_/status/1393015111766351876?s=21

*10:乃木坂46、4期生という“ユニット”が持つ未知の可能性 グループの文脈に依存しない確固たる個性|https://realsound.jp/2021/05/post-760873.html