あの教室でつかまえて

2016年10月25日、乃木坂46youtube公式チャンネルに同グループ16thシングルのカップリング曲『あの教室』のMVが投稿されました。個人的には16th関連の中では一番好きなMVとなったので、本作の魅力についてちょっと語ってみようと思います。

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まず、最初に観た際の素直な感想としては、「よくわかんないけどシュールな感じが面白い」です。高校らしき学校内の風景と、演劇部が使うような照明にライトアップされた舞台(正確にはスタジオ内でしょうか)という、二つの場所の映像が交互に映し出される以外に取り目立った展開はなく、総じてミニマルな構成となっています。

※参考
「あの教室」のMusic Videoが公開!!
➡ 監督 山岸聖太

 続いて、この曲の歌詞を読んでみてください。

あれから初めて来たね
何年ぶりにチャイム聞いただろう
懐かしい校庭は
思ってたよりも狭く思えた

自転車 二人乗り
ぐるぐる走りながら…

好きだった人の名を
今になって言い合った
本当は知ってたよと
大声で叫んでいた
あの教室を見上げて…

地元の商店街で
バッタリ出逢って 通学路たどった
あの頃は毎日が
楽しいなんて気付かなかった

ペダルを漕ぎながら
時間を巻き戻した

お互いに好きだった
過ぎた日々が切ないね
胸の奥 しまいこんだ
ときめきを思い出した
あの教室が眩しい

“もしも”なんて考えて
甘酸っぱい風が吹く
自転車の二人乗りも
少しだけきゅんとしてる

好きだった人の名を
今になって言い合った
三階の校舎の端
ガラス窓が反射する
あの教室は
もう帰れない
キラキラ

歌詞からもわかるように、一人称視点でかつての学生時代の思い出を誰かに語りかけるという内容になっており、映像と結び付けて理解するのであれば、大人になった飛鳥ちゃんと堀ちゃんの二人が、在りし日の青春時代を懐かしんでいる、といったイメージを多くの方が思い描くでしょう。さらに言えば、二人の女性が久しぶりに訪れた校舎の外で、学生時代の思い出を語り合っている。MVに流れる映像はどちらかの女性が頭の中に思い浮かべる当時の記憶の中の世界のように見えます。

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ここで、先ほど何気なく二つのパート(校舎内と舞台上)で分けた映像について説明を加えると、基本的には校舎内で起きていることは現実に即し、舞台上で起きていることは妄想のようなものと思われます。理由は舞台上とはそもそもフィクション(嘘)を語りやすい場として設えられた空間であることと、“校舎内→舞台上”に映像が切り替わる際は二つの空間が同じ構図で撮影されてモンタージュされており、その逆の舞台上から始まって校舎内に同じ構図で切り替わってゆくシーン・出来事が見受けられないことが挙げられます。

校舎内の映像がリアル=実際にあったこと、舞台上の映像がフィクション=実際にはなかったことと仮定してみると、この映像は当時の実際に起きていたこと(堀ちゃんが飛鳥ちゃんを遠くから見ているなど)が、時間経過とともに脳内で美化された、歪められながら記憶された、もしくは思い出されたものと言えないでしょうか。掃除の時間の何気ない景色から、舞台上に切り替わると大量に積み重なった机や椅子が置かれているのも、そういった頭の中の世界と現実が混じりあった光景に思えます。

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私は最初にこのMVを観てシュールという印象を受けましたが、ここで一度、シュールという言葉の意味についても押さえておきたいと思います。シュールとは美術の一つの傾向を指すもので「シュル(=超)レアリスム(=現実的)」の略語に当たり、すごく簡単に説明すると寝ている時に見る夢のような光景を描いたものです。以前放送された「東京暇人」という番組内で、新美術館で開催されている「ダリ展」を松村沙友理秋元真夏の二人が巡るという内容のものが放送されていましたが、ちょうどこのダリがシュルレアリスムの代表的な画家と見なされています。夢の世界では、ありえないものや出来事が脈絡なく出現するにもかかわらず、どこか当たり前に存在します。「あの教室」も正にそんなありえない光景(積み上げられた机や椅子、紙袋を被った学生など)が、舞台の上に登場します。

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サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)

よって『あの教室』MVでは、一人の女性が思い出す“現実に自分が見た記憶”が、過去に思いを巡らせるうちに自分の中で理想化した“フィクショナルな青春像”(こうあればよかったという理想だけでなく、こうだったかもしれないという推論のずれのような記憶のノイズも含む)に上塗りされていき、まるで夢でも見ているかのようにリアルとフィクションが混然一体となっていく様子を示しているように私には思えました。それが、MVのおおまかな作りになっています。

ただ、こういった青春の心象風景みたいなもの自体は決して珍しいモチーフではないでしょう*1。MVの中には靴下の色の変化や、匿名性を帯びた登場人物、振り付け、シンメトリーを強調した背景の元に繰り広げられる二人の微妙にずれたダンスシーンなど、示唆に富んだガジェットが数多く配置されていますが、私個人としては今列挙したものについてあまり深く考える気にはなりませんでした。では、このMVに私が妙に引っかかりを覚えたのはどのような理由によるものなのでしょうか?少し考えてみました。

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特に惹かれたシーンがあります。それは二番の歌詞が始まったところで、校庭に目を閉じて倒れる飛鳥ちゃんを教室から見下ろすシーンです。飛鳥ちゃんは目を覚ますと体や手足を回転させながら立ち上がり、画面外へと走り去っていきます。ここでも立ち上がるまでに何回か場所が切り替わるのですが、舞台上のセットは一番の歌詞の時とは大きく変わっています。一見してわかるように、金属質の板を二つに折り曲げたハリボテにも似た謎の構造物が無数に立ち並んでおり、それらの隙間を縫うように白色のペイントが、横断歩道のように縞模様で塗られています。映像と対応する部分の歌詞では、ちょうど商店街や通学路といった言葉が現れており、学校という場所から街中へと風景が変化したことを意識させられます。

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私が感銘を受けたのは、このMV全体で描かれる“まち”の姿についてでしょうか。二人が住んでいると思しき地域は、屋上のカットから見える分にはビル群が建ち並ぶthe都会とは言えません。映り込んでいるのはどこにでもありそうな地方都市の住宅地です。

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曲の一番で舞台上に現れた教室らしきセットは、現実の教室の姿から大きくかけ離れており、照明の絞り具合や赤橙のノスタルジックな色合いも相まって、フィクションの世界であることがぼんやりと想像できるだけでした。ところがその後に舞台上に現れたセットは、違和感を多分に孕むものではあるのですが、教室らしきセットの時に比べると個人的にはすんなりとそのビジュアルを“まち”を意味するものとして受け入れることができました。しかし、舞台上に現れた街は実際に彼女たちが住んでいる町の姿とは対照的に見えます。

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この二つの“まち”は何を意味するのでしょうか。私自身の経験として、地元を離れるまでは自分が住んでいた町については、地理的な規模や歴史などを含め、明確な輪郭線を持った姿として捉えきれないことがありました。田舎だったこともあり、自分の足を運ぶ場所も限られています。MVで舞台上に現れた街は燦然と輝きながら無機質な表面を差し出してきます。 個人的に、幼少期に漠然と憧れるSF映画の中に出てくるような、ステレオタイプの都会イメージと重なるように思いました。さらに注目したいのは、配置された構造物が彼女たちの背丈とあまり変わらない高さに留まっているということです。憧憬のイメージと、自分のいる場所に起因する身体感覚のずれが、この倒錯した舞台上の街の姿を呼び起こしているのではないでしょうか。曲の二番以降は、背景が教室から町へと広がったこともあり、妄想の世界と現実の風景の乖離は大きくなり、より閉鎖的な環境の中に身が置かれる青春のイメージが強調されていく印象があります。涼宮ハルヒシリーズをきっかけにセカイ系という言葉が流行したように、閉塞感に包まれて怠惰な日常を過ごすというのは、程度の差こそあれ多くの方が学生時代に経験することです。このMVに現れるのは、そういった痛々しくも感傷的な日々なのかもしれません。

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今一度、最初の前提に立ち帰ります。このMVは思い出の中の世界であって、少なくとも作中のリアルタイムな彼女たちの倒錯した妄想が反映されたものではありません。つまり、何も起きていなかったかつての日々を、ドラマチックに脚色・妄想しているのは画面に映らない大人になった彼女たちなのです。青春という漠然とした観念の所在が大人になった自分たちの中にあり、それが作り上げられた空虚なものであるということを、このMVは爽やかな口当たりで描いているのではないでしょうか。さらに言えば、前述の倒錯した街の姿は、大人が思い返す子供時代の憧れでもあり、であればこそ、それすらも本当に現実に当時の二人が考えていたことかは分かりません。総じて、記憶が混濁してイメージが着地点を失っているこのMVは、心地よい浮遊感を観た者に与えてくれます。

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最後に、『あの教室』を歌詞のストーリーを元に補足すると、映像の中の彼女たちと風景の距離感は、同じく映像の中の人間関係にも当てはまるように思います。現実の、その当時の世界で出会うことのなかったであろう二人は、学生時代を終えた後に、もしくは夢の中で出会うのでしょうか(そう言うと新海誠の映画みたいですね)。様々に想像させる楽しさがあり、これだと決めつけるのは野暮でしょう。MVの前後には比較的ボリュームのあるドラマパートがあります。学校という場で起こる様々な喧騒。冒頭に飛鳥ちゃんが被っていたと思しき紙袋を、最後のシーンで堀ちゃんが被るのは、飛鳥ちゃんのように個性的・特殊な自分になってみたい(≒飛鳥ちゃんに近づきたい)という思いから行ったのでしょうか。しかし、飛鳥ちゃんのようにクラスのみんなに見られている訳でもないし、先生に口答えするわけでもありません。飛鳥ちゃんと同じことをしているのですが、シチュエーションが少し異なっているのです。他方飛鳥ちゃんは、誰もいない屋上に一人で座り込んでいます。堀ちゃんのように教室の中に馴染むことができないからこそ、誰もいない場所で身の周りの風景を受け入れることから始めたのでしょうか。二人は自分の身丈に合わせたやり方で相手の姿を真似て、少しだけ互いの距離を縮めているように見えます。

 

※本稿は以前別のサイトに掲載させていただいたものを改稿したものです。/あの教室でつかまえて~乃木坂46「あの教室」MV論稿~ : ノギザカッション!

*1:このMVで感じた、妄想と現実が稚拙にまじりあった青春劇として、『ハルジオンが咲く頃』の山戸祐希監督作品『5つ数えれば君の夢』、姉妹グループ欅坂46出演ドラマ『徳山大五郎を誰が殺したか?』の二つが挙げられます。こちらの二つはもう少し、思い出や夢といった漠然とした形容を避け、人間関係やリアルな学校という場所に寄り添っている印象ですが。